真白き花の季節の海の泥の一滴






 有明海の釣果芳しくなく、久しぶりに八代海の灰色の干潟に出たのは昼を過ぎていた。
 遅い。が、勘が鈍っておらねば、夕飯に供するには足りるだろう。
 とて、ムツゴロウである。
「あれは臆病だけん」
 強い日差しを背に細めた目の見下ろすを思い出した。
「お前んごとバタバタしよっちゃあ逃げらるる」
 あれは兄の目だった、と思う。
 泥のはねた横顔を、今ではもうあまり見ない。眼鏡が汚れるのを厭うているのだ。しかし今日はむつかけ漁に挑戦したと見える。腕が鈍ったか。名人なら日に六百も七百も獲る。そんなには食いきれないまでも、電話があるくらいだから余程ひどかったのだろう。
 ムツゴロウ。是非にではない。仕掛けた罠にはかかっている。が、寂しい。熊本は縦穴を見つけては筆を突っ込む。柄の先にきいろいビニールテープを巻いている。突っ込んだまま放っておいて、ビニールテープが旗のように揺れたら素早く引き上げる。すると、シャクが掛かっているのである。
 この海に生きるもの、ムツゴロウにせよシャクにせよ、死ぬとあっという間に味が落ちるから、こちらから運ぶよりは、と泥まみれの手をズボンの尻で拭って電話をかけた。やっどんが来んや?と。携帯電話は確かに便利だ。陽の傾く頃には佐賀の車が海岸に横づけされた。
「家に行ってよかったっぞ」
 初夏の日差しは激しく肌を刺す。白い日傘が咲いた。
「この目で確かめたかったんですもの。私のお夕飯」
 助手席から降りた長崎が、石段を一つ二つと降りる。すっかり乾いてはいるが、藤壺やら貝類がびっしり貼りついているし、ガタガタしているしで、そこへ長崎はいつもの和装でしゃらりと降りてくるから見ている側がひやひやする。熊本はバケツを抱え、干潟を、足を取られながら戻った。
 青いバケツの底ではムツゴロウがぬめぬめと斑点のある背を晒している。その上に被せる笊には大漁であったシャクが蠢く。蠢くごとにさわさわと甲羅の触れ合う音ならぬ音が届く。
「可愛い」
 長崎が手袋を脱いだ指でシャクに触れた。こちらは好きにさせて堪るかと鋏を振り上げるが、長崎の指は捕まらない。
 車を降りた佐賀が少し離れたところから見下ろしていた。熊本はそれを見上げた。兄の目ではない、と思う。既にそういう齢でも、時代でもない。兄と呼び親しむには隔たった。男の目に見られたのは意地であった。あからさまな面として出さねども悔しいに違いない。
 死ねば味が落ちる。だから、生きたまま料理をする。串に差して炭火で焼く。うぞうぞと蠢くのをころもにつけて煮立つ油に放り込む。どちらも暴れはせぬものの、嫌だと言うように身体を丸めるのを、伸ばして、焼いたり揚げたりするのである。
 男二人の立つ厨房であった。長崎は出されるそばから食べた。
「美味しいわ。当然ね。命を食べているんですもの。残酷ね。野蛮ね。でも私たちが生まれた時も、世界はやはり野蛮で美しかったのではなくて?」
 皿は空になっていた。
 既に酒が入っている。持ち込んだのは佐賀で、これが月例の会で鹿児島や宮崎がいれば焼酎がなければと文句を言ったかもしれないが、熊本一人のこと、特に文句はない。徳利は次々と空になった。飲めば飲む。熊本は少しぬるくなったのを注いだが、猪口を半分も満たさない。徳利の縁から落ちる一滴から長崎に視線を上げると、干物になったワラスボを白い歯が齧っている。黒い魚の身を割って、パリリと渇いた音。
「難しかこつばゆうなあ。おっはもう忘れたぞ」
 そう返しながら、己の記憶ではなく長崎の言葉を標に辿った。
 神代、三人とも一つところの魂であった。建日向日豊久士比泥別。たけひむかひとよくじひねわけ。その名が己であったとは、あまりに古い記憶ながら、しかし今もって胸の底に感じるものがある。火が暴れ、目覚め、幼い目に映ったと思しき物語は、最近では古事記など振り返ってようやく思い出される光景である。
 兄の目。
 妹の手。
 自分は本当に忘れたろうか。
「あなたは」
 長崎が佐賀の顔を覗き込んだ。男は表情を変えない。
 咀嚼していたものを飲み込んで、やっと答えた。
「……君はあの頃から変わらない」
 同感。
「まさか、変わらない訳ないじゃない」
「ばってん、あんま変わっとらんぞ」
 言葉に乗れば、
「若い?」
 長崎は嬉しそうに尋ねた。
「若かなあ。いつからか。鎖国してから変わっとらんど?」
「それより前は?」
 佐賀が瓶を手に取る。冷やである。手酌で猪口に注いだ。ぐっと喉に流し込む。熊本はそれを横目に見た。
「今よか若かったごたっ気のする」
「そう」
 ぶすりと熊本は黙り込んだ。
 嫁入り前の娘のような。
 熊本が言おうとしたのはそれだった。黙々と酒を飲む男は自分以上にそれを知るのだろうとは、長いつきあいである、気づかぬ訳がない。だた、何百年も昔の話だ。詮のないことだ。
「今夜は泊まっていこうかしら」
「そやんせろよ」
「俺は帰る」
「馬鹿が。飲んどるどが」
「新幹線がある」
「鳥栖からどやんして帰るとや」
「鳥栖はもう俺の家だ」
「あすこは福岡じゃなかったつや?」
「喧嘩してもいいけど、お酒が不味くなるようなことはやめてよね」
 長崎は佐賀の手から瓶を取り上げて自分の器に注ぐ。
「私、明日、運転なんかしないわよ」
「フェリーがある」
「なんば拗ねよっとや」
「俺はやり合う気はない。舌鋒なんぞ」
「空言の応酬はもうたくさんよ。あなたたち、ちょっと殴り合いなさい」
 夜も遅く、更けてからようやく月が昇った。縁を開けば涼しい風が吹き込む。隣家の庭に白く咲くのはカタルパの花だ。凌霄花ね、と長崎が言った。
「甘い香り」
「するか」
「するわ」
 熊本は花の名前を正さなかった。酔いのままに落ちた佐賀を座敷に残し、狭い離れに布団を敷いた。
「なあ、一緒に、駄目か」
 長崎は首を横に振る。
「佐賀のおるけんか」
「寂しいの? 美味しいものを一緒に食べたのに。お酒も飲んだのに」
「長崎。おっは時々、もう死ぬとじゃなかかて思うとたい。いきなり死んでから、もう会われんとじゃなかろか」
 長崎は熊本を呼び寄せて、そっと首を抱き込んだ。熊本は遠慮なく胸の上に顔を埋めた。
「死なないわ」
「うん」
「阿蘇が爆発したって、きっと死なないわ」
「うん」
「私だって、雲仙が噴火しても、こうして生きているもの」
「火山が恐かっじゃなか」
「ええ」
「人間はよかな。嫁ばもろて、子供ば生んで、年ば取って死んで」
「死にたいの?」
 熊本の手が強く背中を抱く。
「太閤の来てからお前によか着物ば着せてから……おっが初めてプロポーズばしたとば覚えとるや」
「ええ」
「あん時…」
 白粉の匂いが強く香る。柔らかな唇が額に触れた。紅が触れた唇と額の熱に溶けるのが分かった。
「あなたは、何度プロポーズしてくれたかしら」
「何回でん」
「私、ちゃんと覚えているわ」
「そっじゃ慰められん」
「熊」
 困ったように長崎は笑う。
「あんたが兄ちゃんだったて」
 長崎が方言を口にするのは久しぶりのような気がした。何百年ぶり。娘の装いの長崎が、着飾る前の長崎が、記憶の襞の向こうからおぼろげに手を振った。
 座敷に戻った熊本は佐賀の頭の下に枕を敷き、薄い毛布を肩にかけた。男は酔いつぶれたものの顔が渋い。眼鏡をかけたまま眠っている。外してやろうとしたが、枕との間につるが挟まって取れない。あっさりと諦め、縁にごろりと横になった。飲みかけの清酒がそばにあった。手酌で注ぎ、カタルパの花を見上げた。何か歌でもひねろうとしたが、生憎である。カタルパの真白き花の…と見たままに詠んで後が続かない。
 真白き、と呟けば頬に柔らかい胸が思い出されるのだった。白粉の匂いが蘇るのだった。だが目蓋の裏に蘇るのは日焼けした手である。潮風に吹かれて目をこらせば、質素な着物から伸びる腕が嬉しそうに自分を招いたのだ。有明海の銀の波に、浮かぶ小舟を、半島から見た、あの夏は…。
 佐賀が鼾をかいた。珍しいことだった。まどろみから引き戻された熊本は目の前に清酒の瓶の倒れているのを見た。ほとんど残る酒もない。逆さまにして舌で受ける。板間で眠りこけるには冷えた。縁を閉めると、確かにそれまで自分を覆っていた甘い香りが失せ、かわりに蘇るのは酒精と酔いの匂いだ。障子を閉めれば月光は届かず薄暗い。長崎が敷いていた座布団を枕に横になり、夢の中で続きをと願った。




2015.5.11 しゃさんの県擬の二次。初夏はムツゴロウの求愛の季節。