熱は重し、釣果は無し






 影はそこここに見うけられるが釣果ときたらさっぱりである。どいつもこいつもこちらの投げるかぎ針を嗤っている。昔はこうではなかったとむきになったのがいけなかった。そも、ここで大量になればかの女を呼び寄せる口実になるやもしれぬという動機から不純であったと今なら反省もできるのだが。果たして日の没した、よく晴れた昼間であったから、ぽっかり開いた天は日が暮れたことにも気づかぬ明るさであった。薄い水色に抜ける天はまったく無邪気であった。まだ遊べと誘うようであり、それを反射する泥濘の上でぴちぴちと鰓を持つものが跳ねた。日暮れを知るは泥濘に半身を沈めた佐賀と、切れ切れに天を漂う雲ばかりであった。西の側は明るい朱鷺色に染められ、影が涼しげに暗い。夏の陽であるから暮れても尚明るいが、夜は干潟の底からぞろぞろと這い上がるようであった。空の魚籃に空の手、釣り竿だけ握り締め、潟の上を岸へ走る。板橇の残した軌跡へ、むつごろうが真新しい足跡を残した。
 日の沈む方に住むかの女を呼び寄せる口実もなく、己の夕飯もない。家に戻れば米があるが炊くのが億劫であった。徒労を感じていた。不純な動機から始まる空回りの空手であった。満たされぬは腹ばかりではない。珍しく酒をと思う。碗に一杯、啜って寝てしまおうと思う。およそ良い飲み方ではなく、その一杯が宿酔を招くような気がしていたが、構うか。ええいと乱暴にブレーキを踏み、軽トラを車庫に突っ込む。荷台の釣り具さえ片付けず、捨て鉢な足取りで庭に出ると耳に騒がしい鶏の声。門から猫が狙っている。黙って石を蹴り上げ追い払えば、やれやれ荒れているな、と声を上げたは猫でなく己の心でなく、玄関先に佇む男であった。
「釣果はゼロと見たぞ。猫に八つ当たりとは情けない」
「何をしに来た」
 目の前に立てば己が上背はある。が、目の前の男は臆せぬ。堂々としている。視線は柔らかである。微笑もまた。 福岡は煙管を唇から離し、ふっと煙を吹きかけた。
「ご挨拶だ、隣人に向かって」
「隣家でも構えてから言うがいい」
「構えてやってもいい」
「馬鹿を」
「まず鳥栖をもらおうか」
 佐賀は冗談を連ねる男を無視して玄関の戸を開けようとするが、鍵が回らない。落としてしまった。腰をかがめたが、先に白い手が拾い上げた。
 じっ、と下から見つめる瞳は、黒ではあろうが、佐賀は時々濁流と見る。渦巻く川の轟く海の濁り入り交じった黒を見る。それを優しい紗で包み、福岡は片頬に微笑を浮かべるのである。ふぅん、と男は笑った。
「汗くさいぞ」
「帰れ」
 肩を掴まれた。白粉の香りがした。香水であろうと思う間に、冷たい息がかかる。
「泥がついている」
 舌がべろりと舐めて頬に乾いた泥を舐め取る。
「…泥だぞ」
「泥だな」
 福岡はしばらく舌の上でその味を弄び、ペッと庭に吐き捨てた。
「さあ、早く風呂に入ってこい」
「何だと」
「汗くさいのは、御免だ」
 主より先に下駄を脱ぎ、男は座敷に向かって消える。抹香臭いと声が上がる。佐賀は己の襟元をかぐ。確かめる間でもなく汗くさい。
 火傷するほど熱い湯を使えば、熱気の残る夏の夕も涼しい。凪が終わって風が吹き始めれば、それは楠の梢を渡り、稲田を渡り、爽やかな匂いを含む。シャツのボタンを上まで留め、己の姿を鏡に見た。女を誘うには努力が必要だ。男を誘うような色香はない。存じている。物好きな男だと鏡から目を逸らす。
 座敷ではその男が先にやっている。焼酎の香である。得意ではない。だが氷がコップに汗をかかせ、ゆっくりととけて崩れる様を見ると喉が鳴る。一杯だけ、と福岡の注ぐまま、飲んだ。福岡は愉快そうだった。長崎を呼ぶつもりだったんだろうと図星を言った。来るものか、とやけに自信ありげであった。
「貴様もふられたか」
「お前は冗談も下手だ」
 重ねる杯は何杯目であろうか。目元指先と言わず、首まで赤い、腕まで赤い。だが呑まれてはいない。上機嫌である。自分はもう呑まれかけている。コップを置く、頭の置くに響いたコツリという音が既に宿酔と頭痛の予兆を引き摺っている。
「楽しまないからいけない。今日も仏頂面で出掛けたんだろう。だからいけない。そんなつまらん針にかかるもんかい」
 ぐいと肩を引き寄せられる。かかる息は熱い。
「楽しまずして何が得られようか…」
 語尾が耳を食んだ。佐賀は目を瞑った。頬を吸われ、舐められて、邪魔だ、と男の声に文句を言われた。眼鏡を外すと微笑が目元を擽った。
 身体を重ねるのは初めてではない。妹のいた頃からあった関係であった。妹とのそれは営みであり、朝廷から受けたそれが屈従と支配の証とするならば、福岡の触れる手はあの年若い頃から今に至るまでただ快楽をのみ求めるもので、佐賀はそれがあまり好かない。心伴わずともある悦楽を是とすることができない。重ねてきた経験は、魂あってこそそれを善しとするものであり、その恋には命さえ懸ける。よって道に適う恋であると思う。たとえ命を産まずとも、より高まる精神が道を継ぐ。よって是である。佐賀の考える男の関係とはこのようなものである。肉欲と悦楽ばかり追い求めるのは…。
「いやか?」
 男は濡れた手で佐賀の尻をなぞる。
「いやと思うなら、それはお前が感じている証拠だぜ。お前はいつだって理由をつけたがる。気持ちいいのが怖いのだ。だが、もっと強がっていいぞ」
 男の微笑は色に溶ける。
「たまには、こういうのもいいんだ。俺にも」




2015.8.16 しゃさんの県擬の二次。