イマスグアイタイ






『イマスグアイタイ』
 電報が届いたのは薄暮の青い景色と海の波音が交じり合う心地よい宵で、日中には熱かった風もひやりと涼しい。古い呼び鈴が鳴り玄関を開けてみれば涼風は後れ毛を揺らし、空から伸びた手に頬をなぜられたようだった。心地よさにうっとりした一瞬、目を細めた。門の外には襷をかけた電報局の局員が待っている。ごめんなさい、と明かりをつけ電報を受け取った。白い紙に八文字並ぶ。今すぐ会いたい。その言葉を胸に抱き、高台から長崎の町、ぽつぽつと明かりの灯る港を見下ろす。果たしてどこから現れるものかと思って。
 門戸の明かりは点したまま、テラスの広い窓を開け夜風に当たる。電報は胸の上でカサカサと鳴る。無論、居間には電話もあったし、携帯型のそれを持たなくもない。しかしかつての最新技術を、長崎は愛しげに抱いた。これを初めて使ったのは佐賀戦争の折だ。それから西南戦争。あの騒乱の中飛び込んできた言葉はやはり不思議なものに思えた。電信局から到着したそれを手にした時、送り主の声が耳元で聞こえるようだった。今の長崎の耳にも、今すぐ会いたいという子供のように頑是無く熱っぽい声が聞こえてくる。
 古い電信も余さずとってあるはずだ。しかしクローゼットの中、クッキーの空き箱の中、すぐには見つけ出せないかもしれない。今すぐ読みたいのに。そう思って立ち上がった時、門のノッカーを乱暴に叩く音がした。返事をする前に、長崎、と呼ばれた。長崎は電報をテーブルの上に置いて外へ出た。
 荒い息が宵の空気をざわつかせる。ランプ型の明かりに照らされて、熊本の顔は真っ赤だった。学生服を着ているのは珍しい。最近、何か戦争でもあったかしら。
 笑える冗談ではなかったが、決死の瞳はこの前の戦争で見たものそっくりだった。あるいはその前の戦争だった。門を開けると思い詰めた瞳がぐいと一歩近づいた。
「長崎」
 熊本が僅かに低い視線から見上げる。
「電報、来たや」
「ええ」
「読んだや」
「ええ」
「おっのこと、待っとったか」
 うん、と小さく頷くと熊本は今にも抱きつきそうに大きく一歩近づき、手に抱えたものに気づいて腕を引っ込めた。長崎も僅かに後ずさった。冷たい風が吹き抜ける。庭の紫陽花の葉が鳴る。額紫陽花である。薄水色の花が既に一塊、色づいている。長崎は視線を逸らし、紫陽花の花に手を添えた。
「会ったわ」
「え?」
「これからどうするの」
 熊本は包みを抱え直した。白木綿に包まれた、それが太刀だとは気配で分かっていた。
「おっがお前んこつば好きてゆうたとば覚えとるや」
「ええ」
「長崎…」
 木綿の端から柄が覗くように、熊本の声は凄味を増す。
「おっじゃなかとは、しょうがなか。鎖国ん時も守ってやれんかった。維新も、そん後もたい。おっば好きになれち言うても無理だろたい。ばってん、百歩譲って何で福岡じゃなかつや。なんであの眼鏡か」
「…何の話?」
「なんで佐賀のことば好くとか」
「私、彼を好きだなんて一度も言ったことないわ」
「嘘ば…」
「嘘じゃなくてよ」
 熊本は黙り込む。長崎は顔を上げ熊本を見た。
「どうしたの。嫉妬心に駆られたのが理由? それで私に会いたかったの?」
 深呼吸が聞こえた。今や抜き身をぶら下げているような熊本だったが、殺気はなかった。
「お前ば抱きたか」
「情緒のない人」
「おっはもう三百年も四百年も前から考えよる」
「どうりで、最近阿蘇が噴火する訳ね」
 本当にそやんかもしれんたい、と熊本は声を落ち着かせた。ああ、と溜息が漏れた。
「会えば、足らん」
「帰ってちょうだい」
 ええ?と情けない声が漏れる。
「泊めっやらんとや」
「泊める方が酷ではなくて?」
「もうフェリーもなかとぞ」
「ホテルがあるじゃない」
「佐賀て思っとったっだろ。そっが、俺の来たけんが…」
「馬鹿ね」
 長崎は笑った。
「ちゃんと熊本電報局発信だったじゃない」
 太刀に白木綿を巻き直し、熊本は門まで下がった。
「心中でもするつもりだったの?」
「たまたま…」
 熊本は掴んだそれを見下ろした。
「たまたまこいつば手入れしよったら、もう昔の話たい、佐賀戦争ん時、長崎の港ば守れて船ば出して、おっもこいつば掴んでから走って、そっば思い出したら死ぬごたる気のしてから」
「寂しかったの?」
「わっが好きとたい、おっは。だっけん会いたかったっだん」
 坂を下る学生服の後ろ姿を見送り、長崎は門の脇にもたれた。瞳は虚ろに空を見上げた。濃紺の空に針で刺したような銀の星が輝いている。何もかも冷たい風に洗われて冴え冴えとしている。
「私…」
 紅を落としていない唇が微かに動いた。
「言ったことなんかないはずだわ、好きだなんて、嘘よ、言ってないわ…」
 そんなはずはなかった。嘘だと分かっていた。
「どうして、あなたなのよ」
 背中は坂道を遠ざかる。だが追いかけない。追いかけられない。佐賀が去ってゆく時でさえ自分は追いかけなかった。ああ、と嘆息し長崎はその場にしゃがみ込んだ。こんな宵のはずではなかったと呟き、小さく泣いた。




2015.5.26 しゃさんの県擬の二次。