奈良の九州征伐記(ながさが編)






 男は目を細めた。数多のいくさ船を率いて降り立った顔には見覚えがあった。幼さの残る顔立ちに、瞳がぎらぎらと燃えている。弟とも呼べる男だった。事実、一つの魂として生まれた彼方の記憶があった。彼らは一つの顔を持ち、天つ神より生まれた子供達だった。海を隔てていつも笑っているあの、顔。弟の背後に目を転じれば、船を下りてよりそこから動かない不気味な影がある。体躯は己や弟よりも頑丈に見えた。上背があり、遠く離れているのにその圧力を感じた。手にした剣が篝火に光る。十束剣に、髪を結うのは八尺瓊のあれとなれば正体は知れる。
 とうとう来たか、という呟きは胸に仕舞い、ただ背後を思った。連なる山の麓に待つ妹を思えば、いくさ船とて、朝廷とて、弟とて恐れるものではない。剣を抜き放つ。
「ごさんなれ」
 それを合図にくまもとが雄叫びとともに斬りかかった。刃で受ける。散った火花が篝火より明るく互いの顔を照らし出した。鉄の交わる音。相手は力で押す。毎度のことだ。流せば刃は滑る。くまもとは体勢を崩す。
 ――甘い。
 無防備な首に叩きつけようとした。そこに迷いはなかったが、この迷いのなさは弟も感じるところであったか。くまもとは泥の中を転がり刃を躱す。戦装束は泥にまみれたが、その顔は笑っていた。
「めずらしかな。やる気か」
 軽口に応える気はない。今度はこちらから踏み込む。泥濘。だが己の土地だ。自在。一撃、二撃と打ち込めば、受ける。が、くまもとの足は下がった。弾き飛ばす。
 ごろごろと転がる身体は滑り、佇む影の足下に尻をついて倒れた。
「息巻いてそのざまか」
「ああ? うるさか。黙って見とれよ」
 遣り取りが耳元で聞くように聞こえる。その声にぞっとした。
「貸せ。手本を見せてやる」
 影が一歩踏み出した。篝火にその姿がはっきりと見えた。奈良は足下に倒れた泥まみれの男から剣を奪い取る。そして一振り。海へ向けて薙いだ。
 刃が風を呑んだように見えた。一薙ぎされた海面にぞろりと火が浮かび出た。さがは息を呑んだ。同時に、山麓からいくさの様子を眺める妹が小さく声を上げるのを胸に聞いた。泥濘に転がる男も、背後に燃える火に呆然としていた。さもありなん、あれはこの男が畏れてきた火である。畏れるが故に敬う火である。それを意のままに灯すなど。まして。
 再び振られた刃は今度は巻き起こした風で火を呑んだ。水平線に並ぶ火は一度に消滅し、篝火までも消え、いくさばに闇が落ちた。
 息が耳元を掠めた。さがはぞっと背を粟立たせた。嗤った、のか。
 刃は天から地へ振り下ろされた。凝る暗闇は轟き、身を震わせる。それはさがの頭を軋ませた。泥の上でくまもとの呻く声が聞こえた。
「さがよ、お前も覚えておけ。神の力とはこう使うのだ」
 カッと天が明るくなった。振り向き、さがは言葉を失った。天から火が降る。山の猛り吐き出す火とはまた違っていた。それは天に輝く日輪から落ちてきたような、白く灼けた火だった。降る。雨のように。天から。山の上から。
 さがは敵に背を向け走り出した。山麓は今や真昼のように明々と照らされている。背後で弟が叫ぶ。背に火がぶつかっても足を止めることはならなかった。
 ――ながさき。
 泥の上に残されたくまもとは、兄の走り去る先に燃える地を、山を見た。その中に人が焼けて舞うのも、見た。その脇を奈良の足が踏みすぎる。目の前には剣が投げ出された。奈良の手は十束剣を抜いていた。
「おれも行く…」
 立ち上がろうとするが、顔面から泥に突っ込む。身体中から力が抜ける。自分の力が使われているのだ。あの火。海の火だ。それは、時たま兄妹に見せてやるくらいはしたが、しかし自分のものだった。くまもとだけの美しい火のはずであった。それが軽々と奪われ、陸に上げられた。確かにこの男は強い。これから己の兄も足下にするだろう。従わざるを得ない。手を結ぶのでなければ、次に焼かれるのはこの身だ。数多の鉄で切り裂かれ、奪われたこの火で焼かれる。だが。
「待て!」
 くまもとは叫んだ。
「おれも行く!」
 火の降る只中、奈良は少しだけ待った。くまもとは這いずり、剣を杖にし立ち上がった。火は己の頭上をも掠める。恐れるな、とくまもとは己の胸に言い聞かせた。これはおれの火だ。剣を頭上に三度降る。闇雲な動作だったが、火が止んだ。しかし燃え移った村も、山も、燃え続けていた。奈良が黙って歩き出した。くまもとはその後に続いて一歩一歩、泥濘を踏み締めた。

 火の匂いが漂う。焼け爛れる肉の匂いである。炎の余韻が少女の頬を赤く焼く。少女は敷物の上に立ち上がり、じっとこちらを凝視した。
「もう、やめるの」
 細い手に刃を握っている。
「いくさは、終わったの」
「ここにいろと言ったろう」
「言った。だから出ていない。でもおまえが斃れたらあたしがここを守らないと…」
「その必要はない」
 男は少女の前に膝を突いた。戦装束ががちゃがちゃと音を立てる。少女が顔をしかめた。火の匂いだ。火に焼かれた匂い。肉も骨も炭になる嫌な匂い。それに血の匂い。
「もう戦わずともいい。なに、おれとおまえが死ぬようなことはない」
「にんげんはどうなるの」
「あれらも死なんさ。もっと頭のいい奴らが都から来て治めるだろう。それも悪くない」
「本当に」
 青ざめた頬に手を触れ、男は返り血の飛ぶ頬を持ち上げ笑みのようなものを作った。
「所詮、にんげんなぞ、あんな壊れやすい生き物なんぞ、恐れるに足るものかよ」
 何が来たとて俺とお前が変わることなぞありはせんさ。そう語りかける男は己の笑みの陰惨さに気づかない。
「俺たちが死ぬことなんぞ、あろうものか」
 少女は刃を鞘に収めると見せて袖を切り裂いた。男が目を丸くする前で口を使って細く裂き、手元は鞘を見もせず刃を収める。白い手が兜を脱がせた。乱れた髪がばらりと落ちた。赤く流れ出すものが頬を濡らす。ひびの入った兜はがらんと音を立てて床に転がった。少女は額の傷口を舐めて清め袖を裂いた白い布を巻き付けた。
「血が…」
 少女の唇は赤く濡れている。白い手がそれを拭う前に男は少女の身体を抱き寄せ、自分の舌でそれを舐め取った。
「ねえ、教えて」
 抱き締められながら少女は尋ねた。
「いくさには、勝ったの。負けたの」
「負けたよ…」
 迷うでなく、疲労のまま、事実だけが舌から押し出された。少女は手を伸ばして知った。男の背中は一面焼け焦げていた。
「さが」
 薄赤い唇を綻ばせ、少女は呼んだ。
「こわいわ、さが…」
「大丈夫だ」
 きつく、細い身体が悲鳴を上げるほど男は少女を抱き締めた。
「何も、恐ろしい目になぞ遭わせるものか、おまえを」
 少女は頷き、さがの耳元に息を吐いた。
 火は山へ降ったものである。屋敷の内には不気味な音が響いていた。炎が岩を砕く音であった。生木の裂かれる音であった。鉄は肉を突き破り骨を断った。潜んでいた人間どもの断末の悲鳴は絶えることなく地に染みた。戦の騒鳴が山を震わせていた。平地は死の沈黙のうちに横たわっていた。
 焼け焦げ煤だらけの袖がながさきに覆い被さった。ながさきは自分を抱き締める青年の腰にしがみつき、じっと視線を共にしていた。恐ろしいと言った。だが震えはなかった。熱がかっかと上がり、火傷をしたさがの身にさえ熱い。そっと見下ろせばほつれ髪のはりついた額も目元も真っ赤に染まっている。さがは少女の小さな肩を強く抱き寄せ、迫り来る足音を待った。それは急かず、昂ぶらず、焼けた大地を踏み締め踏み締め、この山を登って来る。
「吾が妹よ」
 さがは囁いた。
「離れるな」
 懐に青銅の短剣を呑んだながさきは、こっくりと一つ頷いた。
 戸が破られ、見えたのは赤い大地だった。炎は熄まず消えるようすがない。それは己の身体にも分かる。肉体の内から焼かれている。人の火ではない。ただの戦火ではないのだ。
 奈良の足が目の前にあった。鉄の刃が眼前を掠め床を貫く。見上げると、その目は己らを見下ろしていた。その目に己ら二人の姿が映っていることを、さがは不思議に思った。殺すのではないのか、と。見下ろす眸は清くさえ見える。戦火にも濁らぬ澄んだ眼差しである。
「おまえたち」
 奈良が重たく口を開いた。
「きっと、俺に忠誠を誓うだろうな。永年を俺に仕え、俺を護る為に尽くすと約束するだろうな」
 一言一言がぐいとさがの臓腑を掴んだ。冷たい指で掴まれ、息が止まった。次に一言発すれば、臓腑は握り潰されるだろうと思った。腕の中でながさきの身体が震え始めていた。既に息が止まり、涙が溢れ出していた。とうとうと川のように流れる涙だった。
「仕え奉らん」
 さがが手を突き、頭を下げた。腕の中に抱き込んだながさきの身体も伏し、ただ震えていた。
「もう、いいな!」
 がらがらと割れた叫びが戸から響く。地より声を投げる者がある。奈良が床から剣を抜き、背後に投げた。地に侍っていた者はその剣で山を薙いだ。山を吹き下ろす風は平地を舐め、全ての火を消し尽くした。戦地を闇と静寂が呑み込んだ。生きる者の声はなかった。焼かれた者は死に絶え泥に沈んで悲鳴を止めた。松明の火が近づいた。くまもとのうち沈んだ顔が浮かび上がった。奈良の面は静かだった。元より何事も起こらず、ただ己の領土を踏んだがように。
 それは、不意のことであった。
 剣を手放した手は無造作に少女の黒髪を掴んだ。まるで物を掴むような仕草で、あまりに不意に行われたことであり、さがは腕の中の少女が引き摺り出されて血相を変えた。くまもとの顔が強張った。
「何を…!」
 さがは追い縋ったが両脚が石のように重い。奈良は今更何を問うのかという顔さえしない。少女の細い足が暴れ、手が伸ばされる。
「さが!」
 両眼から大粒の涙が散る。
「痛い…、やめて、助けて、こわいわ。さが、助けて!」
「ながさき!」
「おとなしく見ておれぬか」
 その言葉に表情が変わったのはさがだけではなかった。くまもとが声を上げようとして、奈良が振り返りもせず払った手に吹き飛ばされた。床を転がり階段を落ちて頭から泥に突っ込む。それが駆け上がってくる前に戸はぴたりと閉じた。
 激しく戸が敲かれる。固く閉じた向こうから振り絞った銅鑼声が叫ぶ。
「ながさき! 目ばつぶれ!」
 ちらりと振り返った奈良が、喧しい男だ、と呟いた。さがはその足下に取り縋る。
「おれが…、おれが代わりに」
「前か後かというだけの話だ」
 敷物の上で奈良は手を離し、尻をついたながさきが悲鳴を上げた。
「それでも…!」
 叫ぶさがを蹴り飛ばし、奈良は少女の懐から掴みだした短剣を投げた。厚い刃は手の甲を貫き、さがを床に縫いとめた。
「見ておれと、俺は言った」
 着物を剥ぎ取られた少女の裸体を、さがは見た。壁の隙間から差す大火の漏れ火が血の気を失った青白い裸身を明々と染めた。奈良は少女の細い足首を掴み上げ、まじまじと尻を見下ろした。小さな溜息を、二人は聞いた。
 ながさきは目を瞑っていた。さがは目蓋を閉じることができず、それを見つめ続けていた。細い指がかりかりと敷物を掻いた。吐き出す息にまじる涙はなかった。枯れたではない。凌された途端に涙は止んでいた。目蓋は堅く閉じ、唇はもうさがの名前を呼ばなかった。しかしその手は今も自分に向かって伸びている。さがは己の手を貫く短剣の柄を、ようやくもう片手で掴んだ。堅い。だが渾身の力を込めて引く。それは痛みを与えながら尚もさがの手に食い込もうとしていた。歯を噛み締め一気に引き抜いた。血飛沫が円を描いて舞い、伸ばされた少女の手を濡らした。
「ながさき…」
 少女は薄く目蓋を開いた。それがさがの姿を捉えたかは分からなかった。血に濡れた手は掻くのを止め、強く握り締められた。
 後ろを向けと言われた。這えと言われた。自ら焼け焦げた衣を脱ぎ、さがは命令に従った。
 衣は今、ながさきの身体を包んでいた。室の隅に横たわり、ながさきは目蓋を閉じていた。全く動かない。しかし呼吸はある。征服はされた。故に護られる領土でもある。やがて深い眠りに落ちるだろう。休息をせねばならぬ。新たに朝廷の領土として目覚めねばならぬ。さがはながさきの姿だけを見ていた。
 ふと、その目が開いたように見えた。光を失った瞳をさがは見つめた。その目が、自分を見たように思えた。微笑んだようにも見えた。火が明々と照らす加減かもしれぬ。作り出した影の見せた偽りの表情かもしれぬ。背後では奈良が溜息を吐く。落胆の溜息であった。




2015 しゃさんの県擬の二次。