雨のたまゆら






 夏日の、どうのと、世間では騒いだようである。花を流す雨はむっとする香りとともに降り注ぎ、下界は桜の色さえ散らねば五月雨の様相である。高いところからそれを見下ろして、背には八重たな雲、足下は乳色に烟る山。雨音ばかりならやかましいこともないと一足蹴れば、小さな身体は真っ逆さまに岳へと降る。
 杉は後から植えたものではあるが、まだ緑も揃わぬ山の中、しんと静けさを保ち清しい気を巡らせるのは有り難い。これで陽の明るい真昼に見上げれば、若く芽吹いたのが天の火を透かして燃えるのの、目に快く心晴れやかになるのだが、そしてまた人を連れて来るならばそのような日に限るのだけれど、今は雨音ばかりを引き連れてやって来た己ばかりの道行きなので、薄暗くも、湿るのも、夏日の報せなどお構いなしに岩屋の奥からひやりと頬をなぜるのこそ歓迎すべきものであった。手弱女の舞のごと纏わりつく冷気と遊べば、初夏のごとき熱気に赤く染まっていた頬も白く落ち着く、髪はしっとりと重みを増して耳を覆い遮ろうとするから後ろへ撫でつけてやらなければならなかった。
 岳から、杉の梢を遊ぶ涼風を戯れるに過ぎた。うっかり町まで下りてしまったのを自分で笑い、トントンと坂を上る。鳥居の前で稲穂の飾り物を売る出店も、この雨ではとうに仕舞った。誰ぞ座っていた跡だろう、寂寥を横目に鳥居の下で軽く手を振る挨拶をして、抜ける。玉砂利が雨音を吸う。いよいよ静かな境内を、奥の門へと。窓口には、流石に今日は人が少ないはずだが、それでも明るい色の傘が咲く。二つ、三つと追い越して、閉まろうとする門の向こうへするりと抜けたはずが、待ちなさいの一言に歩が止まる。
「お召しには気を遣ってもらわんば」
 薄暗い境内の端も端、ぽつんと明るい窓口に、俯き加減に座るヒトが言う。
「誰も気にはしないもの」
「ずぶ濡れやが」
 手招かれ、くぐった小さな戸の内で白の装束に召し替えつ。男とも女ともつかぬふくふく太った白い手が丁寧に丁寧に細い髪を梳る。しかし前髪の幾筋か、どうしても顔の前に垂れるのと、元気のよいののぴんと雨に逆らい逆立つのと。仕方が無い、と丸い手は横髪を撫でつけ露わになった耳の清いのを確かめ、ではいってらっしゃいまし、と幣を持たせた。
 己一人のためだけに開いた門の向こう、降る道は険しく、谷間の向こうは尚厳しい断崖がそそり立つ。その半ば、丸く大きな岩が塞ぎ埋もれている。やおら、視線を遮り乳色が流れた。雨音が退く。では霧であろうかと見れば乳色の内に火を孕み、遊び転げている。幣を振れば逃げる。だが離れるようでもない。
「御前をしてくれるの」
 肯くではないが、ころころと珠を転がすような音が先を走り、河原の先へ導く。深い洞の入り口に注連縄が揺れている。雨は落ちるが風の激しいことはない。地の奥から誘う吐息である。垂れた前髪もゆらゆらと揺れた。
「ぼく、今度ねえ、」
 幼子のように彼は呼びかけた。
「またお酒を飲みに行くんだけど、きっとまたあのお話をするんだろうねと思って、そしたら、無性に会いたくなっちゃった」
 乳色の光はくるくると河原を転げ回り珠散らす音に合わせ弾ける。幣を振れば逃げるように高く舞い、細い手足が雨の中に伸びると形を変えて絡みつく。
「天宇受売」
 掌の上で燃える乳色に広く美しい額を埋めさせ、子供はうっとり囁いた。
「また踊ってくれんね?」
 河原に咲いた傘の花が驚いて転げ落ちる。天岩戸に詣でる人々の背後で、積まれた石がかちりかちりと砕ける。雨のせいであろうと誰かが震えた声で言う。かちりかちりと石は弾け、玉転がす音が河原に満ちる。




2015.4.5 しゃさんの県擬の二次。絵柄まねっこより、宮崎。