小倉戦記






 朝からぱらついた小雨が止んで、むっとした熱気が鼻をつく。そこへ濃い潮の匂いが混じって、いっそう息苦しい。午を過ぎた陽光は激しく、眩暈をした者もいるが、果たして背後の陣は微動だにしない。
 汗がたらりと胸元に流れた。熱気の合間に海面に冷やされた涼風が層を成して入り交じり鼻をくすぐる。否、顔面に叩きつける。汗に濡れた喉を鳴らして唾を飲み込んだ。汗は目の中にも流れ込んだ。拭おうと瞑った目蓋の裏に白いものがぼんやりと浮かんだ。
 ――雨の匂い。
 熊本は目を開ける。遠くに眩しく輝く海面が見える。だが熊本の目には紗のように梅雨の薄い影がかかっていた。雨が板葺きの屋根を打つ。花の閉じた蓮を打つ。ざん、と聾する。薄陰に覆われた酒屋の二階、擦り切れた蒲団の上に女が胡座をかいている。白い背中がこちらを見ている。
「熊よ」
 薄陰の中で女は煙管を唇から離し、ふうっと低く煙を吐き出した。
「もう一度、小倉に行っちゃくれねぇか」
 小倉。七月。
 幕府二度目の長州征討は重苦しい熱と沈黙の底にあった。
 長州軍は海を渡り、既に目の前にいる。一時は幕府軍が海を越えて向こうの地を踏んだことが嘘のような崩れ具合であった。そも、あの薩長が同盟を組んでより後、この気のたがえたように戦にのめり込む二者を相手に戦うは無謀であると誰もが知っている。熊本もそう思う。
 だが。
 ――あの女が言った。
 参府をした時には見かけなかった。あの女は常に城の中にはいない。下町暮らしが性に合うと言ってはばからない女である。それは存じている、が、このご時世にあってもか。あの女の危機感はこのようなものか、と。妙に胸騒ぎを感じながら、人間の側にいるのも気が乗らず酒屋独りで呑んでいたところを、戸が開いて女が入ってきた。つい先に釣りから戻ったばかりを装っていたが、白粉の匂いは、本人は汗もかいていると気づかなかったものか、しかし熊本の鼻がすぐ勘づくほど残っていた。女はいつもの調子で呑めと熊本の杯に注ぎ、熊本は家の酒の方が美味いと胸中では考えながら杯を重ね、深更、二階で着物を剥かれていた。言葉は交わさず、ただ為すことだけが為された。下手ではないが乱暴だった。酔いは景色が歪むほどだった。女は、しては、求め、熊本はくたくたになって眠った。目が覚めた時数えて片手の指を折り尽くしたことに驚き、溜息をついた。
 照れはなかった。熱も酔いも微塵も残っていなかった。鼻の奥にはまだ白粉の匂いが居座っていた。熊本は横目に女を見た。障子を灰色に照らし雨は激しく降っていた。女の裸がぼんやりと白く浮かび上がり、首を垂れているのが分かった。肉付きのよさと言えば脳裏に始終ゆらめく面影とは比ぶるべくもない。だがしなやかである。よく日焼けているものの、きめの細かい肌は美しかった。それは一瞬、面影と懐かしく重なり、離れた。遠く九州に残してきた面影とはまるで違う女だった。
 その、まるで違う女が言った。
「小倉に行っちゃくれねぇか」
「命令か」
「頼んでるんだよ」
「柄でもねえな」
「そうかよ。なんだっていいぜ。てめえが小倉に行ってくれりゃあ、何だっていいんだ。てめえのため、福岡のため、好きな理由をつけろよ」
「命令すりゃいい」
 熊本は肘をついて身体を起こし自分の分の煙草を探したが、ない。諦めて女の吐いた煙を吸い、また枕に頭をもたせかける。
「すりゃあ、俺は行く」
「てめえはそれでいいのかよ」
「よかも悪かも、俺にはなか」
 その為に寝たのだ。その為に五度果てた。熊本が小さく笑うと、東京はぎろりと振り向いた。
「今、馬鹿にしやがったな」
「してねえよ」
「笑ったじゃあねぇか」
「お前は怒っとる方がよかな」
 熊本は手を伸ばし女の尻に触れた。
「お前のごたる熱か膚も、俺は好きたい」
 なんばニヤニヤしよるとや、と隣の男が苛ついた声で言った。
 目の中にカッと日が差した。梅雨の朝は消え去った。
 平生は涼しい福岡の顔にも汗が浮いている。大分が中津から遣った兵は動かない。動くのは自軍と、熊本だけであった。目の前には長州のぎらついた目。
「なあ」
 熊本は汗を拭って立ち上がり、福岡の隣に並んで峠の向こうの戦地を見遣った。
「最後に抱くなら誰がよかや」
「こぎゃんところで死んでたまるか」
「死ぬちゃ言いよらんどが。話たい、話」
「しゃん言うならお前は決まっとるとだろな」
「決まっとってゆうか…」
 脳裏を掠める面影はあるものの、目蓋の裏に浮かぶのがあの女の背中なのが仕方ない。
「…思ったごつはいかんってゆう話たいな」
「あの女と寝たか」
 尋ねる口調ではなく、福岡は唇の端を吊り上げた。
「武功ば上げろ、今度はあの女ば押し倒せ」
「なっ」
 何で知っとっとや!と熊本が悲鳴を上げると、やっぱぁ押し倒されたか、と福岡は愉快そうに笑った。眉間はやや寄っているが、それでも声は心からおかしそうだった。
「しゃんだろうち思うた。女にまで乗られたか、熊よ」
「やめろ!」
「小倉ば護りきったら、今度はおいが抱かれてやろうじゃなかや」
 福岡の目はきらきら光る夏の海をじっと睨みつけていた。熊本は己に投げられた言葉と己を見ない目にこっくり頷き、そりゃあよかな、と小さく返事をした。
「えしれんこつば言いよるとじゃなかぞ」
 福岡は言った。奥では歯を噛み締めていた。
 赤坂。
 今、二人の立つ峠からは源平合戦の壇ノ浦も、長州軍が渡った海峡も、そして遠くには玄界灘も望むことができる。足下には小倉の城下町。そして剥き出しの赤い土。赤坂の名の由来である。
 以前より門司と小倉を結ぶ要衝であり、難所であった。
 ここさえ守れば小倉に手出しはできぬ、させぬという思いが福岡にはある。熊本もそれは分かっている。故に、本陣とこの峠へ大砲を据えた。アームストロング砲。その威力は知っている。ロシアの軍艦は、長崎の美しい入り江に並ぶこれを見て逃げ帰った。長州は退くまい。ならば放たねばならない。海岸より来れば砲火の餌食だ。山より越えようとするならば銃火の餌食だ。熊本はずらり並ぶ銃隊を見遣る。佐賀は出兵を拒否した。当然のことと思われた。
 二十七日、不敵な笑みを見た。長州が進軍を開始した。どちらにせよ、この峠を越えねば小倉の平野を獲ることは能わぬ。ならば征く。まして幕府相手に連戦連勝と来ている。勢いがあった。
 福岡がやや、おたついた。熊本は最初の砲火を海岸へ向けて放った。
 この轟音。この煙。
 熊本は福岡の背をがっしりと掴み、大音声を放つ。
「次! よぉーい!」
 福岡が自分の足で立った。焼けた匂いの立ち込める中、足を踏みしめて戦場を見据えた。熊本はにやりと笑う。
「いくぞ」
「おう」
 離した手でばしんと背中を叩いた。
 被害甚大と見るや、長州は山間からの攻撃に切り替えた。この峠を越えようというのである。熊本は銃兵隊を前に出す。相手の装備もまた互角。
 ――厳しかな。
 山間より襲撃する奇兵隊、猛将を抱えている。その目を見れば、なるほどあの長州者であろうと思う。
 ――恨みは、なか。
 銃列が火を噴く。
 ――憎くも、なか。
 あちらでも、こちらでも、人が倒れる。血煙に、峠の土が赤く染まる。
 ――ばってん、あの女が、おっに頼んだ。
 女は抱きたくも抱かれたくもなかったのだろう。白粉の匂いを思い出す。このご時世、新たに地を血で染めようという決断の前に、釣りにかまけ、女の肌に溺れて、ようやく自分の前に現れた。死地へ、自分を送り込むためだ。恨みも得もない戦へ駆り出すためだ。
 ――小倉に行っちゃくれねぇか、と。
 多くの兵士が倒れている。だが退かぬ。長州もまた進むを止めない。
 熊本の声に銃口が火を噴く。それさえものともせぬ、突撃してくる男の影。熊本は己の銃を構えた。身体の真ん中を狙った。その一撃に続くように、次々と放たれる銃火。穴だらけの男が血を噴き上げながら倒れ、地獄のような静寂が峠を包み込んだ。
「…やったか」
 福岡の声に熊本は力強く頷いた。倒れた男の目からは光が失われていた。
 猛将の死を契機に先鋒の隊はほぼ壊滅。迂回に出た隊もあったが、熊本はそれを押し返した。峠では声が上がった。長州の全面撤退、初めての敗走である。この峠を護った。勝利であった。
 しかし熊本の声は嗄れた。郷里より共に歩いてきた男たちの骸が足元に倒れている。また猛攻をかけてきた長州の将の屍も、捨て置かれたままだった。
 振り返ると福岡が汗を拭っていた。血に、煙にまみれて、拭う袖は赤黒く汚れた。
「泣いとらんや」
 熊本は声をかけた。
「誰が泣くか」
 福岡が睨みつけた。

 夜半、幕府軍総督は援軍に難色の報。改めての要請は拒絶という形で返ってきた。
 諸藩いずれも傍観。動かない。
 死人は無口である。まだ自分が死んだことにさえ気づいていない者もいるだろう。峠から銃火砲火の熱は去らない。
 本陣を置いた寺の奥、熊本は刀を抜く。今回は出番がなかった。同田貫は無骨な光を放っている。
 ――おっが残れば、護りきるかもしれん。
 だが、多くが死ぬだろう。峠で流した以上の血が流れるだろう。
 福岡を防衛することは、即ち九州、ひいてはこの国を護ることではある。だから熊本はあの女の言葉に従ったのである。愚直なまでに約束を守り、戦った。
 ――戦い抜けるか。
 人の心が離れ始めている。元より得のない戦い、恨みのない殺戮である。その中で多くが死んだ。己の土地を離れて、人の死ぬことが熊本の痛みとなっている。藩兵たれば。領民たれば。
 足音を聞いた。熊本は刀を収め、相手の来るのを待った。
 福岡が纏っていたのは死装束のような白い着物だった。それを燭の薄明かりの中で脱ぎ始める。
「やめろ、福岡」
 熊本は目を逸らし、面を伏せた。
「おっは、もう、帰る」
「熊本」
「助けてやれん」
「おいば見捨つるちや」
 最後に抱くならば、それは己ではなかったはずだと熊本は思った。きっと脳裏に描いたのと同じ面影を、福岡も描いたはずだった。あの美しい岬、花咲く港に佇む女の姿をこそ思い描いたはずだ。最後に抱くのが自分でいい訳がない。
 ――それでも。
 抱かれにきたのだ。
 目を瞑って動かなければ、福岡の手は熊本を押し倒した。それでも熊本は動かなかった。着物が脱がされ、下帯が解かれ、福岡の躊躇うことのない唇がそれを食んだ。それにもただ耐えた。永遠に耐え得るものではなかったとしても。
 抱かれてやると言った福岡だが、やはり喰われているのは熊本だった。頭の中では無意識のうちに江戸での五度の交接と比べていた。手練、福岡の方が上であれば、もう泣き出したくなる。決して細くはない腰であるのに、女とまがうことなどあり得ぬ身体であるのに、だ。搾り取ろうと動いてくるのを拒み、耐えるだけの力は残っていなかった。熊本もまた熱を欲していた。本物の熱だ。好いた好かぬは二の次で、兎に角この男、常に隣にあって油断ならぬ、気心知れたとはお世辞にも言えぬ、だが膚に触れ得て身体を繋げばより深くと求めるのを止められない。
「熊本」
 男が囁く。
「おいと一緒に戦うちくれんか」
 熊本は相手の首を無我夢中で掴むと乱暴に唇を重ねた。誘われるままに舌を吸い、吸われた。涙が出た。
「すまん」
 身体を起こす。腰を抱き寄せると、福岡が呻く。
「すまん、福岡」
「ほんなこつ…」
 怒気の滲む声だった。熊本はきつく閉じていた目蓋を開いた。福岡の唇には血が滲んでいる。
「お前たち兄弟はよう似とうよ」
 出兵を拒否した佐賀は。
 四年前、長崎を。
 抗う声を福岡は許さなかった。再び熊本を床に押しつけ、ぐい、と自ら深くのしかかった。
「ばってん、今夜は逃がさんぞ」
 口元の血を拭い、福岡は笑った。
「おいがよかて言うまで、付き合え」
 援軍、再三の要請、聞き入れられず。幕府軍にて、長州の火力に太刀打ちできるのは熊本藩のみとは言え、総督に乱心の気配あり。二十八日、夜、熊本は兵を赤坂から引き上げさせた。福岡にも告げぬ撤退であった。折しもそこへ、将軍の死が伝えられ、総督は長崎を経由して大阪へ逃げた。諸藩もぞろぞろ引き上げた。残ったのは小倉の軍のみであった。
 難攻不落と言われた小倉城に、男が自ら火を放ったと、熊本はその背に聞いた。城を失った軍は、逆に背水の陣を敷いた決死か、長州によく抗い、一時苦しめもしたが、長く続く抵抗ではなかった。最後は、佐賀、鹿児島の仲立ちによる和睦であった。一月二十日のことである。
 熊本は天守に昇る。小雪がちらついている。北を見た。福岡のことを思い出した。口の中に血の味が蘇り、あの夏の砲火と汗の匂いが蘇った。白い肌。雨の匂い。押し倒す手。
 冷たい床の上に熊本は座り込む。ああ、と吐き出した。声が嗄れていた。




2015.7.16 しゃさんの県擬の二次。