チューズデイ、ノット・ホリデイ






 曇り空の朝だった。目が覚めた瞬間から頭の中のカレンダーを捲り今日の曜日を確認してまだ休みじゃねえのかよと愕然とする間に手はスマートホンを握っていて親指が無意識の仕草で画面をなぞる。青白い光が顔を照らす。やはり火曜日だ。
「休みじゃねえのかよ」
 土日も休んだ記憶がない。
 窓にかかったカーテンも狭い部屋もベッドの上も、何から何までやたらと白い。ホテルだ。ビジネスホテルだ。千葉の旅館まで行くのが面倒だったから、会議場の入ったビルを出てすぐ目についたホテルに入ったのだ。ラウンジで一杯ひっかけ、すぐに寝た。どうしてそんなに疲れていたのか分からない。
 昨日のままのシャツが皺くちゃになっている。コートを椅子の背にかけたままなのは失敗だった。すぐそばにハンガーがあるのにどうして手が届かなかったのか。ウィスキー一杯。その後の記憶があやふやだ。兵庫は起き上がると――また左手が無意識のうちにスマートホンを放る――、右手でシャツのボタンを外しながら大欠伸を一つ。裾を踏みつけるようにズボンを脱ぐ。ユニットバスの照明は眩しすぎるほど明るい。LEDの冷たい光に照らされた半裸が広い鏡に映る。顔が青白く見えるのは照明のせいだ。痩せた身体に柄物のトランクス。親指を引っかけて脱いだそれを、爪先で背後に抛った。白いプラスティック製のドアから追い出されるパンツ。閉めればギュッと密閉された空気。熱いシャワーを出す。半透明のカーテンに包まれて、湯気が充満する。
 兵庫は俯き、止めていた息を吐いた。湯に打たれていた額が解放され、わずかに理性めいたものが蘇る。大きな目を半開きにして見下ろす先に、自分の足がある。俺の足だ、とぼんやり考える意識が散漫になり、次に鼻を伝って落ちる湯に集中する。上からはスコールのように降ってくるのに、ここだけまるで水時計の一滴のようにぽとり、ぽとり、と落ちる。泣いているみたいだ、とやはりぼんやり考えた。映画のワンシーンみたいだ。ありきたりな映画の、打ちのめされた男。多分これからタクシーで日銭を稼ぐような、そんな男。
 プラスティックの壁の向こうから能天気な電子音が聞こえる。昨夜アラームをセットした時刻を思い出した。もう五分くらい寝ていてもよかったかもしれない。コックを捻り湯が止まっても、シャワーの残響は耳の奥に残った。耳の奥に残った音が身体を流れ落ちて、シャワーの終わりを知らせる。さあ、仕事の時間だぜ。
 まだ本調子ではない身体のブレが、タオルで顔をぬぐい、冷たい床を踏み、一つの身体の形にまとまってゆく。白一色に見えた部屋もオフホワイト、アイボリー、クリーム色の区別が表れる。だがカーテンだけは雪のように真っ白だ。それを空ければ雨の上がった空は、高いところを薄い雲に覆われてシルバーホワイト。晴れた日よりも眩しい空だ。白い空の残像にまばたきしながら、旅行鞄をベッドの上に開けた。
 新しいパンツ。新しいシャツ。シャツは昨夜のうちにクリーニングサービスを利用すればよかった。滞在の間足りないかもしれないが、いざという時はとぼけて着回してやれ。誤魔化しのきかないのがネクタイだ。新幹線に乗る前に、クローゼットの前で悩みに悩んで三本掴んだ。一番気に入っているのをうっかり二日続けてしまったのは失敗だ。昨日の長崎の微笑みはそういうものだったのだろう。人一倍気を使っているはずなのに? 二日続けて同じネクタイを締めることになった、前の晩のこともやはり思い出せない。どこで飲んだだろう。ハイボールだ。味だけが舌の上に残る。
 昨日、一昨日とコートでは暑すぎた。だが去年桜の下を歩いた時も、また一昨年も同じコートを着ていた。新幹線に乗った時はこれだった。ネクタイはまだ締めていなかった。あの寒さが恋しい。湿気が煩わしいのだ。こっちに来てから雨ばかりだ。仕事で集まった奴らの中に女泣かせがいる。そう決めつけた。
 コートに袖を通す。狭い廊下に造り付けられた姿見に映せば、いつもの自分がポーズを決めている。暑いな…、と独り言をこぼして脱いだコートをハンガーにかけようとしたが、考えた。今日こそ仕事が早く終われば。雨は見事に桜を散らせたが、それで春の全てが価値を失っただろうか。今日こそ日の暮れる前に上がれば、面倒でも千葉まで行っていい。記憶に残らない酒は真っ平だ。しかもホテルで一人目覚めるなんて…。
 背広を羽織ればありふれたサラリーマンが一匹完成だ。コートは仕方ない。諦めろ。暑さには誰も敵いやしないんだ。腕に引っかけてホテルを出る。シルバーホワイトの空に向かって、降るなよ、降るなよ、と小声で懇願するのはちょっとしたフラグだが、降っても今夜は西に向かうつもりだ。




2015.4.6 しゃさんの県擬の二次。絵柄まねっこより、兵庫。