嘘つき夫婦






「エイプリルフールをしましょう」
 女が笑顔で言う。玄関先に佇む。背中に桜をしょっている。昔に比べて暖かくなるのが随分早くなった。昔の今頃、桜は枝の先が赤く見えるばかりだった。今はもう、満開のニュースさえ聞こえる。彼の邸のそばも、四分か五分咲けば満開のごとき花の数に見える。女の背はそれら春の景色をしょっている。花を引き連れてやって来たかのようだ。
「兎に角、入るといい」
 男は一歩下がり軽く手で促した。女はもとより勝手にするつもりだったと言わんばかりに履き物を脱いだ。所作が堂々としているから、まるで主はこの女であるかのようである。男は脱がれた履き物を見下ろしたが揃え直す必要さえない。爪先の向いた先、もう一度花を見遣って戸を閉めた。
 茶を焙じていると、いい香り、と声が投げられる。姿は見えない。女、やはり勝手知ったる風に座卓にもたれ、庭を眺めているようである。これがなければなかなか来ないわ、と女は出された羊羹の葉面に指の腹を触れさせた。
「行儀の悪い」
「あら、構うの?」
 庭ののどけき様子は若芽よりも花よりも、何より空の広さによる。街中であるのに、全く遮るもののない空である。田舎と呼べばそうだろう。田舎には違いない。街とて少し外へ踏み出せば広がるのは稲田である。そこもまだ忙しさも爽やかさもない、刈り取られた後に全く勝手に草などが生えていていよいよ田舎だ。それらの上に広がる青空であるから、ただただ広い、ただただ長閑さが降ってきて積もるような、そんな陽である。
「エイプリルフールよ」
 女が呟いた。皿の上は空っぽで楊枝が転がっている。
「四月一日なんぞ、待てば勝手にやってくる」
「何か嘘をつきましょうよ」
「君も世俗の戯れに流されるのか」
「いいじゃない、戯れならば」
 あなたも人のことは言えないでしょう、と女は茶碗で口元の笑みを隠す。
「面白いCMを作ったじゃない。驚いたわ、あなたにあんな茶目っ気があったなんて」 
 女の視線が斬り込んでくるのを避けながら、それは嬉しい感想をもらった、と空とぼけた。ここまで気のない様子、諦めるか、しかし女は急に嘲る様子をひそめた。それが沈黙に張りをもたせた。長閑な庭は届かぬ絵となった。座敷から眺むる二人の世界は、陽の蔭の肌寒い静けさに満たされた。
 女は扇子を取り出してぱちりぱちりとやり始めた。男は羊羹も食い終わり、茶も飲み終わり、出来ればおかわりが欲しいがと思っている。女の全てを真に受ける必要はないのだと考えながら、いつでも自分はここから立ち上がれるのだし、今度女が斬り込んで来たら逆袈裟に斬ってやってもいいのだと油断を見せぬようにしている。ぱちっ、と扇が閉じて、唇の隙間から細い息が這い出た。
「私たち、結婚しましょうか」
 ぎろりと見遣るが、女の視線は柔らかだ。まだ笑みには至らぬが、霞相手のように、斬り込んでも手応えがない。
「どうかしら」
「今更、何を馬鹿な」
「馬鹿馬鹿しくってもいいじゃない。四月馬鹿のお話しをしているのよ。私は花嫁衣装を着るから、あなたも正装してね、写真を撮るの。それを葉書に刷って皆に送りつけるのよ」
「本当に着るのか」
「着るわ。あなたのお好みだって聞くわよ。白無垢だって色打掛だって、勿論ウェディングドレスだって、何だって。それで写真の上に私たち結婚しました、と書くの。あなたが書いてね。上手いから」
「馬鹿な」
「ええ、馬鹿なお話しをしているのよ。そういう話をしに来たの」
 男が項垂れると負けてへこんだところへ庭の長閑さがとろりと流れ込んできた。ぬるい空気だった。女が扇子を広げ、胸元をあおいだ。
「私が冗談を言ったと思って?」
「四月馬鹿に本気の話か」
「そうよ。悪い?」
 男は首を振った。
「嫌?」
 女は首を伸ばし男の顔を覗き込む。男はずり落ちそうな眼鏡を支え、女の視線を受けた。女の目の奥にわずかな揺らぎを見た。まさか冗談と流してしまわないわよね、と。冗談であれ、本気であれ、不穏に過ぎる。隷属の記憶は古びてはいない。だが、この女をほしいままにした記憶もまた、昨夜の夢のように鮮やかである。花嫁衣装。嘘でも叶うものであれば。だが。
「駄目だ」
「…駄目かしら」
 女がわずかに俯いた。ようやく立ち上がって台所に向かう。しかし足音がついてくる。花の気配がふわりと背に触れる。
「平気よ。四月馬鹿の嘘は叶わないんだもの」
「叶えたくない嘘なのか」
「あなたが嫌がるんでしょう?」
「俺の好きにされたくないと言ったのは君だ」
「いひゅうもん」
 白い歯が耳元に囁く。
「その頑固さで損をするわ」
「己を損なうよりいい」
 冷たい腕に殴られたような気がして振り向けば女は踵を返すところである。手を掴むと憎悪を隠さぬ目が睨めつけた。
「私がそばにいることであなたを損なっていたとは知らなかったわ」
「俺の生き方の問題だ。君は喧嘩をしにここまで来たのか?」
「エイプリルフールの話よ。最初にそう言ったじゃないの」
「じゃあ何故」
「あなたが勝手に怒ったのよ」
 ただの冗談に、という言葉は酷く胸に食い込んだ。血に染んだ爪を腹の奥まで突き立てられたように臓腑が煮立った。
「冗談にして堪るか!」
 口をついて出た叫びは薄暗い廊下をびんと震わせた。恫喝への素直な恐れに女の身体が一瞬硬直した。目が恐れを浮かべていた。違うのだ、と続けて叫んだがそれは胸の中だけのことだった。君が喧嘩をしに来たのではないと分かっている。俺が勝手に怒ったのだ。それも分かっている。何故、それを伝える術がない。
 女が腕を引っ張った。男は離さなかった。離してはならなかった。怯えた瞳を目の前にしても。いつもこうだ。足る言葉が口から出たことなどない。呼吸の内に素早く七を数える。男は喘ぎ喘ぎ口にした。
「君には冗談かもしれない。世間も馬鹿なことと笑うだろう。だが俺には冗談ではない」
「…冗談じゃない、と?」
 女の腰に手を伸ばしぐいと掴んで引き寄せれば、相手の唇はくっと噤まれ目が見開いた。だが男は退かないし一言とて謝りもしない。そぶりさえ見せない。鷲掴みにしたのはうっかりではなかった。意志あらばこそ、女の身体を固く抱いた。
「あなたはいつもそう」
 女は唇の片端をうっすらと持ち上げた。
「いつだって私を抱きたがったわ」
 言い訳の言葉は返らない。男はただじっと腕の中の女を見つめる。その目がよそからは恐ろしげな…と評されるそれだったが、一向に気づきもしなかった。ただ眸の中に女の姿だけがある。時代はとうに変わったのよ、と女が言った。聞こえているが、だからどうしたと胸の奥で思うばかりだった。確かに時代は変わったろう。定規で測って法で治める世の中になった。国境を越えて攻め入り、本丸を獲れば俺のものだという世界ではない。だが天の法にあらずば地を縛る謂われもあるまい。触れれば離したくない。抱けば尚のこと。帰すものかと呟くのを堪えてただただ腕に力を込める。こんななのだ。冗談になどなろうはずがない。
 女も黙って何も言わなくなった。言葉の応酬はこの固い抱擁も簡単に解くだろう。女は玄関から出てゆく。折から強い風の散らす桜は、あっという間に女の後ろ姿を隠すだろう。もう見つかるまい。今は二度とあるまい。永い永い時を経ても、再びは訪れまい。
「でも」
 弦の細く裂かれ切れるような声で女は呟いた。
「永遠にこのままでなんて…」
 陽はいずれ傾く。長閑な午後が終わればどこへ行くだろう。帰るしかあるまい。また送ってゆくのか。そして高速を下りて別れるのだ。一人家路につき、一人長い道のりを走るのだ。弥勒の春の陽気に転た寝する、ほんの瞬きの間ほどのひとときを手にしながら。胸の上に女が顔を伏せた。ほんのり朱に染まった耳を見下ろした。
「嘘をつこう」
 男が囁いても顔を上げなかった。だから男は女の項に向かって話しかけた。
「君と俺だけの嘘をつく。君と俺だけだ。誰にも見せたくなのだ、俺は…。人間のふりをしよう」
「…にんげんの」
 胸の上に囁きが落ちる。男は肯く。
「人のふりをする。写真屋を欺いて写真を撮らせるんだ。結婚をしたのだと嘘をつく」
「嘘をつくの」
 眼差しが持ち上がり、訥々と話しかける男を見上げる。
「平気なの?」
「君はきっと花嫁衣装を着てくれるんだろうな」
「ええ」
「じゃあ俺も正装をするから。本物の写真を撮るぞ」
「嘘をついて本物の写真を撮るの」
「いけないか?」
「あなたじゃないみたい」
「俺じゃないんだろう。人間のふりなんぞしているから、もう俺では…」
 女の手が頬に触れた。だが唇の近づくには距離があった。女は嘘をつくと決めた唇を指でなぞった。
「あなたのこと、何て呼ぼうかしら」
「好きに呼べばいい」
「あなた、よ」
 女はわずかに潤んだ瞳を隠して、男の胸に頬を寄せた。
「あなたに決まっているわね。夫を呼ぶのだもの」
「…おまえ」
「なぁに」
「時間をかけるだろうな」
「当たり前よ。気に入ったドレスが着たいわ」
「待つさ」
 女には見えなかったが男は口元にようやく春めいた綻びを見せ、呟いた。
「今、何と言ったの」
「当ててごらん」
「愛していると言ったわね」
「そうだ」
 嬉しいわ、ずっと待っていたのよ、と女が言った。
 二人は表に出る。強い風に花びらが散るが、まだ半分も咲ききってはいない。これが満開を過ぎ、散り始めれば尚美しいと男は傍らの女に言う。女が少し遅れてついてくるので、わずかに腕を空ける。そこへ女の手はするりと滑り込む。
「ねえ、浮立の衣装はあるかしら…」
「さあ…」
 途切れ途切れに、だが楽しげに交わされる会話にすれ違う人が振り返り見送る。男女の姿は写真屋のに立ち止まり、鐘を鳴らして中へ入った。




2015.4.1〜3 しゃさんの県擬の二次。現代。