護られなかった女




 朱色の蒲団がこんもりと山になっている。女は行灯あかりの下、気怠そうに横たわっていた。目の上を覆う白い腕の下で瞼はほとんど伏せられ、光のない瞳は眠ることさえ憂いと呟くようだった。赤い唇が僅かに開いている。浅い息が出入りする。ぬるい息だった。
 蒲団の下には男がいた。男の持ち物が丁寧に整え揃えられているのを女の瞳は見ていた。着物の上で眼鏡のレンズが光るのも見た。女はそれを打ち割ってやりたいと思っていた。今度、この男を蒲団の中に迎え入れる時は掴んで、取り上げて、投げ棄て割ってやろうと。それは叶わなかった。男は眼鏡を外し丁寧に置いた。その手つきがどれだけ丁寧であったか、女は知っている。今、それより丁寧に扱われているのも分かっている。だから何だと言うのだろう。瑕が元に戻るとでも。
 瑕を負っても玉。されど瑕のある玉。
瑕。瑕。瑕。
疵。
傷。
誰かに触れられ瑕がつくなど、分かりきっていたこと。まして男だ。触れる側がそれを知らぬはずがあるまい。
 この瑕はたとえ己という存在が消滅しても、語る人間のいる限り、この世から消えない長崎の瑕だ。女は遠い未来を思った。海と空ばかりの明るい天地に語らう人間のいなくなった時、海の底でようやく安らぐ己の魂を思った。だから、どれだけ舐められたとて清められるものではない。白い足の間に蹲る男。こんもりとした朱色の蒲団の山を作る男の頭を太腿で挟む。しかし男は膝の裏に手を這わせ、持ち上げた太腿の内側にも熱心に舌を這わせるのだった。
 ――馬鹿な男。
 声を出してやることもない。憂さを隠さず長崎は足に籠めた力を抜いた。男の舌が離れた。もそもそと蒲団が捲れ、ぎょろ目の男が顔を出す。手の甲で口元を拭う。長崎は自分の陰毛が口の端についている様など見たくないから今度こそ腕の影で目を瞑る。
「嫌か」
 返事をしてやることもない。蒲団に入れてやった。それだけで充分なのだ。その先だなどと本来ならば図々しい。
 でも自分と佐賀だから、仕方ない。仕方のない行為は憂い。長崎は溜息さえ漏らさない。感じているなどと勘違いされれば鬱陶しいことこの上ない。
「ながさき」
 腫れ物に触れるように男は呼んだ。長崎は返事をしなかった。ぬるい息さえ吐かなかった。瞼の裏は闇。佐賀の声は転がる小石。ごつごつとぶっきらぼうで、ああ、せっかく蒲団の上で寝ているのに寝心地の悪いったら。
 だが男は退かない。女も拒みはしない。したければすればいい。己と佐賀のことであるから、それは仕方ないのだ。
 男の手はまだ太腿に触れていた。開かれて、ひやりと冷たい夜気に触れる。触れる男の手は熱いが。
 ――うちの身体は冷たい。
 今夜は寒い。火鉢の熱も遠い。行灯あかりは瞼の向こう。寒く、暗く、憂い闇。
 男の手が内股を滑る。再び屈み込んだ男の息が触れる。もうやめて、と声を漏らしかけた時、男が唇を触れさせたと知った。
「人間が」
 ぼつぼつとぶつ切りの言葉が聞こえた。
「観音、て、言うどが。ここ。観音て。おれは何が、て。こやんとの何が観音てや、て。腹の底で笑いよったが…」
 指先が触れる。形をなぞる。
 ――やめて。
 足を閉じようとしたが男の手はぐいとそれを押さえ、逆に白い内股に歯を立てる。ながさき、と掠れた声が熱っぽさを隠さず名前を呼んだ。
「もう、おれは、絶対、あやんこつは、させん。させんけんが、赦せ、赦せ……」
 触れる手が痛い。がさついた傷。引き攣った手の皮が白い肌を撫でる。唇が吸いつく。音が聞こえる。ちりり、と肌の下で血が鳴る。
 ――…嫌だわ。
 男はどうしてもするだろう。女もしないとはこれっぽっちも思っていない。ただ舐められてもちっとも湿りもしなかったそこが僅かに濡れる予兆に、己の身体を汚いとさえ思った。
 ――それでもうちはこの男と寝る。
 汚れろ。瑕の中で血に濡れろ。犯すように犯されればいい。赦すなどと嘘でも気休めでも言ってやるつもりはない。たとえ赦す日が来てもきっと言わないだろう。差し入れながら男が低く呻く。女は薄く目を開けた。
「嗤え」
 痛みい顔をしかめながら男が言った。
「嫌よ」
 痛みに涙を滲ませながら女が答えた。
 再び両腕で顔を隠し、女は囁いた。
「いやよ……」


護れなかった男




 潮の香が過ぎる。ふと障子の隙間に目を遣った隙に女の身体は腕の中からすり抜けていた。汗に濡れた身体が、まるで何事もなかったかのように、灯りからわずかに外れた薄暗がりで、その肌をぼんやりと白く光らせている。それさえ引き寄せられた襦袢にするりと隠れてしまう。福岡は諦めて頬杖を突き、女が化粧を直すのを眺めた。化粧だと。もう夜更けだ。これから寝るしかあるまいに。このまま二つ枕で寝たって構わない、否そうすべきはずだろうに。
 手を伸ばして足の裏を擽ると、やめて、と小さな声が厳しく咎めた。
「何してる」
「何故、そこにいるの」
「化粧なんかして」
「私、眠るわ」
「禅問答だな」
 寝るならこっちに来いよと襦袢の裾を引っ張れば、女の裸は簡単に露わになった。白い太腿。しっとりと重たい乳房。しかし福岡はその下に見て取る。さっきまで汗に濡れていた肌がさっと乾き、冷えて、粉を吹いたようになる。あの柔らかな肌が。潮の香り、夜の灯り、海面に反射する優しい陽の光を孕んだかのような肌が、枯れ落葉のように乾く。その下で肉は引き攣れ、凝り、鳥肌を立たせる。
「長崎」
 その名を呼ぶと、女はまるで憎い仇でも見るように振り返った。しかし怯まない。恐ろしくなどない。むしろ哀しくさえある。
「おいで」
「いや」
 もう一回、いや今夜中…。引っ張られた襦袢を取り返そうと女が姿勢を崩す。福岡は露わになった足首を両手でいただき、足の裏に唇を付ける。足指の先から吸うと女の身体が否応なしに震えるのが分かった。膝を割り、膝の裏に吸いつき、白い太腿を唇で食む。
 女は観念する。それが関係だからである。身体を開くのも、委ねるのも。唇を受け入れ、舌を受け入れるのも。手も指も、触れる全て拒絶する術はない。拒絶など…考えたこともなかったのだ。先の事件までは。
 福岡は女の身体を蒲団の中に引き摺り込み、温かく薄暗い暗がりの下で唇を吸う。女は応える。乳房の先を口に含めば、女は小さな声を漏らす。
 ふと。今まで考えもしなかったことが頭を掠めた。
 いいや考えたことはあったろうか。想像したろうか。想像しても気にしなかったのか、それが当たり前のことだったのか。
「なあ」
 女の乳房から唇を離し、尋ねる。
「あいつにも喘いでみせるのか」
 あいつとは、と女は尋ね返さなかった。二人の間で、褥の中で、あいつと言えば一人をしか指さない。
「嫉妬?」
 暗がりの中で女が笑った。
「好奇心」
「嘘よ」
「嘘なんか」
「どうかしら」
 嫉妬などするはずがない。また技に関していえば己の方が上であろうと自負している。間違いではあるまい。なのに。その光景は頭を掠めた。枕を弾き飛ばす手。乱れる髪。白い指が這う。女が喘ぐ。
「長崎」
「今更、何が気に入らないの」
 パッと蒲団をはねのけ、女の顔を見た。そばめられた目。冷たい表情は美しい。だが、薄く歪んでいる。
 福岡は唇の端を少し持ち上げ、笑った。
「ただの好奇心だ」
 忘れろ、と。唇は優しく女の目元に落ちた。女は目を伏せた。両手が持ち上がり、男の背を抱いた。灯りが邪魔だ。そう思って手を伸ばせば隙間風が火を消した。夜闇の中で女はもう物を言わない。
 嫉妬ではない。もう一度福岡は思った。しかし女が傷ついているのが、震えているのが福岡にはよく分かった。
 俺ならば、と思わずにはいられなかったのだ。
 当番が自分であれば決してこのような目には遭わせなかった。いっそこの女を自分の中に取り込んでしまえたら。己の身体の一部にして愛せたら。震える冷たい女の肌に触れると、そう思わずにはいられないのだ。
 だがこの女は俺のものではない。佐賀のものでないのと同じように俺のものにもならない。天領。豊かな海と輝く港。たとえ白い身体をこの腕に抱こうと、彼女の魂は深く遠いこの国の根に繋がれている。
 長崎、と囁いてゆっくりと身体を沈める。自分の形ではない。だが熱い。しっかりと自分を包み込む。優しい。柔らかい。ああ、女だ。
 女が鼻にかかる息をもらした。いいか、と尋ねようとして福岡は口を噤んだ。しかし女の腕は福岡の首に絡みついた。強い力が抱き寄せ、熱く湿った息が耳に吐きかけられた。
「いいわ」
 思わずにやけた。福岡はそれを隠さなかった。唇を重ね、よりぴったりと身体を重ね合わせ女の唇から吐息を引き出した。少しはいい気分にもなる。当然だった。長崎が、同じ科白を佐賀に言ったはずがない。




2014.12〜2015.1 しゃさんの県擬の二次。フェートン号事件後。