もらい紅






「愛人って誰のことかしら」
「秘密の恋人がよかったかな」
「ちっとも秘密じゃないじゃない」
 それに恋人だなんて、と長崎はわずかに眉を寄せた。
「嫌か?」
「そんな齢じゃないわ」
「齢は関係ない」
「似合わないわ、私たち」
「そんなことはない。無論、君が夫婦がいいと言うんならちっとも吝かじゃない」
 福岡は女の手を取り唇を寄せる。
「今でも君が欲しい」
「無茶なことおっしゃらないで」
「今だって君と佐賀に合併論争が起きるくらいだからね。きっと夢じゃない」
 この手を俺だけのものにするよ、と白い掌に頬擦りすれば女はやさしくその手を滑らせた。
「その気になったかい?」
「デートをする気にはなったわ」
「何処に行こう」
 急に男ははしゃいで女の身体を抱き上げんばかりに引き寄せた。女は驚き、目を見張り、まあまあと声を上げる。
「そんなに嬉しいの?」
「君に男の気持ちは分かるまい」
「分からないから尋ねているんだわ」
「君は知っているか。自分がどれだけ美しいか。どれだけ俺の心を燃え立たせるか」
「分からないわ」
「触れてごらん」
 手を誘い胸に触れさせれば女は素直にその上にもたれかかった。
「熱いわ」
「だろう」
「こんなに熱くては梅も桜もあっという間に散ってしまうのではなくて?」
「散らせて構わないさ。花が君が歩く道を飾るよ。どうぞ踏みしめてくれ。それが俺の喜びだから」
 電車から降りれば言葉の通り、雨の散らした花びらの道と、梅雨のように息苦しい湿気、そして暑さだった。
「日傘を忘れてしまった」
 女が手を翳す。陽の色は春のそれなのに、湿った重い空気が雲間の日差しさえ耐え得ざるものに化する。男の袖が小さな影を作った。
「買ってあげよう」
「いいの?」
「勿論だ」
「いいわね」
 まだ手にせぬ傘に目を細め、微笑みは雨上がりの蕾のごとく綻ぶ。
「傘を買ったら、あなたの庭に連れて行って」
「歩くのかい」
「一緒に歩くの」
「随分歩くぜ」
「構わないわ」
「疲れるだろう」
「疲れたっていいじゃない」
「疲れたらどうする」
「あなたがいるわ」
「そのとおりだな」
 人の怪しむ前に袖の影でキスをし、軽く触れた唇に残る余韻と残り香に互い、くすぐったそうに笑った。
「梅の香よ」
「君の香水は舶来だな」
 日傘を買う。あわせてハンカチを買う。そろいのハンカチに染ませる香水を買い、それに似合った口紅を買った。女は店の鏡を覗き込んで、濃くつきすぎたわ、と薬指を押しつける。それがゆっくりと濡れた唇をなぞる。
「あなた、きて」
 福岡が鏡に己の顔を映すと、こっちを向くのよ、としかられた。
「ね。私、男の人の気持ちはよく分からないと言ったけど、存じていてよ」
「何を…?」
「色男さん」
 女の薬指が殊更ゆっくりと唇の上に紅をなすりつけた。
「あなたって本当に素敵な人」

 真夜中の電話を待っている。庭に佇み、山の向こうを見つめている。雲に隙間はあるものの、夜空は僅かに見えるものの、月はない。星もない。今夜は月食だという。赤い月が見られたのだという。雲め。憎らしい雲だ。山は黒く踞る得体の知れない背である。雲が街の灯を反射して薄紫の光を孕んでいるせいでその下に蹲る山はいよいよ暗く不気味に見えた。電話は電線を伝って山の向こうの薄紫の雲の向こうからやってくる。その音に耳を澄ませている。月蝕だというのがいいのだ。本当の空は暗いとのがいいのだ。本当に欠ける月ならば、この先何度見るか分からない。いちいち騒いでいては…。
 ベルの音が屋敷の奥から闇を裂いた。福岡は振り返り、ゆったりと踏み出した。靴脱ぎ石に草履を脱ぎ、縁側を踏み、畳を横切って、廊下の花台に鎮座する黒い電話の前に佇んだ。この小さな卓は花生けを置く為に本来買ったのだった。昔のことだった。青い焼き物の花生けを据えるためだった。花生けは割れ、焼けて、失われた。
「もしもし」
 受話器を把り、耳に触れさせる。
「あなた…?」
 心細いような声が電話の向こうから伝わった。
「どうしたんだい」
「いいえ、あなたの声ではないようだったから。ねえ、福岡、私、あなたの家に忘れ物をしていないかしら」
「何を忘れたの」
「口紅よ」
 口紅、と口の中で呟き懐に手を入れる。
「買ってあげたのに、もうなくしたのか」
「違うの。それはちゃんと持っているわ。ここに持っているわ。ちゃんと手に持っている」
「じゃあ、どの口紅を」
「私の口紅」
 あなたに会いに行くのに私が差した紅…。
「どこにも見つからないの」
「なくしたんじゃないのか。たくさん歩いたから」
「だから尋ねているのだわ」
「気に入っていたのかい」
「ええ」
「また買えばいい。何なら買ってあげる」
「……いいの。ないのであれば、もう仕方ないわ」
「いいのか?」
 懐から取り出した紅の蓋を弾き、唇に馴染むよう押しつけた。濃い女の匂いがした。受話器の向こうで女は耳を澄ましていた。その呼吸が鼓膜をくすぐった。
「長崎」
「ええ」
「今度君が遊びに来たら買ってあげよう。約束だ」
「ええ、きっと」
 沈んだ声はぞわぞわと福岡の腹の底を撫でる。そのざらついた冷たさに臓腑が震え、膚が粟立つのさえ心地よい。
 真夜中の電話が切れて沈黙した受話器に向かい、ふっふっと男は赤い唇で笑う。
「君は本当に分かっていないね」
 接吻する男の髪が風もないのにそそけ立ち、凄艶な笑みを隠した。
「今でも君が欲しいと言っただろう」




2015.4.4 しゃさんの県擬の二次。現代。