文明開化の弥生の末を






 上弦が、やや満ちた。清かな月に誘われるように花の開く音を聞く。しばらくすれば桜の季節になるだろう。付近には植わっていないが、山を見ればこの淡いぼんぼりのような光を見ぬ地はない。ようやく肩の荷が下りた。遠出でもしてやろう、と思った。無論海へ出ても美しいのだが。
 田はどうかしら、と思いもかけぬ言葉が胸に浮かんだ。菜が咲くだろうか、蓮華の畑だろうか。今はあの平地も己のものだ。見物に、否、監督に行かねばなるまいが。
 桜を。
 あの山の大樹を。
 目蓋の裏に浮かぶ曖昧な記憶の影に迷いかけ、ふと気づいた。障子に影が映っている。長身である。痩躯である。男である。
「いいか」
「いいわ」
 応えると障子が開く。男が立っている。佐賀である。徳利を抱えている。
 妙なものを見たと思った。
「珍しいじゃない」
「たまにはいい」
「私を酔わせてどうしようっていうの?」
 冗談めかして見上げると、
「いけないか…?」
 と疲れた微笑が返ってきた。長崎は口を噤んだ。
 月の影が明るい。燭の灯は仄かだ。盃に流れ込む清酒はとろりと澄む。
「珍しいわ」
 長崎は指先を見つめた。
「あなたから注いでくれるなんて」
「君も大変だった」
「ええ。そうよ。すっかり疲れたわ」
 面倒なことばかり、と口の中から愚痴を吐き捨て、空っぽになったところへ杯を傾ける。清流が舌から喉へと流れ落ち、腹の底からじわりと焼いた。
 そう重ねぬうちから佐賀は無口だった。わざわざ自分から持ってきたのだ、酒に滑りのよくなった舌で何か言うつもりか…或いは言わせるつもりかと思っていたが、ほろ酔いの熱が満たしきる前から既に悪酔いをしたような重たい沈黙を引き摺っていた。長崎は黙って手を伸ばし、佐賀の額に触れた。
「熱があるのではなくて?」
「…酒のせいだろう」
「あなた…」
 両手が頬を包む。佐賀は目を伏せている。肌は青白く、目の下に浮かぶ影はどす黒い。そのくせ膚の下で血が燃え盛っている。昂ぶりは青ざめた疲労の下で行き場をなくし猛り狂っていた。俺は確固たる一つの国であった。その矜恃はほとんど動かぬ面の下で鬼の形相をしている。確かに、長崎の県会であった。全国に先駆けての開会であった。ともあれ誇らしいことであった。しかしその主たるを動かしたのは佐賀である。今は長崎を名乗るこの男である。
 怒っているの。胸の中で問いかけながら長崎はひくつくこめかみに唇を触れさせた。佐賀がいよいよ顔を逸らした。それを両手でがっちりと掴まえた。口づけの時も目は伏せられていた。眼鏡が脂で汚れるのも構わず、長崎は佐賀の顔を撫で回し、雨よ霰よと口づけを降らせた。
 やがて男の身体は背から畳の上に倒れた。女はシャツのボタンをもどかしく解き、露わになる胸にも唇をつけた。痩せた、と思った。しかし膚の下は熱い。血の匂いがする。懐かしい匂いがする。
 ふと、腹まで露わにさせたところで、長崎は手を止めた。覆い被さっていたのから、パッと離れ、顔を赤くした。男はようやく目蓋を開いた。見つめると、女が目を逸らした。手を伸ばし、乱暴に畳の上に転がして体勢を逆転させれば、女は眉を寄せながらも喉を突く高い笑いを漏らした。男は乱暴に着物を解きにかかった。酒精と熱とでほんのりと朱に染まった膚の露わになる先から噛みつき、吸いついた。ベルトを解くと女の手がするりと伸びて、それを脱がせるのを手伝った。
 見つめ合っては目を逸らした。しかし絶えきれず再び目を合わせた。今なら一つにもなろうかと思われた。視線が重なり、思いが行き交う。舌に乗せずとも万言は一つの口づけに収斂した。長崎が深い溜息をついた。春宵を渡る風は懐かしく、ぬくい。佐賀の胸の奥が震えるのを、長崎は触れ合った身体で感じる。震えは長崎の心臓にも伝播して、耐えきれず背中に爪を立てた。ながさき、と囁く声。頬に唇が落ちる。優しく、また酒精の香りがする。同じ香りの息を吐き、長崎は唇に彼を求める。
 夜明けは同じ床の中で目を覚ました。それも泡沫の弾ける間まどろんだような、だった。絶えず触れ合っている膚が常に目覚めており、また安堵もしている。目蓋を伏せていても抱き締めた互いの姿が仄闇の中にあった。長崎は抱かれた己の裸身さえも見た。自分の身体を美しいと思った。心の欲するままに擦り寄れば、佐賀の手も冷めぬ熱を帯びて膚の上に蠢いた。陽の昇る前、浅瀬のような青白い肌寒さの下で再び重なり合った。
 長崎は声を堪えた。朝を目覚めさせるのが惜しかった。それを己の力不足ととったのか、佐賀は執拗だった。唇もこんなに吸われたことはなかった。そう思えば愛しさは浅ましいほどに湧いた。やがて切り立つ山の向こうから陽が昇り白々と明ける空は障子の色をさっと明るく染める。それでも佐賀は退かなかった。頑なに長崎を抱いていた。何も言わなかった。無口な男だが、ムードなど解さない男でもある。熱に浮かされれば女を抱きながらでも喋る。その男が熱情に口を閉ざし、抱いた身体をただただ離さない。結局、昼過ぎまでだらだらと寝ていた。
 表はすっかり明るかった。淡い眠りと淡い目覚めが寄せて返す波のように訪れた。時々、意味も無い言葉が口をついて出た。
「蝶よ」
 床からはみ出した手で長崎は障子を指さした。佐賀がその手の先を見た。
「嘘」
 佐賀の手が背骨を辿る。一つなぞっては息をつく。一つ一つに愛しいと息をかけられるようで、長崎は相手の胸に顔を埋める。時々尻を撫でる。佐賀の笑う気配がする。
 こうして次の夜を待てたならどんなによかっただろう。次の夜も重なり合い繋がり合い、この幸せな夜だけを永遠に繰り返すことができたなら。そんな世迷い言でなくとも、こんな日がずっと続けば。長崎はそう願わずにはいられないのだった。遅い支度、冷えた飯を二人向き合って食べながら、何度も繰り返し願った。こんな日が続けばいい。佐賀が仕事をする。自分だって人任せに怠けはしない。そうして疲れて、一緒に飯を食い、一つの床で眠れば、それでいいのではないか。県境など思い出す必要もない。自分たちは生まれた時一つの魂だった。そのように、もう一度一つになれるのではないか。このままでいいではないか、長崎の佐賀で。
 佐賀は会場になった寺を片付けると、飯を食ってすぐに出て行った。長崎の机の上には書類が昨夜放ったままになっていた。しかし長崎は佐賀を追いかけて玄関から踏み出そうとした背中に抱きついた。
 男が振り返る。まだ結い上げていない髪に指を通す。
「私のこと、思い出して」
 長崎は佐賀の胸に両手を押し当てて囁いた。
 口づけの後も離れがたく、長崎は相手の唇に指を当てていた。
「思い出して」
 君は、と低い声が耳に囁いた。
「思い出すわ」
 果たして自分たちは思い出すだろう。仕事も手に着かず、離れてしまった膚に思いを馳せるだろう。そしていつかきっと、憎しみさえ交えて思い出すに違いない。幸福な夜だけを繰り返すことなど、できはしない。長崎は佐賀の熱を知っている。それ故にである。
 着物の上から胸を掴む。この下に噛み痕がある。
「佐賀」
 玄関先から空を見上げ、長崎は呟く。
「早く帰って来て」
 障子を開け放つ。庭の緑はまだ若い。風が吹くとまだ冷たい、だが爽やかな匂いが胸を満たす。それでも心細かった。薄い雲が空一面を覆い、影のない明るい午後だった。座敷の内ものっぺりと明るかった。長崎は机の上の書類をはぐっては肘をつき、溜息を吐いた。思い出していた。昨夜の記憶を思い出し、引き留めようとしていた。男もそうであれと願った。溜息が熱い。
 傾いた日はすっぽり沈んだはずなのに、いつまでも空は明るい。朱の色である。明るいのに心細い夕景であった。玄関で音がすると、長崎は子供のように駆け出していって男に抱きついた。男は手にしていた荷物も書類も全部散らかして、飛び込んでくる女の身体を抱き留めた。
「いけない」
「どうして」
「危ないだろう」
「あなたがいるわ」
 急に静けさが冷気のように染みた。互いに揺れた目の色を見た。悲しみ、惑いは長崎のものだけではなかった。苦悩、懊悩は佐賀のみにあらずだった。
 確かな言葉にしたことのないものを二人はようやく汲み取って、長崎は目に涙を溜めた。佐賀は黙って強く抱き締めた。
 あなたが護ってくれたじゃない。
 小さな声で囁くと、ながさき、と苦渋に満ちた声が名を呼んだ。崩れそうな身体を支えきれず、二人共ずるずると土間にしゃがみ込んだ。長崎、と溜息のような声が繰り返し、髪を撫でた。長崎は相手の胸に顔を押しつけ、汗の匂いを吸い込んだ。あなたの匂い、好きよと言うと、風呂に入らせてくれと佐賀が言った。長崎は顔を上げた。
「いやよ」
 首を横に振り、目の前で訴える。
「いや」
 まだのっぺりとした明るさが残っている。裸の上に身体を重ねて、長崎は男の鼓動を聞く。憎らしいほど落ち着いているが、それが心地良い。
 抱き合うばかりで二人は何も言わなかった。しかし昨夜とは違っていた。昨夜は言葉にせずとも何もかもが通じ合っていた。今は考え、望み、縋っている。きっと明日になれば変わる。明後日になればもっと。仕事は再び忙しくなり、あれもこれもと手を付けていたら田植えの季節だ。
 長崎は、すん、と鼻を鳴らして匂いをかいだ。汗の匂いばかりがするのではなかった。泥の匂いである。天の水、川の水、恵み豊かな水をたっぷり吸った土の匂いである。そこに生える早稲の匂いであり、働くこの男の匂いだった。そこに今日は静かな黴の匂い。かすかに抹香。寺に行ってくれたのだわ。面倒な後片付けを引き受けて。
 夜が青く滲み出す。佐賀は自分の上に乗った長崎の身体をひっくり返し、舌を這わせた。胸の噛み痕がツンと小さくしみた。お願い、と長崎は相手の頬を両手で挟んだ。
「出て行くのは、私が眠っている時にしてね」
 佐賀の手がこめかみに触れる。髪を払ってくれたのか、涙を拭ったのか。泣いてないわ、と長崎は思う。だが分からない。胸は痛い。お願い、と繰り返すと、ああ、と低い返事が返った。
「そしてね、明日は、あなたが起こしてちょうだい」
「昼まで寝ているつもりか」
 佐賀は言ったが、この男こそ同じ床の中にいるのであれば昼まで寝ていようとて構わないのである。馬鹿ね、と囁いてこぼれだした涙に、やっと泣いていることが分かった。佐賀はまた黙り込み、女を抱くことに夢中になった。言わざることの肝要なるを知る男ではある。
 男は女の身体を抱き締める。女はまだ眠らない。
 何か言って、とせがむ。男はしばらく黙り込んでいる。やがて静かに口が開く。
「アイル・ガーヂ・ユー」
 聞こえていたわ、と女は胸の中で呟いた。あの日返事をしなかったこの言葉を、自分はいつまでも忘れずに覚えていた。恨みながら。時にせせら笑いながら。忘れなかった。その言葉を真に為す日が来ても、ずっと黙って聞こえなかったようなふりをしていたけれども。
 傷の絶えない手を誘い、胸に触れさせた。二人は目を合わせた。
 腕を枕に眠る。夜の中に波音が聞こえた。佐賀の触れている胸の奥から聞こえる波音だった。




2015.7.4 しゃさんの県擬の二次。