あやなせ梅が枝






 便りの約束をすっかり無精していたことを、旅人は思い出した。
 早春の冷気を割る赤い花が天へ向けて咲く。昔、花と言えば梅であった。いつしかその名を桜に譲ったが、今も香は高い。折り梅とも言う。枝を折られても、果たして歪に曲げられようとも、花は枯れない。ほこる。折られた先でまた気ままに伸びてゆく。好きに勝手に天を目指す。春が来た。
 旅人の肩にかけたダウンジャケットは例えば電車を待ってじっとしている時など寒さからその身を守ってくれるけれども、歩き出せば最早暑い。立ち止まり、脱いだのを腕にかけていこうかしらんとも思ったが、嵩張るのは慮外であった。これではふと浮かんだ歌を書き留めるのも、煙草を取り出すことさえできぬので。じゃあ、立ち止まっていればいい。決めて、茶屋に腰を据えた。
 内は人で賑わう。いつ来ても空いているということがない。じっとしていれば足元から上る寒さがあるが、しかし表にも人の姿は絶えず。花の季節である。紅梅ほこるを、白梅誘うを観ぜずして何故この季節に太宰府へ来たと言うだろう。相席になる、端へ座って一服。汗の吹く襟元。枝の下、居座る寒さの心地よさ。
「脱いだらどうです」
 隣の男が声をかける。
「そのお召し物じゃ暑いでしょう」
「ええ、暑い」
 旅人、答える。
 茶碗を置いて袖を抜こうとすると、後ろから男の手がそれを支えた。胸から背へ抜けるように爽やかな冷気が染みる。香まで着物の隙間から這入り込んで、膚に早春を教えるようである。すっぽり抜けたダウンジャケットは男の手の中。手数を、と受け取ろうとしたが、男は手の中でそれをくるりと畳んでしまった。笑うと垂れた目尻が優しげだ。
「雪の匂いを背負って、随分遠くから来ましたね」
「北海道から」
「そちらの方ではないでしょう」
「借り物でね」
 煙草を取り出しながら、旅人は横目に男の抱えたダウンジャケットを見た。
 手の中に蘇る慣れた衣擦れ、慣れた仕草。一本くわえてマッチで火をつける。あ、と気づいた。灰皿の用意はなかったのではないかしら。ずっと我慢していたものだから、つい。しかし、すると男が黒い器を差し出した。
「灰皿ではないでしょう」
「いいんです、もらいものだから」
「もらいものなら、尚、悪い」
「いいんです、気にしない相手だから」
「天目ですか。どこのものでしょう」
「有田」
「申し訳ない」
 半身を焦がしたマッチの燃え殻、話す間に伸びた灰を、だが遠慮なく落とした。
「火傷をしないかしら」
「火に焼かれて生まれたものが火傷もしないでしょう」
「確かに」
 だが茶ではなく灰を飲まされては驚いたでしょう、と旅人は天目を手に取る。黒い。見つめていると胸に冬が蘇る。じっとバスを待っていた夜、とぼとぼ歩いた道行に胸を占めた思いが再び蘇り、腹の底にしんと息づく。火を抜けて生れ出たものに寒夜が思い出されるのも、生まれ出でたものの妙であろうか。
「こちらはすっかり春というのに」
「あちらは寒いですか」
「まだ雪が積みます」
「北の大地はあなおそろしや」
 男がおどけて言うのに愛想を返し、煙草は休めて、行儀悪いと知りつつ餅を半分ぱくりと。思い立った時に書かねばと懐から用箋を取り出した。ぬくもっている。僅かにたわんでいる。
「手紙ですか」
「借り物だから」
 まだ男の手の中にあるダウンジャケットを見る。
「返礼をしないと」
「これを食べてからでも罰は当たりますまい」
 男は皿の上に残った食いかけ半分、ぱくりと食べて、おかわりを持って来させようと前掛けをした娘を呼んだ。
「今書きたいものもある」
 店を向いた男の背中に言う。
「今よりない」
 男が振り向く。
「じゃあ予言ばしょう。あなたがそれを投函するのはまだ先のことだな」
「そうかしら」
「返礼と言った。餅は手紙の中に入らないから」
 小包を送る訳でもないでしょう、と男は娘の運んできた二皿を受け取る。
「何かしら、気に入ったものが見つかるまで懐で眠っていると俺は見た」
「賭けますか」
「こっちが不利だな」
「どうして。こっちも気まぐれでね」
「じゃあ、次にこっちへ来た時に結果を教えてもらおう。こいつはそれまで預かっています」
 男の手はなよやかな仕草でダウンジャケットを二度叩いた。
「クリーニングに出してあげようかな。これはサービス。しかし着古していますね」
「北の大地のことだもの」
 手紙は中途に書き留め、懐へ仕舞って新しい一皿。男が半分食いかけを、さっきの分だと差し出した、お食べなさいと笑って返した。
 懐紙で口許を拭う。紅が移る。上へ、風に巻かれてこぼれた花弁の一つ落ちること。一際鮮やかな赤。
「勿体ない」
 いつの間にやら隣の男、吸い差しまで我が物としている。手元にお持ちかと問われ答えないでいれば、男は懐から取り出した紅を旅人の唇に差した。
 梅もこぼれれば、次の花。桜はどこで見ることになるだろう。歩き始めればまたぬくい。首巻を緩めた手の指から懐かしい煙草の匂い。歩きながらではあまりに忙しいからここは我慢だ。次の停留所が見つかればそこででも。見上げれば梅が天を指す。閑とした薄曇りである。ここは歌が欲しいところだ。旅人は口笛を吹く。背後の梅園より答える歌がある。鶯の真似して男がおどけたな、と旅人は破顔った。




2015.4.8 しゃさんの県擬の二次。絵柄まねっこより、旅人とゲストの福岡。