写真とフィルム






 君の写真が見つかった、と言い、取りにおいで、と言った。
 三月も末の花の盛りというのに、雨続きである。梅はこぼれるまで、心地の良い薄曇りが護ってくれたが、桜はそうはいかなかった。濡れた庭に落ちるのは隣家の桜である。どんな人が住んでいたかな、と福岡は縁側に寝そべったまま考える。人妻だったかもしれない、愛人かもしれない。抱いた女かもしれない。あるいは男だったかも。満開の姿を塀に遮られることなく見た記憶があるから、邪魔はしているのだと思う。そう遠い記憶ではないはずだが、花曇りの光景とともにおぼろげな記憶であった。
 背はしんとしている。雨のせいで屋内は暗い。奥から何やら這い出てくる気配もある。そこは大して構わぬ。電話が鳴らないな、と思っている。届けに行くとも、迎えに行くとも言わなかった。それで女は拗ねてしまったのか。「そう」という息を吐いただけのような返事で、電話はすぐに切れた。駅に着いたから迎えに来てほしい、あるいは雨が降っているからやっぱり行きたくない、そんな電話を想像していた。長崎はそういう女ではないから、こういうことを言ったのは映画の女か、隣家の女だったかもしれない。こういう科白を長崎が言ったなら、と福岡は頭の中で女を弄ぶ。しかしあの坂の上の家で電話を切った長崎は弱った顔をせず、むしろきっと顔を上げて雨の中出てゆく支度をする。何度やってもそうなる。なので福岡は自分からタクシーで駅に乗り付けるか、玄関先で濡れた傘を手にする長崎を甘く宥めなければならない。長崎は、あなたが言ったから来たのだわ、という顔をしている。弱るのは自分の方である。
 呼び鈴が鳴った。福岡は所在なく足を掻いていた手を引っ込め、裾を直した。暗い玄関先に長崎が立っている。頭の中で思い描いたままだ。
「暗いわね」
 女は手にした傘の雨のしずくを切り、脇に立てかけた。
「タクシーは」
「使ったわよ」
「音がしなかった」
「ぼんやりしていたんでしょう」
 座敷の明かりを点けようとすると、構わないと女はさっきまで福岡が寝そべっていた縁側に腰を下ろした。
「まあ、雨じゃないの」
「玄関と庭で天気は変わらないさ」
「咲いたそばから散らされるわね」
 女は隣家の桜を見上げていた。
「写真というのは?」
「コーヒーにするかい、それとも」
「お茶がいいわ。うんと熱くして」
 福岡は封筒から取り出した写真を長崎に手渡した。五枚。モノクロームの景色が写っている。
「鑑定をお願いしたい」
 女は返事をせず、福岡を見上げもしなかった。視線は写真にくぎ付けになっていた。
 茶菓子はせめてもの桜餅をと器にのせ、ふと、座敷を越して長崎の姿を見た。肩が落ち、首が傾き、疲労した姿に見えた。力のない具合が、妙に艶めかしかった。床の中でも見ない姿だった。少女の心許なさだった。
 見つめ続ける。しかし長崎は顔を上げない。
 傍らに福岡が座っても、器の桜にさえ目を遣らなかった。
「昭和二十一年の暮れから…」
 長崎は呟くように言った。手の中の写真は廃墟を映している。手前には焦点のぼやけたがれきの山。ピントは中央に佇む、かろうじて佇む天主堂の外壁を写していた。旧浦上天主堂。福岡ならず、人間もその多くが目にし記憶に留めているだろう建築物の一部だ。あの原爆で破壊された長崎の街の象徴。かろうじて立つ。だが聳え立つ。マリアの石像がじっとこちらを見つめている。長崎の指は天主堂の上、よく晴れたがらんどうの空をなぞった。
「昭和二十四年の…五月までかしらね」
 額に薄い汗が浮いていた。先までは白粉でさらりとしていた肌が。
「どこかね」
「この壁の撤去が終わったのは二十四年の五月のこと。御覧なさい」
 長崎の指は写真の左端に滑る。
「これは民家じゃないわ。仮設した教会なの。木造の教会なの。入口よ、見て、張り出し屋根の下のアーチ」
「うん」
 汗を浮かべながら、ふと長崎は唇を綻ばせた。
「これを建てたのが二十一年の暮れ。クリスマスに間に合ったのだわ」
 ゆっくりと瞼が落ちる。長崎は縁側のガラスにもたれながら息を吐いた。手から落ちた写真が膝の上にばらばらと広がった。
「いつかしら。こんなに人が集まって。陽が白い。影まで照り返しで明るくて…」
 女の膝から滑り落ちた一枚を福岡は取り上げた。天主堂を背景にした集合写真。カメラマンを中心に数人の男たちがレンズのこちら側を凝視している。
「水をちょうだい」
 福岡は女の手を離れた写真を拾い集め、茶封筒に戻した。コップ一杯の水を女は飲んだ。薄く開いた目蓋の隙間から、黒い瞳が花を散らす雨を見ていた。
「この写真を撮ったカメラマンはね、ろうあ者なんだよ」
 女の傍らに胡坐をかき、福岡は教える。
「そう」
「君も他の写真を見たことがあるんじゃないか。デパートの広告に使われてた」
 女はようやく汗に気づいたように額に手を当てた。
「ネガが残っていたんだよ。大事に保管されていた。劣化もない」
 手はゆっくりと目の上を覆った。福岡は女が泣き出すものと思い、待った。しかし女は涙を流した訳ではなかった。福岡は膝に投げ出されたままの女の左手をとり、また自分も目蓋を伏せた。女に電話をする前、何度も見た、見つめ続けたモノクロームの光景が目蓋の裏に蘇った。これが彼のいた世界ということね、と女が呟いた。
「音のない世界」
「全ての雑音から遠ざけられて、ただ在る世界だ」
 女に泊まってゆくように言った。しかし女は首を横に振った。帰ると言った。
「鑑定が終わったのだもの。帰るわ」
「どうして」
「だって用は済んだもの」
「意地悪を言うなよ。俺は佐賀じゃないぜ」
「何の話?」
 帰ると言ってきかないのを腕を掴んで引き留めた。抗うそぶりはすぐ消えた。口づけのせいだった。腕の中で次第に力の抜ける身体を抱いた。雨の音がする。
 夜半に長崎は起き出した。薄目を開けて見送った。長崎は台所で水を飲み、しばらくぼんやりしていた。なかなか蒲団の中には戻ってこなかった。
「ねえ」
 ようやく戻ってきた女は男の肩を掴む。否やはない。
「キスをしてちょうだい」
 長崎は言った。
「キスを。全部よ」

 花の季節も雨だったが、梅雨入りもまた心持ち早いような心地。雨は乱暴に容赦なく降り続け、梅雨どころか一年分のそれが降ってしまったかのようだが、それでも天水尽きせぬと見えて天気予報にも傘のマークが並ぶ。
 長崎からの連絡がない。電話にも出ない。いつもであれば気晴らしにお遊びにと電話なり何なりがくる季節である。音沙汰のないのが心に引っかかりはするものの、こちらから訪ねていくのはちょっと…、と考えているうちに六月も半ばを過ぎて新聞の片隅にその理由を知った。
 原爆投下九ヶ月後の長崎市を撮影したカラーフィルム発見さるる。映像フィルムである。確かなものであるという。米国立公文書館で確認された。
 記事にはやや不鮮明な写真が載っていた。先日の写真と比べて映像のフィルムは輪郭がぼんやりと溶けて見える。しかしこれが動いているところを見れば、鮮明なものとして目に映るだろう。見たい、と思った。長崎は見たのだ。十分程と言われる映像の内容が新聞には記されていた。長崎市場と名のついた通り。山王神社付近に並ぶ復興住宅、これは爆心地に近い。そして浦上天主堂だ。あの破壊された壁の前で米兵と話す神父。長崎はこれを見たのだ。鑑定したのだ。
 小さく不鮮明な写真をじっと見つめた。長崎の姿が映っていた。市場にごった返す人々の中、一人カメラに気づいて振り返っている。
「見たい」
 抱きたい。
 電話が鳴った。受話器をもぎるように取り上げたが、熊本だった。
「見たか」
「見たや」
 互いに見たものは同じだったらしく、どうして長崎ではなく貴様が電話をかけてくるのだという苛立ちも相俟って乱暴な遣り取りになる。熊本は焼酎を持参して駆けつけた。そんなものは望んでなどいなかったが、呑みながら長崎の話をした。
 後日、熊本が長崎に尋ねた。梅雨の晴れ間だった。海を渡って、あの坂の上の家で、花茶を出されたという。
「長崎じゃねえんだと」
 熊本は唇を尖らせた。
 自分ではないと長崎は言った。そもそもそんな女はここには写っていないと。そう言って指さされれば確かに女は写っていなくて、否、女の姿はあるがそれは目の前にいる長崎と同じ顔をしていなくて、頷かざるを得ない。しかし一人になってもう一度記事の写真を見てみれば、そこにいるのは確かに長崎なのだ。熊本は首を傾げる。
「違うて言われりゃ、もう頷くしかねえもんよ」
 あとはガラスの器に咲くジャスミンばかり見ていたそうだ。熊本が酔い潰れると宵の街をジャスミン茶を買いに出掛けた。コンビニでペットボトルのそれを買い、帰り道に半分飲んだ。
「抱きたい」
 会いたい。
 玄関を開ける前から鼾が聞こえた。縁を開け放しているのだ。庭に廻る。隣家の桜はすっかり緑の影である。雨は降っていないのに湿った香りがする。縁側で下駄を脱ぎ捨て、残ったジャスミン茶を無理矢理口移しに熊本に飲ませた。熊本はじたばたと暴れたが両手足で押さえつける。随分こぼれたが無理に飲み込ませた。
「なん、ば、すっとや!」
「騒がんちゃよかろが」
 何となく、佐賀は見ただろうかと考えた。熊本は座布団を抱いて声を堪えている。必死なのを相手に上の空も悪いと思ったから、たまにはキスを落としてやりながら、しかしまた頭の隅を佐賀のことがよぎった。
 見たかもしれない、と何故か思ってしまう。
 見たはずがない。自分も見ていない。長崎が出掛けたことさえ知らなかった。隣のことだから在不在は知れども、一緒に見たということはないだろう。あの長崎が見せるはずがない。
「熊、おい」
 声をかけると潰れた返事がかえる。
「黙ってせろよ。はよ、終われ」
「お前、佐賀は」
「はあ?」
「最近、お前の兄貴はどんなだ」
「知らん……」
 熊本はまた座布団に顔を埋めてしまった。生意気な態度が気に入らず、泣かせる気になった。
 うっかり長期戦に縺れ込んだのが、いつの間に双方果てたのか、気づけば寒い。夜の明ける前で、布団は熊本が奪い取っていた。それを半分、無理に引っ張り肩にかけたところ、急に咳が出る。枕元に手を這わせればペットボトルが触れた。少し残ったのを飲み干した。
 長崎。
 目を閉じれば目蓋の裏に長崎が佇んでいる。崩れた天主堂の前、白い陽に照らされている。急に泣き出したくなるほど会いたくなった。背後では熊本が品のないくしゃみをした。福岡は仕方なく相手の身体を抱き込んで蒲団にくるまり、もう一度目を瞑った。




2015.6.21 しゃさんの県擬の二次。