冷たい夏蜜柑






 真昼の太陽が高く上っている。カーテンが風に閃いて白い陽光はちらちらと和歌山の顔を照らした。眩しくて、それで目が覚めた。
 枕の上にじっと頭を載せている。外した腕時計やスマートホンがそこらに転がっているが手を伸ばす気にはなれない。ちらりと斜め上を見上げると潮騒が聞こえた。熱さがじわりと胸から立ち上った。窓が開いていて、そこから潮風が吹き込んでいる。涼しいがそれ自体が熱を孕んだ風だ。そして潮の香、潮の粘っこさだった。開いた胸元に手を伸ばすと、汗の浮いた肌はひやりと冷たい。のろのろと身体を起こす。首にかかる長い髪が煩わしく、腕が自然とそれを掻き上げる。髪をまとめるゴムを探したが見つからないので、片手で髪を掴み上げたまま、うう、うう、と小さく唸って立ち上がった。頭痛があった。
 昨夜は遅くまで飲んでいたほどではない。いつものように飲み、いつものように眠った。皆、飲むには飲む。まして旅先の宴会であるから、飲む。が、心得ている。宴席の真ん中に京都がいるので乱れるということがない。しかし頭の芯に残っている。久しぶりにいつもの面子以外と飲んだかしら。もてなしの男のしゃがれた声と、ビールを注いでくれた日焼けした手を思い出した。いつもより一杯か二杯、多く飲んじゃったんだわ。そう思うことにした。
 旅行鞄からはみ出た服を引っ張り出し、零れ落ちたシュシュを掴んで鏡を見もせずに髪を結う。カーテンを開けると待ちかねたように風が、真昼の陽光が部屋に飛び込んだ。風は後れ毛を揺らし、白熱した光は瞼を射た。
「眠い…頭痛い…」
 もう眠くはない。寝すぎた。それでも最初の一言がだらしなく口をついた。頭が痛いのは本当だった。薬…、と小間物を畳の上に広げる。どこで買ったか土産物だったはずの小物入れがあった。西陣織を張っている。開けるとフィルムに包まれた錠剤が転がっていた。二つ舌の上に載せ、卓上の湯呑を取った。透明な液体が半分入っている。まさか酒精じゃないでしょうけど、とかいでみるが無臭。湯冷ましにポットの、もうぬるくなってしまった湯を足して、ごくりと錠剤を飲みほした。
 浴衣のままでだらだらと過ごしていたいが、だらだらとしていては頭痛も引かないだろうし、何のための旅行か分からない。仕方なし、奈良と一緒に買った気の抜けたTシャツを着てジーンズに足を通す。尻の形がぴっちりと出るが、和歌山は気にしない。似合えばいいじゃない。もっと過激な恰好がそこらへんに溢れてるじゃないの。廊下を渡って本館に至ると、全体が白く光っている。昨日宴席を設けた広い座敷、一面が開け放されている。
 既に掃かれ、清められ、何もないがらんとした座敷だった。二十畳二間の続きが、襖も取り払われ、障子も開け放され、海から射す容赦のない陽光に光の直方体のごとき様相を呈していた。和歌山は無邪気にそこへ足を踏み入れた。畳のヘリに座り、低い欄干にもたれかかると広い浜と千葉の海が一望された。
 シーズンにはまだ早い。うじゃうじゃと人間の集まるのはもう少し先だ。海は冷たそうだが、浜のところどころに刺さったパラソルがちょうどいい。青と白のあれは自分たちの持ってきたものだ、と見下ろした。パラソルから離れて千葉の姿があった。手をかざして海を見ている。和歌山も手をかざして沖を見遣る。
「奈良くんだ」
 和歌山は目を細めた。海に半分沈んでいる、だがその体躯は奈良だと分かった。手足を投げ出して浮いている。遭難してるのかしら、とも思った。それとも遭難ごっこかしら。それとも海を知らないから、ああして身体を委ねるのは。
「気持ちいいのかしら…」
 いつだって遊びに来ていいのに、と去年の夏、一昨年の夏と誘ったのを思い出すが彼が己の土地から出ることはあまりない。勢揃いで旅行だからと、ようやく出てきたようなものだ。出不精なのではない。土地を護る役割があるからだとは当人の談である。和歌山はあまり気にしていないが奈良にとって、土地神と等しき己の存在、とは重い責任のようである。じゃあ今頃あんたの故郷は水浸しよ、と和歌山は海に向かって囁いた。男はそれが聞こえたかのようにくるりと海の中に反転した。
「あっ!」
 溺れた!と思い身を乗り出す。しかし奈良の身体はすぐに浮いて、ゆっくりと浜へ向けて泳ぎ出す。
 起きたか、と低く柔らかい声がかけられた。どこからした声だろうかとあちこち見渡すと、ここ、ここ、という声と共に手を叩く音。階下である。欄干をしっかり握りしめ見下ろせば一階の縁から三重が顔を出している。
「宿酔したようだったが」
「してないよう」
 和歌山は頭を引っ込めると未練無く座敷を立った。光の直方体から抜け出て、廊下はひやりと寒い。目蓋の上に落ちる陰が心地よい。階段の手摺りを手でなぞり、半ば目を瞑って駆け下りると途中で仲居にぶつかるところだった。
「危ないったら」
 階下の、やはり開け広げられた座敷で三重が笑っていた。傍ら、障子の薄い影に滋賀が横座りをしている。二人とも和装だが、京都のようにいつものワードローブではない。旅先に、と誂えたのだろう。滋賀の着物の柄に和歌山は見覚えがなかった。三重のはいつも渋いからあまり見分けはつかないのだが。手前には盆があって、太陽を千切ってきたような明るい色の皮が散らばっていた。鼻に香る大好きな匂い。
「夏蜜柑。うちの」
「君が持ってきた分は電車の中で食べちゃったろう。これは買ってきてもらった」
「でもうちのよ」
「和歌山産かい。分かるかい?」
「分かるわよ」
 盆の前に座り込んで手を伸ばそうとすると、その前に、と滋賀が呼んだ。
「おいで。結い直してやろう」
 背中半分が障子の影に座る。表は日に照らされる。滋賀はシュシュで乱暴に束ねた髪を解き、懐から櫛を取り出す。癖毛で緩く波打つ髪を、滋賀の真っ白な手が丁寧に梳き、櫛が入れられた。
「さっきの悲鳴は?」
 剥いた夏蜜柑を差し出しながら三重が尋ねる。和歌山は口を開けて一口でそれを食べると、もぐもぐ噛みながら、うん、と返事をした。
「奈良くんが溺れたと思ったの」
「沈んだ?」
「うん。すぐに浮いたけど、くるって海の中にひっくり返るから、あたし吃驚しちゃった」
「よく見えたねえ」
 背中から滋賀が声をかける。和歌山はやはり、うん、と返事をした。
 昼食を食べに行くのも面倒だから素麺でも作ってもらおうと、お昼には少し遅くなった柱時計を見上げると、どた、どた、と重たい足音。廊下に、猫背になった奈良が立っている。
「おかえり」
 和歌山の口からぴょんと声は飛び出た。髪を高く結い上げて滋賀の手が離れた。奈良はぼんやりと三人を見ていたが、頬を掻き、眉を寄せ、目を伏せた。
「大丈夫…?」
「起きたのか」
 同じ事を尋ねられるわ、と思っていると奈良の足が新館へ向かう。和歌山のこめかみがちりりと痺れた。あっ、あっ、と声を上げながら立ち上がる。
「待って、奈良くん、待って」
 奈良は黙って階段を上る。ゆっくりした足取りなのに、和歌山は追いつけない。
「ねえ、待って、奈良くん」
 上りきったところで追いつき、腕を掴もうとするが奈良はそれを拒んですり抜ける。
「いいだろう。どうせ蒲団を敷きっぱなしなんだ」
「嫌よ、良くないわ、散らかってるのよ」
「構わん。すぐ寝る」
「あたしの部屋なのよ、駄目よう」
「気にしない」
「やめてえ」
 だが拒む奈良に和歌山は触れることができないし、引き止めることも出来ない。結局一人で騒ぎながら廊下を渡り、奈良が戸を開けるのを見なければならない。首から耳までみるみる熱を持った。畳の上に散らばった小間物や着替え、起き上がってはねのけたなりの蒲団、脱いだなりの浴衣。しかし奈良は鞄からこぼれだした小間物を跨ぎずんずんと畳を横切って無造作に蒲団の上に横になる。
「もうー」
「うるさい」
「もうもう!」
「牛か」
「違うもん!」
 カーテンを閉めてくれ、と掌が目を覆った。和歌山はハッと、トレードマークの眼鏡がないことに気づいた。
「眼鏡は? 海に落としたの?」
 枕元に膝をつき、尋ねる。
「千葉が」
「千葉さん?」
「いや、いい」
「何よう」
「カーテン」
 和歌山はカーテンを引く。それでも部屋は明るい。風にはためくせいもある。日差しが強いせいもある。
 再び枕元に座り込んで奈良を見下ろした。頬が真っ赤だ。血色の朱ではない。灼けている。触れると熱い。
「日焼け止め塗らなかったの…?」
 小さな声で尋ねたが奈良は返事をしなかった。しかし引こうとした和歌山の手を掴んだ。
「冷たい」
「…そう?」
 汗をかいた胸を思う。そこはもっと冷たい。
 興味をなくしたように、すぐに奈良の手は離れた。和歌山はじっとしている。出て行けとは言われないから座っている。自分の部屋だから出て行く必要もないと思う。ただじっと見下ろしているのはつまらないけれど。
 あっ、と。
 声にはならなかった。だが気づいた。横になった奈良の耳に、いつも光るピアスがない。海に入るから外したのだろうか。潮水に錆びるかもしれないと思ってか。錆びることを恐れてか。
 和歌山は両手をついて身体を屈め、穴の空いた耳を唇で食んだ。
「…しょっぱくない」
「水は浴びた」
「怖かった?」
「何が」
「海」
「…………」
「怖くなかった?」
 ピアス、どこ、と尋ねる。奈良の目蓋が開く。手が伸びて和歌山の喉に触れる。手は下りてTシャツの緩い胸元から和歌山の鎖骨に触れる。「…冷たいな」
「そう?」
 和歌山は身体を起こし、枕元から離れると畳の上に散らばった着替えや小間物を片付け始めた。
「寝ないのか」
「お寝坊したもの」
 出て行こうとする背中に、水、と声がかけられた。ポットの中身はほとんど水だ。それを湯飲みに注いで枕元に置いた。
「お素麺食べてくる」
 立ち上がる和歌山に奈良が溜息をついた。
 階下に下りると先の広い座敷に盆が三つ、四つ並んでいて、三重と滋賀が待っている。
「彼は?」
「寝るって」
 三重が冷たい器を差し出す。ガラスの器に白い麺が滝の絵のように広がり、浮かぶ氷が涼しい。器が深ければ頬擦りしたくなる冷たさだ。小鉢にめんつゆを注いで、滋賀が手渡した。
「あとで冷たい水でも持っていっておあげなよ」
「うん」
 和歌山は素直に返事をした。




乳白色の香り






 電子音は無粋だと思うが、懐でぶるぶる震えられるのも気にくわない。それが便利であることは百も承知だが身に染まぬものはあるものだ。嫌々ながら懐から取り出したスマートホンの画面を見ると、兵庫、仕事が今日中に終わらない旨、短い言葉で伝えられる。自分で言って寄越しもしないのだ、横着な、と京都は画面を暗くし見えぬところへ押し込んだ。
「なんですの」
 女が振り向く。白と赤の縞の水着。旅行の前に悩んでいたから、いっそモダンでいいのではないかと唆しはした。が、それに乗って尚且つ堂々としているのが大阪という女なのだった。水泳キャップまで被っているが海に入るつもりはないらしい。
「アホらし。日焼けしに来たんやったらハナっからビキニ一択や。通は夕方泳ぐもんや」
「通か」
「通も通。お天道様に聞いてみたら?」
 で、なんて、と尋ねられる。兵庫の仕事が終わらないと言うと、そりゃあ、まあ、まあ、と大阪は楽しそうに笑った。
「兵庫いじめにきたのにねえ」
「人聞きの悪い」
「仕事する目の前で遊んでやる魂胆やったのにねえ」
「性格の悪い」
「誰が」
 浜は静かだ。潮騒はあるが静かで、日差しは強いが何事も起きない。時間が長い。兵庫をいじめるでなければ何をすることもないからビールの栓を抜いて安い紙コップを傾ける。
「やあ、ご帰還」
 京都は手庇に波打ち際を見た。片腕を抱えた奈良が重たい足取りで海から上がる。
「あれは海水浴初めてやったんや」
「うそ」
「ほんま」
「まあ日焼けして、かわいそうに…」
 クーラーボックスからビールを一本抜き出して大阪が立ち上がる。日差しの中に晒した姿は京都も忘れていたが、存外シャンである。今時のなりでなくとも、足首はしっかり締まっている、腿から尻にかけて形が良い。ビキニも決して似合わないということはなかったかもしれない。だがやはりこの水着が相応なのかもしれなかった。浮き輪を持たせるべきだった、と京都は思った。
 泳ぎ疲れた奈良がぐったりと座っている。ビールで首元を冷やし、中身を呷るのはやめたようだ。着物をかけてくれた千葉に渡していた。そんな奈良を振り返り振り返り、大阪が帰ってくる。
「熱中症か」
「人間やあるまいし」
 アホなことを、と大阪は腰を下ろす。
「少し休んだら帰るて」
「まだ昼やのに、勿体ない」
「あれはあれで満喫したようやから、ええんちゃいます」
 大阪はぐったりと身体を反らし、暇やわ、と呟いた。
 その姿と、鼻を掠めた妙な香りに、京都は眉をしかめた。
「大阪」
「なんですの、その目、いやらしいわぁ」
 最初からばれている。ならば遠慮することもない。
「乳、張ってる?」
「気づいたの」
 実はさっきから苦しゅうてね、と大阪は乳房の上に手を当てた。それが目の前に突きつけられる。避けきれない。
 ふわりと甘い香りが鼻腔を包み込んだ。
「おい…」
「何がどうしたやら。張って、つらい。漏る」
 乳の匂いである。漏る、という。昭和モダンの水着の下で白い液体が流れ染みているのを思わず想像した。不潔でなく、いかがわしくもない。ただよろしくはない気がする。
「水も滴るいい男に興奮したんかもな」
 大阪はパーカーを引き寄せて肩にかけた。
 夜であれば吸ってやったという話でもない。が、一度も触れずにすますものではないと京都は思った。それでも相手は大阪のことだから、多分触れぬままに昼は過ぎるのだろうし、日が傾けば大阪は海で泳いで、潮の香りのする彼女に自分は今の決心じみた考えも忘れるのだろうと思った。こういう時に迷わず彼女を押し倒して乳を吸ってやれるのは誰だろうと思う。
「東京やな」
「ん?」
「こっちの話」
「いやらしいこと考えてた目ぇ」
「知らん」
 あれは女だが、多分それができたろうと京都は思った。情欲掻き立てる絵面ではない。色気もあまりない。だが、絵になる。腑に落ちる。
「甲斐性なし」
 大阪が小突いた。
「ボクの甲斐性は使いどころが違うんや」
 京都はぬるくなり始めたビールをぐいと飲み干した。




2015.3.26 しゃさんの県擬の二次。現代。