死せる偉人と生ける名探偵とアラスカ女子高生連続十七失踪事件の顛末




 ナイフは胸を一突きしたが、それは致命傷ではなかった。刺された僕自身にさえそれは分かっていた。でも刺した本人はパニックが入っていたからそんなことも考えられなかっただろう。目の前にはばっちりメイクしたモデル稼業の十七歳の女の子もこんなにブスになっちゃうんだなあっていう憎悪に歪みきった顔のアップが迫ってたけど、僕はその向こうにあるカーズを眺めていた。カーズの顔は全く心配していなかった。だろ?この程度じゃあ人間は死なない。それにカーズがそばにいるかぎり僕はナイフで刺されようが身体が爆散しようが一瞬の死をすり抜けて生き延びる。勿論そこに痛みは伴うしカーズの不死性みたいに自分の身の安全を盲信しちゃいけないんだけど、それでもこれじゃあ死なないよなあ畜生めちゃめちゃ痛い…。
 早速雪の積もり始めたアラスカの森は女子高生連続失踪事件の幕引きに相応しい静けさと陰惨さに満ちていた。その締めが僕の血って訳だ。探偵が刺されるラストもないじゃないけど、ここで死んでは名探偵ジョジョの名折れだ。ジョースターの名に申し訳ない。まあこの程度なら入院しなくてもカーズが治すし平気平気、犯人もこれで確保。と考えていたのが油断だったらしく、曾祖父ジョセフ風の言い回しをすればのんきしてる間にあれあれっとカーズの顔が遠ざかりあんまり見ないようにしていた犯人のキレ顔も遠ざかって周囲が真っ暗に塗り込められピンホールカメラの中に急に閉じ込められたみたいに現実が小さな点になって見えなくなる。
 気絶した?
 その割には僕は考え続けている。流石に意識が断絶すれば思考も止まるかと思ったけど、こうやって考えてるってことは意識と関係なく僕の脳は思考し続けているということなんだろうか。っていうか今考えてるこれは思考なの?意識なの?
 目が覚めるときって勝手に起きるんだろうか。それとも自分で起きる努力をしなきゃいけないんだろうか。刺されたショックで気絶したんだろうとは思うけど、どうやって肉体に意識を浮上させていいのか分からない。そもそも今、肉体の感覚がないんだ。すると暗闇の中に僕の身体がぼんやり光って浮かび上がるけど、光ってるせいだけじゃなくて本当に輪郭がぼやっとしていて、脳内のホムンクルスってもっとこう頭でっかちで手も大きくてとかそういう図だったはずだが、思考に特化しちゃった人間というのはホムンクルスの形も違うんだろうかとか考える内に周囲に光が増えてくる。
 光は僕の足下から広がって敷き詰められる。修学旅行で行った夏の北海道のラヴェンダー畑みたいだ。光はどこからともなく吹く風に揺れて音を立てる。それで僕は、ああこれスズランかと納得する。その時点でおかしいことに気づいてない。ちりんちりんと音を立てる光のスズランを踏んで僕は進む。なんかこっちだろうな、という本能みたいなものが足を運ばせる。スズランの下には無窮の闇が広がっていて、天上を見上げれば遠い遠い天球に数え切れない星と見たこともない星座が浮かんでいる。僕はスズランの地平と天球の境目まで行かなきゃいけないんだろうといつの間にか考えている。天の川を越える時、船はどうするんだったろうか。誰かから聞いたはずなのに思い出せない。渡し賃が必要だったと思うけど、とポケットの中を探ると入っていたのは何故かコルク栓だった。
 僕は目の前にコルクをかざし、匂いをかぐ。シャンペンの匂い。結構上物じゃないかな。鼻歌交じりで放り上げると指先から離れたコルクは回転しながら慣性の法則を無視して僕の目の前を飛んで行く。
 天上の星明かりに足下のスズランの光、青白く照らされた視界は見通しがよかったにも関わらず、僕はたった今まで目の前に佇む二人の人影に気づかない。ハッと気づくと二人のもう目の前まで来ていて、慌てて足を止める。
「面白いな、ジョドー」
 二人とも上背があるが片方は女の人だったらしくて、低く笑いながら僕の手から逃げたコルクを手に隣の人影に話しかける。
「この坊やはわたしたちの結婚式のシャンペンのコルクを持っている」
「勿論だ」
 若々しいけどどこかゾッとする硬質さを含んだ声が答えた。
「この少年はジョジョなんだよ、マリア」
「ジョジョ」
 女の人が軽くかがみこんで僕に向かい懐かしそうに呼んだ。
「名前を教えて、ジョジョ」
 目の前にいるのに顔がよく見えない。何故か断片的だ。静かにこちらを見つめる目とかルージュを塗った唇とか。
「ジョージ・ジョースターです。ええと名刺が…あれ…?」
「持っている訳がない。全部向こうに置いてきてしまったんだ」
「え?」
 隣の男の人は顔が一瞬ぼんやり見えたんだけど、西洋人っぽいのに真っ黒な瞳、とそっちに気を取られている間にまた全体像が分からなくなる。
「ここは君が辿り着くには少し早い場所だ」
「そうですか?僕の本能がそこを渡れって囁くんですが」
「気の迷いだろう。帰りたまえ」
「いやでも」
「聞き分けのない奴だなあ」
 男の声のトーンが下がる。不機嫌そうにぶつぶつ呟いた内容はこれだ。血は繋がっていないのに妙なところでジョセフに似ている。僕はそこでまさか自分の曾祖父の名前が出ると思わず「は?」と一歩踏み出すけど、それを止めたのが女の人のシルエットだった。しなやかに伸びた腕が(影なのにしなやかだと分かった)僕の目の前にかざされ「こら」と、ちょっと悪戯っぽい声でいさめる。
「それ以上こちらに来てはいけない」
「おまえはまだ渡るな、ジョージ・ジョースター」
「え、でもこっちに行くのが正解なんじゃ…」
「人間として究極的にはそうだろう。しかしまだ渡る時ではないと言っているんだ。いいか」
 女の人が、ちょっと失礼、とくるりと掌を返すと僕は触られてもいないのにぐるりと百八十度後ろを向かされる。声は後ろから語りかけた。
「もうすぐあいつがおまえを見つけるからな。真っ直ぐあっちに歩くんだ」
 そして最後の言葉にはちょっと砕けた感情を込めてこう言った。
「分かったか、ジョージ・ジョースター」
「はい」
「本当に?」
 女の人の声。この人が喋るとスズランもしゃらんと音を立てる。僕の声もちょっと浮かれる。
「はい!分かりました」
 男の人が鼻で笑い、女の人は「いい返事ね。じゃあ特別にサービスをしてあげなければ」とまた手がくるりと翻された気配。あ。なんかこれはあるな、と思ったらいきなり視界がぐるぐる周りだし、え?ワープ?みたいな?とか考えたけど逆で回転してるのは僕。金色の軌跡が稲妻のように走り『あっち』を指し示す。
 次の瞬間、僕の身体は発射された弾丸みたいに回転しながら黄金の軌跡の上を疾走する。恐い!ジェットコースターの軽く百倍は恐いこれ!
 物凄い勢いで景色が遠ざかっていくのに、僕は遠い背後の二人の会話が聞こえる。
「やりすぎじゃないか?」
「久しぶりなので本気を出したわ」
「マリア・ユリアス・ツェペリ尚健在ということか」
「勿論よ、ジョドー・ジョースター。あなたがその胸にわたしを抱いてくれる限り、わたしはあなたの愛とともに永遠にある」
 えー、人をギャルギャル音立てるくらい回転させてぶっ飛ばしておきながらノロケ…?
 僕を導く黄金の光は一点透視図法みたいな軌跡を描いて、あれはさっき僕がみたピンホールカメラみたいな現実、と気づいた時、そこからこちらも負けじと物凄い勢いで飛んでくるものがある。鳥?そうじゃない。漆黒の翼を羽ばたかせ、僕の名前を呼ぶ、あれは…。
「城字・ジョースター!」
 回転する僕を抱きとめたカーズは回転の勢いを殺しきれず僕らはそのままピンホールの向こうに吹っ飛ばされる。

 瞼がバチッと音を立てるように開いた。眩しい。雪の降る空が見える。そして近すぎてピンぼけのカーズの顔。僕は身体を起こす。服は血塗れだけど出血は止まっている。多分傷も塞がっている。もう痛くない。傍らには新雪の上に血の雫を点々と垂らしたナイフが落ちていた。犯人は、と尋ねようとすると凄い形相のまま金縛りにあったように、というか雪の上にスコップでも突き立てたみたいな直立不動っぷりで立っている。パチッパチッと弾ける音は聞き覚えがあるから、多分波紋を食らったんだろう。だよな。髪の毛逆立ってるもん。
「貴様」
 カーズの指がぴしんと僕の額を弾いた。
「本当に帰ってきたのだろうな」
「え?ああ、目は覚めた。ありがとう、怪我、治してくれて…」
 森の向こうからパトカーのサイレンがゆっくり近づいてくる。僕の意識は一瞬そっちを向くけど、カーズは尚もじっと僕の目を見つめていた。その中に何か大切なものを見出すように。僕も感じている。何かもっと大切なことを言わなきゃいけないんだ。たった今、目覚めた。どこから?暗闇の奥深く、さっきまで僕が見ていた景色。
 上を見上げると森はいつの間にか夕闇に覆われている。凍てつく冬の星座がかすかな光を森の奥まで届けて、僕は無性に懐かしくなった。
「パトカー遅い」
 僕が白い息を吐くと、カーズが何も言わず僕を雪の中から立たせた。
「帰るぞ」
 名探偵だし刺された被害者でもあるし一応警察に説明する責任もあるしなあと思ったけど、僕はもうカーズの首に腕を回して彼が飛び立つのを待つ。早く殺人事件も僕を刺すナイフもないホテルの暖かい暖炉の前で眠りたい。カーズの羽が布団がわりになってくれる。そこでゆっくり眠るんだ。
「そうだ」
 僕はかすかに思い出したことを呟く。
「致命傷…とも思わなかったけど臨死体験したのかな。目が覚める前、夢を見たよ。スズランの花畑に君が飛んでくる夢…」
 空から下を見下ろすと、雪の上にところどころ灯った灯が夢の中の光景そっくりでくらっとした。頭の中がぐるぐる回転してるみたいだ。
「ねえ…カーズ、僕、回転してない?」
「貴様の魂はまだ回転しているようだがな」
「ええ?」
 風が耳の中に這入り込み、ギャルギャル、と音を立てて吹き抜けた。

「唇だけでいいと言うのなら」
 暖炉の明かりの影の中、アームチェアにゆったりと腰掛けた姿は生きた彫像のようだった。だから現実味もなかったんだろうし、ふざけた科白も言えたのだ。ふざけた?
 ――違う、これが俺の本心だ。
 血の匂いにうんざりしていた。ナイフに、銃に、斧に爆弾にガラスの灰皿に血にまみれた拳にうんざりしていた。殺すのも殺されるのも、もう沢山だった。欲しいのは安心して眠れるだけのぬくもりや、この胸の痛みを一瞬でも慰めてくれる柔らかさだった。
 なのにカーズは言うのだ。笑いながら言うのだ。キスミー、とまるで本気にも聞こえない呟きにこう答えたのだ。キスだけでいいのか、と。
「もし貴様が唇だけで充分だと言うのなら、触れるがいい。許してやる」
 僕は暖炉を背に佇んだまま、自分の影の中にあるカーズのからかうような瞳を、挑むような笑みを見つめていた。戯れだろうか。そうかもしれない。人間の迷いなどカーズには下らないものだろう。しかし本気で答えていると分かる。許す、と言った。それは僕がその唇に不用意に触れても噛みついたり食べたりしないという正真正銘の約束だった。
「…いいのか?」
「貴様がそれで満足すると言うならな。しかしよく考えろ、いいかよく考えるのだ名探偵。己の内側に、精神のありとあらゆる影を照射して己の真実を見つけ出し考えろ」
「俺は疲れてるんだよ」
「その言葉で誤魔化すのは俺じゃあない。貴様自身だ、名探偵」
「分かったよ。じゃあもう少し考える」
 目の前で笑みが消える。軽く頬杖をついたポーズは完璧だ。たゆたう髪も角も頭巾で隠し人間らしい姿をしている分、人間離れした美しさは余計に際立っていた。切れ長の目の、その細められたのから覗く海のような水色も、神話の神々でさえ触れれば石になるかあるいは美しさに耐えきれず雷のように砕け散ってしまうんじゃあないかと思われる唇も。何も顔だけを見て評価した話じゃなかった。全てだった。
 何も欲しくない。ちっぽけな安らぎがほしい。それだけ、だがしかし余すことなく完璧に。
 跪いて溜息をつくと、カーズが笑い声を漏らした。
「どうした、城字・ジョースター。この俺の腕に抱かれたくはないか?細胞の鼓動を聞きたいとは思わないか。この頭巾を取ってみせようか。髪に指を通したくはないか?それとも俺が貴様の髪に触れてやろうか。一筋一筋にあらゆる言葉を囁いてやろう。それを聞きたくはないか」
 畳みかけられるその言葉だけで眩暈がする。僕は跪いたまま、カーズの言葉をなぞるたびに手指が、心臓が、胸が、髪の毛の先までもが震えるのを感じた。冬の嵐に飛ばされる枯葉より脆弱で儚かった。神話の神々でさえ潰えてしまいそうな美と快楽だ。人間の自分に耐えられる訳がない。ただしこれに包まれて死ぬならば、三十七巡の宇宙をひっくるめても僕が一番幸福な人間だろう。
「その服」
 子供の時ださえこうではなかった素直さで、言った。
「脱いで」
 カーズはいつか見たニヒルな笑みを浮かべボタンを外し前をはだけた。
「頭巾も」
 ベルベットの光沢が滑り落ちるごとに残像となる。それが全て床に落ちると艶やかな闇を孕んだ黒髪が広がる。
「キスミー」
 今度ははっきりと言った。
「俺がするんじゃない。君がしてくれないと、カーズ」
「跪いた貴様にか?」
「倒れそうな俺にだよ」
 カーズは音もなく立ち上がる。その瞬間、部屋の半分が闇に覆われた。カーズの背後に広がるのは冬の夜であり、アラスカの夜空であり、その向こうに広がる永遠の宇宙だった。それらが全て僕の前に舞い降り、膝をつき、かしずく。カーズの顔はその闇の底から浮上して、僕を下から見上げた。
 触れた唇はやさしかった。やさしいと僕は思った。それは想像以上に柔らかでしっとりとしていて、果実に唇を触れさせたような甘い香りまで漂っていた。
「キスだけでいいのか?」
 カーズがもう一度囁いた。僕は唇を開く。触れ合った舌を呑み込む。
 闇に手を伸ばせば息づく肉体が掌に触れて、熱い肌の下、確かに全ての細胞の鼓動を聞いた。鼓動は僕の心臓の鼓動も呑み込み、か弱い人間の鼓動は総体たる鼓動と一つのリズムになる。髪に指が通され、カーズが何か囁くのが聞こえた。古代から人間が口にし、文明とともに廃れ忘れ去られていった言葉たちから、今フェアバンクスのナイトクラブで若者が囁いている他愛もないスラングまで、ありとあらゆる言葉で愛が囁かれた。溢れる唾液からは本当にイチジクの味がする。眩暈は銀河の渦になる。
「決めたよ」
 ティ・アーモと囁いていたカーズの顔を僕は引き寄せる。
「決めた。俺は死ぬ時、君に食べられることにする」
「それは当然の約束ではなかったか?」
「宇宙船の中で君が勝手に決めただけや。でも決めた。今俺が決めた。名探偵ジョジョの名にかけて誓う。俺は君に食べられる」
「誓ったな?」
「ああ誓った」
「では俺も誓おう」
 暗闇から見た地球のような瞳がまっすぐ射貫き、僕の心を包む。
「最期の時、俺がお前を食らってやろう、城字・ジョースター」
 指輪のかわりに髪を指に絡ませ、僕らは知りうる限りの言葉で囁きあいながら時折笑い、僕は時折キスに夢中になり、カーズは時折僕の唾液を舐め取ってはうっとり目を細めた。なめらかな闇の中、暖炉が部屋の主よ自分が人間だということを忘れてくれるなと言うように背中を照らした。



2013.11.7