夏を運ぶ雨




「ビキさんの」
「え、なに」
 襷掛けの長崎が振り向く。テレビに映る地元の映像は大粒の雨に滲んでビルも通りも区別がつかない。濡れた闇にぼんやりとした白い明かりがぽつ、ぽつ、と灯る。打ちつける雨粒にテレビに齧り付いている宮崎の肩が時折びくりと跳ねるのが見える。長崎は縁側のガラス越しにそれを見ても不安そうで、手にした釘と金槌を握りしめる。
「はようせんか」
 手伝う訳ではない福岡が帽子を押さえ天上を見上げる。濃い灰色の雲は巨大な渦の一端だ。本格的な降りではないものの風には雨の粒が交じり、屋根やトタンの庇が音を立てる。
「手伝いなさいよ」
 長崎が珍しく眉を寄せる。
「うちはシャッターば閉めた」
「嫌味?」
 熊本が立てた雨戸を手で押さえたまま、また振り返った。
「長崎」
「ええ」
 長崎は紅を差した唇に数本の釘をくわえ、手にした一本を雨戸に打ちつけ始める。
「いや、ちょっと待て」
「あなたも危機感を持ちなさいな」
「蛙ん鳴くとの聞こゆるや」
 長崎は手を止めて振り返った。確かに田植えを終えたばかりの田からは蛙の声が聞こえた。輪唱のようにどこかが鳴き止めばどこかが鳴き出す。
「蛙には歓迎の大雨なんでしょう」
 釘をくわえたまま不明瞭な発音で長崎は答えた。いつの間にか宮崎が縁側に顔をひっつけている。耳だけでなく顔半分までべったりと押しつけているから、長崎が半月錠を指さした。宮崎はちょっとだけ縁側を開けて顔を出した。
「ビキさんって?」
「蛙」
「もう。湿気が入るじゃないか」
 後ろから風呂上がりの鹿児島がずいと顔を出した。彼女は宮崎を連れてここに辿り着くまで故郷でもうたっぷり大雨に打たれていた。いつもは下ろした長い髪を結い上げ、湯でホッとしたものの露わになったうなじに湿った風が触れるのが不快なようだ。
「おいで」
「ビキさん」
「テレビ見てな」
 そう言われればテレビの方が魅力的だ。故郷の街が映るとここはどこだあそこだと鹿児島に解説を始めた。
 雨戸を打ちつけるのは、結局熊本がやった。長崎の指先に棘が刺さってしまった、その時の顔があまりにも可哀想だった。そもそも男の仕事ではある。福岡が躊躇わず長崎の指を吸い、平手打ちを食らう。
 風の強さだけによらない、何故だか身体の奥からざわめく。不謹慎だがわくわくする。それなのに蛙の声はまるで何事もない昨日の続き、今日の続きが明日も来るように鳴いているのが、少しがっかりだ。しーんと静かになったところに轟々音を立てて風が吹く、それからざんと降り出したら、これが台風だ。
「なんばわくわくしよっとや」
 福岡の呆れ顔はしかし平手打ちの痕が赤く残る。
「しとらん」
 玄関前に土嚢を積んだところで福岡が意地悪く戸を閉めようとして、熊本は無理矢理からだをねじ込ませた。
「アイタッ」
「ざまあ」
「福岡!」
 長崎の五月蠅い!という声が飛ぶ。
「きつか仕事ばさせたな」
「自覚あるならもっと早く気遣いなさいな」
 長崎はちゃぶ台にもたれるように座り込む。勝手口からおーいと声が飛んだ。
「表は」
 随分減ったガムテープをくるくると指で回すのは大分だ。
「終わった」
 と福岡。
「お前がしたっじゃなかろが」
 熊本が声を荒らげるのを濡れた帽子を押しつけて遮る。
「窓のガムテープ、剥がすのが難儀だ」
 どうして紙のテープにしたんだとぼやくのに、帽子の下から熊本が、安かったから、と答えると、こういう時は布がいいの、と笑顔で熊本の頭にガムテープを載せる。
「馬鹿にしよっとか」
「熊本、邪魔」
 声がした。帽子を後ろに払うとガムテープが廊下を転がった。目の前には佐賀がいる。
「え……、おまえ何しよったと…」
「お茶淹れてたけど」
 茶菓子はぼうろだ。待ってましたー、と長崎が笑顔で手を伸ばす。
 ちゃぶ台も七人で囲むと狭い。崖崩れのニュースに、鹿児島が目を背けた。
「まだライフラインに影響は出てないみたいだし…」
 長崎が慰めたが、折しもそこへ停電のニュースが入り、あ、と言う間もなく頭上の明かりが落ちた。
 もう蛙の声は聞こえない。聞こえるのは風に揺さぶられ家の軋む音、雨の叩く音。壁に雨戸に屋根にと隔てられた音は不穏に腹の底を震わせる。ごそごそと誰かが立ち上がった。台所でガスコンロの火が灯る。
「蝋燭」
 ぼんやり浮かび上がったのは佐賀の顔で、うお、と誰かが声を上げる。
「仏壇にある」
 鹿児島が立ち上がる。
「お茶のおかわりがほしいんだけど、どうだろうね」
 大分が立ち上がる。
「水も出ないんだろ」
「出ないな」
「ここであるだけの水をお茶の為に使いきるのは贅沢か」
「お水、お風呂にためた」
 宮崎が胸を張る。
「それはお便所で使うお水」
 冷蔵庫から取り出したビールを佐賀の手で再び冷蔵庫に戻されながら大分が教える。
「どうして? トイレのお水なの?」
「トイレ真っ暗ぜ、宮崎」
 福岡が脅すと宮崎は声を上げて鹿児島に抱きついた。とは言え本気で怖がっているのではない。はしゃいでいるのは宮崎だけでなく、ちょっとにまにました熊本の顔も蝋燭の灯に照らされて福岡がまた鼻で笑う。
「ゲームしたい」
 突然言い出した宮崎に、だから停電してるんだ、と鹿児島が言い聞かせる。
「ゲーム機は動かない」
「カードゲームしよう」
「トランプ?」
「ばとすぴ!」
「ごめん、よく分からない…」
「ウンスンカルタならあるぞ」
「熊本マニアックすぎ」
「ここに花札があってだな」
「私、今日は福岡の提案全部却下します」
「まだ脱衣って言うとらん!」
「今言ったじゃない!」
「停電で溶ける前にアイス食べて欲しいんだけど」
「はい!」
 皆、返事はよろしい。
 結局、アイスを食べながらUNOをやった。
 経験したことがないほど、という冠言葉のついた台風は案外あっさりと過ぎ去り暴風域も消滅し、空はまだ曇っていたものの翌日は静かな朝がやって来た。雨戸を外しながら熊本は北東の空を見遣る。被害らしい被害が出ていないのはありがたいことだが、正直なところ拍子抜けである。
 崖崩れのあった鹿児島は宮崎を連れて早々に帰ると言った。
「宮崎!」
 助手席のドアを開けて鹿児島が呼ぶ。
「早く!」
「福岡がお菓子食べてる」
 顔を覗かせながらも宮崎はぐずる。
「もう酒盛りか!」
 鹿児島は草履はひっかけたまま膝で縁側からにじり上がり呑気に酌み交わす福岡と大分の頭を叩く。
「おまえも呑んでいかんか、鹿児島。後は片づけだけだろうもん」
「逸れたところはいい気なもんだ」
「悪かとは台風ばい。オレのせいじゃなか」
 大分がお菓子を包んでくれて、宮崎はそれを抱きしめ玄関から飛び出すと助手席に収まった。
「またゆっくりおいでなさいな」
 長崎が福岡の頭に拳骨を落として言った。憤懣やるかたのない鹿児島もそれで少しは溜飲が下がったか、じゃあ、と再び膝でにじり下がり庭に下りる。
「鹿児島も飴なめる?」
 小さいなりに気遣ったらしい宮崎の手から飴を一つ口に入れてもらい、鹿児島は助手席のドアを閉めた。
 車は国道に合流する道を南下する。長崎と熊本が見送る。ふと背後の気配に振り向くとガラス窓から引き剥がしたガムテープの塊を手に佐賀も軽く手を振っていた。
「いつからおったとか」
「さっきから」
 二人の横をすり抜けて、私にも一杯、と長崎が家に上がる。
「おまえはよかつや」
「一杯くらいいただいてから帰ります」
「運転は」
「佐賀が送ってくれるもの」
 いつの間に、と熊本が小声で尋ねると隣の男は、今聞いた、とずり落ちた眼鏡を上げた。
 テレビは台風の近づきつつある関東の様子を映す。熱帯低気圧に変わるまで、トップニュースもワイドショーもしばらくはこれだろう。
「九号も出てきたでしょう」
「熱低になったらしいよ」
 曇り空の下朝から確かに呑気なものである。熊本は玄関から上がらず縁側に腰掛けて耳を澄ました。聞こえるのは蛙の声ではなく、これからくる暑さを予感させる蝉の声だった。




2014.7.10 しゃさんの県擬の二次なの。