花のふる袖






「久しぶり」
 の一言の華やぎに、すわ窓の花も咲いたかと思われたが生憎の雨である。
 思いの外の長雨であった。この仕事の終わるまでには、一日でも晴れの日があろうと楽観していたのだけれども、天は花見をさせる気はないらしい。薄暗い街にしとしとと雨音ばかりが響き、陽気もない、歌もない、樹下に敷き詰められたは桜の花弁である。だがいっそ好もしいことだ。ビニールシートを敷き詰めて塵を散らすよりはずっとよい。東京にもこんな風情の花の季節があってもよいのである。ええ天気やね、とは素直な褒め言葉のつもりだったが、件の女は常の通り皮肉であると解釈したようであった。
 ビルは冷房さえ利かせている。じめじめとした湿り気の膚に貼り付くのは確かに不快だ。しかし夏と呼ぶには匂いが足りない。地の底から湧く虫の息吹、草の息吹、陽に侵された土の耐えかねた熱い息が足りておらぬ。からして、何とも爽やかさのない。冷やされて感じるのも、執拗に濾過されたただの味気ない風である。わざわざ東京なんぞに出て仕事など、と只でさえ愉快ではなかった京都だから欠伸の出る午後遅くであった。そこへ、一言の華やぎであった。
「珍し」
「元気かい」
 鹿児島が両手の人差し指を竹刀に見立て、ぱしんと軽く空を打った。振袖が踊る。春である。桜の柄が袖の下へゆくごとに積もる。散りうずむ桜である。対して肩から胸元は花霞の白だ。そこからはらはらと散る花が袖を桜色に染めるのである。これで春の陽気の、仕事なんぞ放り出して花見にでも繰り出そうという折であったら、頭上の桜に気を取られ霞んでしまったかもしれないが、窓の外は暗い。濃い紺袴に袖の映えるように、味気ない雨天の下には花であった。
「大会でもなかなかぶつからんけんね。どう、時間なかね」
「一体何のお誘いだろう」
「一太刀交えんか」
「おや」
 京都は丸く目を見開いて見せた。
「大胆な」
「は? 何ば言いよるか。剣のこつぞ?」
「照れなくとも」
「照れとらん。だいたいうちは太刀なんぞぶら下げとらん」
「ほんま…」
 敢えて言わずと、わずかに瞼伏せ気味に見遣れば、そっちが言い出したつだろが、と鹿児島は怒った。
「品の無かてや。残念、うちは南も南も九州の端っこだん」
「どうして。品のある振袖」
「振袖に品はあって、うちに無かて言いたかつだろ」
「喧嘩か!」
 ベンダーの並ぶ角から東京が顔を出す。
「加勢してやろう。何だてめえらか。しようがねえ、鹿児島、挟み撃ちと行くか」
「いらん!」
「喧嘩じゃねえのか」
「珍しくこの子が口説きよるのや」
「ちっげえ!」
 痴話喧嘩かよ、犬も食わねえぞ、と東京はカップのコーヒーを飲み干し、あばよっ、と姿を消す。鹿児島は眉間に皺を寄せてそっちを睨んでいたが、ふん、と盛大に一息吐くことで溜飲を下げることにしたようだ。
「ほなない」
「おや、帰るの」
 京都の一言が留めたので、袖の重みにつられるように鹿児島は立ち止まった。
「飲んで寝る」
「ボクの部屋に来ればええのに」
「口説きよるとはそっちじゃなかや」
「まさか」
 微笑みを浮かべて下から覗き込む。
「ボクの愛人になりたがったのは君やないの」
「い……」
 いつの話か!と鹿児島は叫んだ。
「つい先月…」
「百年以上も昔だろが!」
「よう覚えてる」
「せからしか!」
 淡いルージュを引いた唇は唾をまき散らしてがなり立て、何や何やと東京の姿を消した角やら会議室のドアを開けてぞろぞろ顔を出す連中があるが、京都が微笑で一撫でするとそれも一斉に引っ込む。
「まあええわ。今度はボクんとこに遊びにおいで。クローン桜やのうて、西山の桜で花見といこう」
「……ワイと喋りよると、疲れる」
「ならおしゃべり以外のこと、しよか」
 また一頻り鹿児島が怒鳴るのを背に歩き出す。窓の外がぼうと色を変える。ただ灰色の折り重なりであった雲のまにまに、平野の向こうに沈む陽の最後に投げた光が透かれて、淡い日の色が濃く垂れこめた雲に濁って、また次の雲が光を孕む。街はただ陰に沈み形を成さない。空だけを見れば、突然霊験の峰々が現れたようであった。そこへ映り込む花霞と、散る花と。
 京都はくるりと振り返った。
「ボク、今日も仕事で疲れてるんや」
「……何?」
「一杯つきあお」
 結局自分から口にしてしまった。はよ言わんか、と鹿児島が隣に並ぶ。背後から怖々覗き込む視線を微笑で払って、京都は苦笑の溜息をついた。




2015.4.6 しゃさんの県擬の二次。絵柄まねっこより、京都と鹿児島。和菓子食べてないじゃん…。