俺を抱いてくれ






 梅を待つ。
 空は暗い曇天の、寒の厳しい日暮れである。陽の気配のなかりせば、いつが昼やら夕やらと、ぼんやりするのは天の色ばかりでない。杯を片手に縁の柱にもたれかかり瀬戸内の海を眺むる男はすっかり生気のない首を傾けている。眸はただ暗く、濁った雫がそのまま地に落ちるものではあるまいかと、大分はぬるくなった徳利を抱き、思った。
 男が訪れたは昼過ぎのことで、飯はと言うと首を横に振る。お天道様が隠れているから堂々と悪いことをしてやろう。大分はそうおどけて燗をつけたのであるが、男、福岡はいつもの気配を見せず、色なく、精なく、項垂れるばかりである。あまりに客が動かぬものだから、上燗をこのまま冷ますのは勿体ない、一口でも自分が呑もうと空の杯を掴んだままの福岡の手に触れた。すると小さな声が、豊、と呼んだ。
 らしくもないと笑うのは薄情に思われた。その、らしくない姿を福岡が己以外の誰に見せるだろう。大分はぬるくなり始めた酒を杯にそっと流し込む。福岡は口元まで運んで水面に溜息を吹きかけ、再び腕を下ろした。勿体ないと思ったが、もう何も言わぬが大分であった。これは福岡のための酒である。彼のものだった。何も言うまい。
 曇天の暗さがいつの間にか屋形を呑み込んで、気づけば暗い。行灯に火を入れるたが、福岡は尚も動かなかった。囚われるのは寒々しい闇にか、見慣れぬ海にであろうか。
「筑紫」
 懐かしい名で呼ぶが振り返らない。
「福岡」
 身体が倒れるかと思うほど傾いた。杯が遠ざけられ、背にのしかかる見えぬ重石に耐えるかのように福岡は息をしていた。
「気分が悪いの。横になるかい」
「豊…」
 おれは、という声はそこで途切れた。その先を言うことを、福岡自身恐れているようだった。
 死の匂いが、福岡の纏う夜気からどろりと溢れて大分の鼻先を掠めた。陽が照らぬのは冬だからではなかった。春も夏も陽が足りぬ。秋に刈り取るべき米はない。これが、幾年続いているだろう。
 梅を待つ。待っている。梅が咲けば、新しい春が来る。しかし咲かねばどうなる。水の涸れた田はどうなる。飢えた民草はどうなる。この身は、この腕はどうなる。痩せた腕が大分の胸を掴む。季節が巡ればこの男は再び西に向かう。かの女の待つ岬へ。空きっ腹に、誇りだけを背負って。そこで、この腕は役に立つのか。護りきれるのか。
 男の言葉にしなかった思いを、握り締められた着物の皺に見る。痩せた白い項に見る。
「できるさ」
 大分は熱を分けるように福岡の頬に触れる。
「護れるよ、君なら」
「ばってん、おいが、あん時、港におったとして…」
「君なら護りきれた。英吉利の船も大砲で追い払って、きっと長崎を護ったさ」
「お豊」
「嘘じゃなかよ」
 髻から女の簪をするりと引き抜いて、きっとさ、と大分は繰り返した。
 簪は杯の上に橋渡されている。座敷に転がった福岡は乱れ髪のままそれを眺めている。大分はその隣に寄り添って、指で髪を梳く。頭を撫でられ、男が気持ちよさそうに目蓋を閉じた。
「豊」
「うん」
「一本、つけてやらんか」
「うん」
 大分は微笑んだが、動かず、福岡にもたれかかる。
「後でね」




2015.8.17 しゃさんの県擬の二次。