塵散り、波満ち、空高く






 不気味な灰色の雲を背に、鳥の影が塵のように舞う。地から引き剥がされて、どこへもゆくべなく飛ぶ。哀しい景色だと思い、鳥はなんて自由なのだろうと心が弾みもした。嵐の予兆の風の中、この乱暴な風さえ翼に受けてはばたく。風を、あの鳥は望んでいるのだ。自らの意志なのだ。
 ながさきは風の中に両腕を伸ばす。翼に風を受け、はためく袖から入り込む冷たい風は塵の悲しみ。二度と戻れないかもしれない、この地に、と胸を反らし、天を見上げる。分厚い雲はまだ頭上高くにあるが、うねりが不穏である。そこへまた鳥影が一、二。哀しくて目を閉じる。平野の姿も消える。風だけが唸る。足下がぐらりと揺れた。
「ながさき!」
 強い腕が抱き留める。目蓋を開くとさがの青ざめた顔。
「何してる」
「鳥のまね」
「もうやめろ」
 ながさきを立たせてやりながらも、さがの腕はその小さな肩を支えた。
「いいか、低い場所には近づくな。この前建ててやった家ん中におれ」
「うん」
「雨の止んだら迎えに来るけん、心配するな」
 本当は手元に置いておきたいと思っている。海からやってくる大きな嵐に生き物がなべて怯えている。その怯えがうつったかのように、この兄も怯えている。だがながさきは違った。
 ――塵は哀しい。けど。
 この風を心地良いと自分も思っている。だから帰ると言った。さがは引き留めようとしてぐっと言葉を呑んだ。自分が怯えているのに気づかれたくないのだ。
 わかってる、と答えてさがの腕の中から逃れた。
「じゃあ、わたし、帰る」
「朝まで、じっとしとれよ」
 ながさきは両腕を広げて平野を横切る。西へ向けて海岸線を駆け下りる。
 ――わたしは、鳥。
 風の中にぐいと首を突き出せば、地を蹴る足がそのまま浮き上がりそうだ。
 ――私は、塵にはならない。
 波の泡立つ海岸からは、一羽、二羽と海鳥が岩を蹴り、虚空に身を躍らせる。ながさきの遥か頭上で、鳥の影は塵となり、見えなくなる。

 海からの嵐は狂う。さがは高台の屋敷から平地を見下ろす。早稲が流される。仕方のないことだ。腹を抉られるような苦さはあるが、大丈夫だと言い聞かせる。己の平野はこの程度で死にはしない。己がここに足を踏み締めているのが何よりの証拠である。
 ――だからこそ。
 ながさきは、この嵐の前触れの下、不気味に渦巻く灰色の空の下を帰ると言った。いつも自分の袖に掴まって離れない少女が、自らさがの手を離れて西へと駆けていった。当然なのだ。そうでなければならぬのだ。地が呼んでいる。命よそこにあれと、化身たる己らがその地の上に在ることを望んでいる。ながさきもその声を聞いたに違いない。しかし。
 さがは屋敷を出る。雨に打たれながら手を翳し、南西に耳を澄ます。泣いている。叫んでいる。狂い悶える嵐の中で、己の名が呼ばれている。
 いっさんに駆け出した。躊躇いはない。ながさき!と嵐の中に呼べば、泣き声ははっきりと耳に届いた。
「さが、たすけて!」
 真っ暗な闇の中、雨がぬるぬると光る。濁流は地も川も、草木も人も、何もかもを呑み込んで夜の暗闇に狂う。
「さが!」
 呼んでいる。
「ながさき」
 夜をこじ開けるように伸ばすと、細く冷たい手がその手の中に掴まれた。さが、と叫んでながさきの細い身体が胸の中に飛び込んだ。さがは濡れて冷え切った身体を抱き締め周囲を見渡す。まだ岬にも辿り着いていない。
「家にいろと…」
 思わず怒声が口をついたが、腕の中で震える身体に怒りも消し飛んだ。さがは既に震えるばかりのながさきを負ぶい、互いの身体が離れぬよう帯できつく縛る。
「もう少し我慢しろ」
「さが…」
「心配するな」
 ながさきはがむしゃらに頷いて、走り出したさがの背中にしがみついた。
 互いの領地を己が身体と呼ぶならば、強く結ばれた今、辿り着くのが境に近い地であることは道理であると思われる。峰に奇岩聳え、その姿が雷によって明らかになる。ながさきは背中で震えたまま顔を上げず、声もない。さがは山を分け入る。樹がある。楠である。巨木である。気づいた時には既にあり、巨木であり、老木であった。根元には洞が口を開けている。天を覆い隠さんばかりの枝葉が揺れ、唸る。しかし洞の中は静かで、温かでさえあった。長年の間に降り積もった枯葉は乾いていい匂いがする。
 二人をきつく縛った帯は濡れていよいよ解けない。背中に負ぶったまま膝をつくと、ながさきの身体がだらりと揺れた。
「ながさき…」
 さがは恐れるように呼んだ。
「大丈夫や」
 背中を握り返す手。懐に呑んでいた小さな鉄の刃で帯を裂き、濡れた着物を脱ぐ。軽い音がした。枯葉の上にながさきが倒れ込む。すっかり力をなくした身体からずぶ濡れで泥の匂いのする着物を剥ぎ、腕の中に抱き締めた。
「さが…」
 ながさきは両腕でさがの身体を抱き締めながら、ぽつんと呟いた。
「こわいわ…」
 さがは冷たく濡れたながさきの身体を抱き、落ち葉を掻き寄せた。
「大丈夫だ」
 濡れた髪に手を通し、露わになった額に唇をつける。
「俺がついてる」
 ながさきは、うん…、と小さく呟いて完全に目蓋を伏せた。疲れ切った呼吸はすぐ眠りの息に変わった。さがは暗闇の中で目を凝らした。闇の中でも、目蓋を震わす寝顔が見えるようだった。
 頭上では梢が嵐に逆巻く。裂く音は雷である。しかしもう二人は震えなかった。抱き合ったまま動かなかった。命が腕の中で燃えている。大丈夫だ、とさがは胸の中で繰り返した。

 朝の匂いがした。激しい風の音は昨夜のように渦を巻かず天へ抜ける。洞の暗闇の中で身じろぎすると、腕の中の身体が声を漏らした。
「さが…?」
「出よう」
 風が吹き込む。その匂いをかいだながさきが、急にさがの腕から逃れて洞の出口に飛び出した。光が一瞬ながさきの影に塞がれ、今度は後ろ姿が光に溶けるように消える。さがは落葉の上を手探りした。着物と、小さな鉄の刃が手に触った。それを掴んで外へ出た。
「さが!」
 白い裸が幼い手も足も一杯に伸ばし、全身でもって空を指す。
「見て、晴れたわ」
「ああ」
 風が吹くと、梢に残っていた天水がきらきらと輝きながら降り注ぐ。ながさきは声を上げてそれを浴びた。
 さがは手の中の着物を広げた。ながさきの着物はところどころが切り裂かれ、血が滲んでいる。それで鉄の刃をぐるぐると包んで黙って腰に差し、上の着物を風にはためかせた。
「ながさき」
 少女は夏の朝に光る草を踏んでさがの前に戻って来た。着物を着せてやると、これはさがの着物ね、とながさきは襟元の匂いをかいだ。
 いつもは着物の袖を掴んでいる。裸の腕に袖はないから、手を繋いだ。東へ歩いて平野へ出ると、泥流の押し流した後に、遠目にも分かる人影が一つ。
「熊だわ」
 ながさきが繋いだ手をきゅっと握りしめた。
 泥濘に足を取られながら近づくと、くまもとが手を振る。
「よう、大事なかや」
「来たのか」
「俺が稲は全部流された。だっけん、お前んところば見に来た」
 ひでえな、と緑の見えない平野を見遣る。昨夜、濁流に呑まれるのを目の前で見た平野であった。早稲たちは声もなく流され、泥の下に埋もれた。ながさきが初めて自分の足下に気づいたように身体を寄せた。
「川てゆうやつは、言うことをきかんな。どやんしてん、きかん」
「溢れたか」
「俺が家も流された」
「熊、かわいそう」
「ながさきが家は、どやんや」
 少女は自分の胸に手を触れた。その腕や、裾から伸びた足に擦り傷を認め、くまもとは俯いた頭を撫でる。
 高台から見下ろす海は泥の色をしている。ながさきが恐がるかと思ったが、少女は身を乗り出して匂いをかぎ、微笑みを空に向けた。少年ら二人もつられて空を見た。海鳥が蒼天に翼を広げている。輪を描くのは、海の獲物を狙っているからだ。
「船は使いきる。海は恵みばい。ばってん、陸の水ば治めんばあかん」
「難事だ」
「せんば、稲も作りきらんだろうが」
「そうだな」
「火は、仲のよかつばってんな」
「この前、恐がってここまで走って来たのは誰だ」
「あれは、お前、見てみろ、びっくりするとぞ!」
 海の上に火が立ち並ぶ様子をくまもとは熱弁する。さがは何度か聞くそれを聞いてやりながら、ながさきの背を見ている。ながさきは腕を天へ伸ばしている。さがの着せてやった着物の袖をはためかせ、鳥の翼のように風を受けている。




2015.7.21 しゃさんの県擬の二次。