陰々疼愛






 既に蝉の声が耳を聾するほどの騒がしさだ。こないだ七夕を過ぎたばかり…、と長崎は離れに向かう洋風の渡り廊下の半ばで足を止めた。琺瑯の盥にゆらめく水は実際にはそれほど冷たくもないのだが、日差しと、取り巻く真夏の景色の中では涼しい井戸の底から汲み上げたばかりの輝きを放っていた。
 洋風の室の中、敷いた蒲団が毎度妙だ。ベッドは物置に仕舞われた。自分は蒲団で寝ると薄い煎餅のようなそれを持ってきた男であった。持ち物は他にさしてなかった。彼の誇りの証である鉄も、書き込みだらけの洋書も、手垢にまみれた分厚い辞書も総て、彼の残してきた屋敷の片隅で薄埃を被っているに違いない。それは彼の咳の音でも分かった。喉が引き攣れると彼は犬のようにぜいぜい鳴いた。疲れ切っている。疲れ果てている。間近で見なくても分かるほどの具合の悪さだが、間近で見ているから尚のこと分かる。洋風の衝立の影で青ざめた顔を隠すように眠る男がどれほど弱っているのか。だが倒れるまで気づかせなかった。便所の床に倒れているのを引き摺り出して初めて、ここまで…、と気づいた。
 もう何日も経つ。起き上がる気配はない。起き上がることができていたら勝手にそうしているだろうと思う。女に世話を焼かれるのは嫌なのだ。意識は朦朧としているようである。目を細めて女を見上げている。眼鏡もないから本当に見えていないのかもしれない。その見えない視界、というのが長崎には分からないのだけれど。霧の朝のようなものか。それとも黄昏の薄暗闇なのだろうか。
 女は枕元に膝をついて琺瑯の盥を下ろした。さらしの手ぬぐいを水に浸してきつく絞る。跳ねる水の音に男がわずかな反応を起こす。痙攣のような小さなものだが、耳がそれを聞き、視線は女を追おうとした。喉が微かに震えたが声にはならなかった。女は男の額に浮いた汗を拭い、手ぬぐいを鼻先に近づけた。
 全く女は遠慮をしなかった。蒲団を剥ぐと男の着物を脱がせにかかった。汗の染みた着物のみならず、身体からは饐えた匂いが漂っていた。真夏の容赦ない陽光に枯れる草の、最後の緑が奪われゆくような、命の最後をもぎ取られまいと力なく生にしがみつくものの匂いだった。生きているから匂う。死ねば匂わない。この肉体は腐らないのだから。人ではないのだから。
 女の手は下帯を解くのも躊躇わなかった。男が気づいたが、呻き声一つ上げず目を伏せて諦めるばかりだった。女はそれを掌に載せてまじまじと見つめた。手ぬぐいで拭き清めてもそれは微動だにしなかった。ただ掌の上にあるばかりだった。こうだったかしら、と女は思う。こんな形だったようにも思う。力がないとしても。
 気配を察知した男が力を振り絞って手を伸ばした。それは女の頬に触れた。女は背を屈めている。横目に男を見る。よせ、と嗄れた声が言った。怖いの、と女は笑った。唇がつくのを結局男は止められなかった。女は手の上のものに二度、三度と唇をつけて、その上に溜息を吐いた。
「私、あなたが私の知らない所で死のうとしているんだと思ったわ」
 掌は力ないそれを支える。吐息がぬるく掠める。
「人は死にそうになると硬くなるんですって。知っていて? 胤を残そうとするの。獣だわね」
 赤く塗った唇から舌が覗き、撫でる。愛撫と呼ぶべきか、否、それはさらしで清め拭く手つきと同じように、ただ行為たる行為だった。故に清らかな行為だった。男が感じたのは情欲ではなかった。しかし天上を見つめすぎて乾ききった大きな眼に今再び涙が膜を張り、縁から溢れ出して顔を汚した。
 支える手も清める舌も震えはなく、怯えもない。ただ舌を引っ込めてもう一度ついた溜息は長かった。唇が先端を柔らかく食んだ。口づけと呼ぶことはできないだろうその行為の後で初めて長崎の手が震えた。震えながら痩せた腹を撫で、小さな声が言った。
「ちっとも元気にならないわね。本当にこのまま死んでしまうのじゃなくて?」
「…何故、殺さない」
 はっきりと言い返した男の腹に掌を押し当てたまま、女はゆっくりと男の脇に寄り添った。
「殺していいの」
 女が囁く。囁いて、清めたものを掴む。
「切腹じゃなくてもよくて?」
 男は顔を逸らす。女は短刀が切り裂くだろう腹を真一文字になぞった。手から離れたものはくたんと情けないほどに倒れた。
 触って頂戴。容赦のない命令の囁きが男の耳に届いた。男は重たい腕を動かし女の身体を抱いた。もっと、と女が囁いた。衝立の影で再び汗にまみれ始めた両腕が女の身体を抱いた。女の足は着物の裾を割って男の足に絡みつく。壁の向こうでは相変わらず蝉が騒がしい。女の吐息は鼻にかかった。伸びた男の手が裾を割って太股に触れた。更にその上へのぼった。




2015 しゃさんの県擬の二次。