海のある奈良に死なず






「海のある奈良に死す」
 嗄れた声が呟いた。何事かと振り向いた。
「という本があるそうだ」
「本」
「推理小説さ。大衆向け。キオスクで買って暇潰しに読むやつさ」
 奈良に海はない。それは自分がよく知っている。広く伸びる浜を眺め遣るに、海はおおらかであるというか泰然としているというか、母なるという枕詞が冠されるのは大地も海も等しいが何故だろう、奈良にとって地は深く棲まうものと思われるのはその山々のせいだろうか、そして海に懐の広さというよりも開けっぴろげないい加減さを感じるのは背中のこの男のせいだろうか。
 せっかくの海であるのに同行した誰も浸かろうとしない。大阪ばかり水着を用意したが昭和モダンのそれを濡らすことなく、パラソルの下で安い紙コップを傾けている。中身はアルコールであろう。同じくパラソルの下にいるのは京都であるが、こちらに至っては普段の着物のままであるからいよいよ旅行に来た甲斐がない。手甲くらい外せばよいのに、潮風を煩わしげに手元で仰ぐ。どうして扇子を使わないのだろう。
 自分ばかり気の抜けたTシャツを着ているのが馬鹿馬鹿しくなった。脱いだ。
「泳ぐの?」
「まあ、泳げたら」
「ああ、泳いだことないの」
「海なぞないから」
 水着は一応買ったのだ。デパートで買った。後でスポーツ用品店に行けばよかったかしらと思った。水泳キャップは必ず被らなければならないのだろうか。黒の水泳パンツは小学生の子供も、競技会に出る青年らも黒か紺だ。これで良いのだと思う。赤や緑の柄の随分際どいのもあったのだけれど、あれはどのような場で身につけて泳ぐのだろうか。それとも観光で泳ぐならそういう水着の方が良かったのだろうか。灼けた砂浜を歩きながら水着一つにつらつらと考えた。歩きづらい。足がめり込む。そのくせ熱い。走りたいが上手く足が抜けない。ひょこひょこと歩くうちに急に足元がしっかりする。濡れた砂の上に出る。すぐに波が来て足首までさらった。思わず足を止めた。
 海は想像以上に冷たかった。皆はしゃいで潜るからもっと気持ちのよいものかと思っていた。しかし冷たかった。波が引くと、ぞ、ぞ、ぞ、と身体の奥から何かが引き摺り出されてそのまま海中に攫われてしまうような気がした。追いかけて歩いた。次の波は更に奈良を濡らした。臑まで、膝まで。いつ泳ぎ出せばいいのだろう。恐れ半分、このまま引き下がる訳にもという引っ込みのつかなさも手伝ってざぶざぶと腰まで浸かる。何だか入水する人のように思えた。振り返るとパラソルの下から旅仲間がこっちを眺めているのが見えた。千葉がぷっかりと煙草の煙を吐く。眼鏡をかけたままだったと気づいたが遅い。
 別にクロールだのバタフライだのをやる気はないのだ。このまま顔を出して身体を浮かせればいい。手を沖合に向かって差し出し、重たく水のまとわりつく足元を蹴る。爪先はそれを待っていたかのように砂から離れる。
 恐ろしさよりも当たり前のように浮かぶ身体に驚いた。この身体も浮くのだな、と足を一蹴りすると身体は沖合に向けて進んだ。このまま沈まなければどこまでも泳いでゆけるのだ。
 見よう見真似の平泳ぎでゆっくりと沖へ向けて進んだ。波が正面からやって来て顔にぶつかる。流石に恐ろしくて泳ぐのをやめたが、動顛するところまで至らなかったからゆらゆら揺れている間にまた落ち着いて目の前が見えるようになった。目の前は空ばかりだ。海は身体を包んでいっそ見えない。海のない奈良が海に出てどうしよう。いつか疲れて泳ぐのをやめてしまったら、あの地は沈没するのだろうか。国の柱の一つである我が身は。それともここに島が一つ出来上がりもするのだろうか。
 海を知らないから孤島の気持ちも知らない。ふと心細くなったが、どうやって帰ればいいのか分からなかった。また泳ぐのを止めた。放っておくと、腕も足も浮かぶ。海面に大の字に浮かぶ。ここで波に襲われたら眼鏡を奪われるだろうと思ったが、身体を包み込み押し上げる巨大な質量と、目の前に広がる空の虚無の狭間に身を委ねるうちに言葉は消え、考えることも消え、ただ肉体に響く波の音が、灼く太陽の日差しが全てとなる。
 ひりひりと目元が染みて顔を背けようとし、うとうとしかけていたのかと恐ろしいことに気づいた。泳がなければ。泳いで浜まで帰らなければ。波間の所々に浮いている人間の姿がある。浜は遠いようで、想像よりも近かった。まるで遭難した人間のようなスケールで考えていたので、目の前に波打ち際の白い線を描くのや、青と白のパラソルの俗なのが、なんだ、そんなものか、とたった今までの経験を自分の処理できる内に落とし込んだ。 しかし腕は重かった。足もようやく波の下を掻いた。再び砂に足がついた時、身体のあまりの重さに眩暈がした。
 海から上がる程に身体は重たくなった。歩きたくない。もう一度海に戻りたい。だが、乾いた空気のホッとすること。乾いた砂を踏む足の喜ぶこと。のたのたと猫背になりながら歩き、パラソルの下に行ったのでは京都大阪のどんな皮肉にやられるか分かったものではないから、逸れて千葉の側に座り込んだ。
「眼鏡」
 言われると思った。
「貸してごらんなさい」
 よく日焼けした腕が背後から伸びる。奈良は自分の鼻の上からよくも飛び出して入水しなかったそれを千葉に渡した。振り返ったそのままの姿で見ていると、千葉は着物の袖でレンズを拭ってくれるのだった。
「後で真水で洗いなさいよ」
「ええ、はい」
「だが、思ったより泳いだね」
「存外に」
「はは、疲れたかい」
 一服、と吸いさしを差し出される。受け取って一杯に吸い込むと、頭の奥まで心地よい痺れが広がった。痺れが抜けると鈍くなり、考えることも全て落っことしたように軽くなる。千葉はレンズに向かって息を吐きかけ、丁寧に拭う。
「これで海を覚えたろう」
「…まだ知りもしない」
「知ったじゃないか。童貞卒業」
「童貞かな」
「処女がいい?」
「初めて泳いだ」
「初めてにしてはよかった」
「じゃあ、童貞卒業で」
「童貞卒業」
 めでたいからビールを奢ろうね、と千葉は笑う。奈良は三角座りをした膝の上に額を載せ、己の身体で作った小さな影の中で息を吐く。広い砂浜で、広い空に囲まれて自分がどんどん小さくなっていくような気がした。陽光は容赦なく背を灼く。それでも顔を上げるよりはと我慢する。
 不意に痛みが和らいだ。乾いた優しい肌の触り。薄物の生地としては自分の持っているものの方が上等だが、今は何よりも心地よい。そして自分以外の匂いがする。紫煙の香が染みついている。己の指先で燃え尽きたそれの匂いではない。千葉のかけてくれた着物を引き寄せて頭まで隠した。薄物の影の下、ようやく息が通った。
「今からじゃ遅いかな。サンオイル塗ってやろうか」
 奈良は首を振る。
「明日は痛むぞぉ?」
「いいんですよ」
 旅の思い出ですもの、と呟く頬が勝手に笑った。向こうから足音が聞こえる。京都はパラソルの下から出ては来るまいな。大阪だろうか。冷たいものを持ってきてくれれば有り難い、と思った矢先、真っ赤な頬に冷えた瓶が心地よく触れた。




201531.25 しゃさんの県擬の二次。現代。