地獄にまみれて望んだ悪夢




 掃いて捨てるほどの星の数と言うがまるでげんなりとくる。今宵はどうもまずい酒にあたったらしかった。それとも情報屋のあの女、昔別れたあの女が差し出した煙草のせいだろうか。暗殺者が生きたものを引き摺ると、生の匂いに誘われて死神がやってくるものか。ならば明日からパン屋にも行けまい!
 女を捨てる時は徹底的に。あるいはもう近づいてはならなかったのだ。まして情報屋。毒を扱う商売である。あの女が扱うのは蜜蜂の毒だ。キスに仕込まれた毒だ…、と思う内にホルマジオの身体は傾き汚れた壁にぶつかった。
 落書きがぬめぬめと動いて腕に取り憑こうとする。リトル・フィートと掠れた声で叫び殴りつけたがそれはただの壁で、脆くなった外壁がポロポロとこぼれ落ちそれを囓った鼠が悲鳴を上げた。チーズだと思ったのか間抜けな奴らめ。ホルマジオは笑うが、どうにも身体が安定しない。落ち着くんだ。辺りを見ろ。誰もいない。急ぐことはない。慌てることはない。
 立ち止まってよく考えれば簡単だ。一番近いホテルか誰かのヤサに転がり込み、一晩眠る。眠れないかもしれないが、とにかくこれは永遠に続く悪夢じゃない。壁を蔦のように這って襲ってくるものも、巨大化した鼠も全部幻だ。スタンドを引っ込めろよ。殺し屋ともあろう者がヤクの一つに引っかかっただけで慌てすぎだぜ。
 壁を伝いながら見慣れた通りまで歩いた。足下は相変わらずふらつくが、酔っ払いなど珍しくもない場所だ。おかしくはないだろう。
 街灯の下に女が一人ずつ立っている。胸を露出させた女、尻を露出させた女、様々な女がいっせいにホルマジオを見た。しかしホルマジオは別のものに気を取られていた。空を星が埋め尽くしている。掃いて捨てるほどとは言うが、空中の星を箒で掻き込んで集めたかという夜空だった。キャンディを撒き散らしたかのようなごろごろした星がゴロゴロと音を立てて犇めいている。これは掃除じゃあない。誰か玉突きの素人がナインボールをのべつまくなし突きまくってここに集めたらしい。ホルマジオは吐き気がして一人の女に近寄った。
「煙草ちょうだい」
 女が気怠い声でねだる。ホルマジオは自分で煙草に火を点けながら女には与えず、アレはなんだと指さした。
「アレって?」
「見えねえのか、アレだよアレ」
「ああ、綺麗なお星さまよねえ」
 女は笑い、ホルマジオは埒があかないと息を吐く。全く、女の感性は理解出来ない。
「ねえ、煙草ちょうだいよ」
 指に挟んだ煙草を差し出したのが限界で、ホルマジオは街灯の下に吐いた。
「あら、大丈夫? 凄い汗よ」
 くわえ煙草の不明瞭な発音で女は言い、言葉の調子では大して心配をしている風でもなかったが背中をさすってくれた。
「お兄さん、あたしこのままじゃ今夜ここで仕事できないわ」
「ちょうどいい。お前の部屋に行きたい」
「ありがと。でもそっちは大丈夫?」
 脂汗を流すホルマジオの下半身を煙草の火が指した。ホルマジオは女の顔を見た。生まれて初めて見たポルノビデオの女優そっくりだった。すぐに充血するのが感じられた。二人はそれからもう何も言わず階段を上った。
 部屋につくなりホルマジオは服を脱ぎ捨て、床に落ちた服を八本脚の動物が運んでいくのを視界の端に見たが無視することにした。女が明かりをつける。赤いテーブルランプの光が部屋を照らし出す。壁には大きな鏡があった。
「鏡だ」
「鏡よ。見たことないの?」
「いや…」
 ホルマジオは装飾の施された縁に手を触れ、中を覗き込んだ。 暗い目をした男が同じ格好をしてホルマジオの目を覗き込んでいた。
「イ……」
 思わず呼ぼうとしてきっとこれも幻だと思い至る。そうだ、本当は情報を仕入れた後イルーゾォと飯を食う約束だったし、事務所で待つとイルーゾォは言った。真っ先に助けを求めるべき先もそこだったはずだ。
「悪い、やっぱり…」
 金を取り出しながら振り向いた先に女はいなかった。
 ホルマジオは手の中のリラ札を数えた。本物だ。床の上には自分の服が落ちている。窓を開けると空には相変わらずごろごろした星が犇めいていて、また吐きそうになった。どこからどこまでが幻なのか。見ているもの触れているもの何が真実なのかも判断ができない。窓の隙間からラジオの声が聞こえ、今夜は寒く冷たい空気が停滞しているため星もよく見えるだろうと告げた。
 よく見えるどころじゃねえだろうと頭を抱えると隣の部屋から、星が落ちた、また一つ、と若いカップルのはしゃぐ声が聞こえ、ホルマジオは鎧戸まできっちり閉じてベッドに横になった。とにかく今夜はこの部屋から出られない。電話をして助けを呼ぼうかとも試みたが、携帯電話はさっきからゴキブリの形をして床を這い回っているのだ。完全にバッドトリップだ。
 悪夢の中にイルーゾォが出てきたということは後ろめたいのかなと思うと、それだけは少し笑えた。そうだ。鏡に向かって助けを呼べば、彼のマン・イン・ザ・ミラーの能力に訴えることができなかったろうか。それこそ都合よく考えすぎだった。アジトと薬を盛られた酒場は随分離れていたし、イルーゾォはただ待っていると気軽に言ったのだ。今回はバックアップで組んでいる訳ではない。このヘマで死にはしないだろうが、リゾットはいい顔をするまい。それよりも怒るのはプロシュートか。
 目を瞑っても開けているのと同じ景色が見えた。今夜、眠るのは多分不可能だ。イルーゾォが目の前に見える。暗い顔をして自分を押し倒す。
「イル…?」
 髪が乱れていた。白目がわずかに充血していたが、瞳そのものは恐ろしく静かで恐ろしく暗かった。
「許可しない」
 イルーゾォが口を開く。
「は…?」
「女は犯して殺した。触れることは許可しない。喋ることも許可しない。思い出すことも許可しない。女の名前を口にしたら殺す。オレは殺すと言ったんだ、ホルマジオ」
「何があった…」
 手を伸ばすと、確かに触れることができた。イルーゾォの首は汗で濡れていた。肌は驚くほど冷たかった。
「女は殺した。お前だって殺せる。オレは殺せるお前だってお前だってお前だって…」
「イルーゾォ」
 両腕で抱き寄せようとした瞬間、腹に重たいものが打ち込まれた。霞む視界に一瞬見えた、マン・イン・ザ・ミラーの拳。
「イルーゾォ…」
「いいか、許可しねえってオレは言ったんだ」
「聞こえてる」
「お前を鏡から出さないことくらい訳ない」
「…しょうがねえなあ。でも今度はお前が鏡に入れなくなるんだろ」
 喋ると口の端から涎が垂れた。腹には拳が押しつけられたままなのだ。スタンドそのものの力は強くないとは言え、それなりに効く。
「オレが死ぬのも、オレが死んだのを見るのも怖いんじゃねえか?」
「オレはお前だって殺す…!」
「でもオレが死ぬのは嫌だろ?」
 殺す、悲しい、という言葉が渦を巻いて頭に穴が空きそうだ。イルーゾォが優しさや気遣いを持ち合わせているかと言えばそれは人並み以下で、現に今もホルマジオがヤクで苦しんでいることよりも女を買おうとしたことで頭がいっぱいになっている。もしかしたら壁の落書きも気持ち悪い星空もイルーゾォが連れてきたものではないだろうか。バッドトリップになってしまったのは、鏡の向こうから視線と共に投げられていた嫉妬のせいではないか?
 しょうがねえなぁ…、とホルマジオは諦めの溜息をつく。
「殺したのか?」
「お前だって殺せる」
「殺すなよ。おい、待て、情報屋まで殺したのかよ」
 情報屋のつけていた香水の匂いが紫色の靄になって付きまとっている。しょうがねえなあで済ますには行きすぎた行為だが、イルーゾォの目はホルマジオしか見ていなかった。
「イル」
 キスをしようとすると、急に恐れたそぶりで怯む。ホルマジオは突き放そうとするイルーゾォに無理にも顔を寄せ匂いをかいだ。香水の匂い、娼婦の白粉の匂いの向こうには冷たくひえたイルーゾォの汗の匂いがした。血を滲ませるような匂いだった。首筋に顔を押しつけると獣のように喉の奥で唸る。ふうふうと鼻から漏れる息も冷たい。
 生臭い匂いが混じり、顔を上げればイルーゾォの髪は黒い蛇になってざわめいていた。
「悪夢だ…」
「この程度の地獄で済ますかよ」
「じゃあとことん付き合ってもらわねぇとな…」
 蛇でできた髪に指を通しキスをした。血の味がした。甘くて噎せ返るようだった。イルーゾォと囁くと嫉妬に狂った獣は泣きながらホルマジオの頬に噛みついた。

 翌日、ベッドの下で埃まみれになっていた携帯電話を見つけ出してギアッチョの車に迎えに来てもらい、午後も近い時間になりようやくアジトに辿り着いた。ホルマジオの身体からヤクはどうにか抜けていたが、イルーゾォが立ち上がれないほど衰弱していた。リゾットは少し休んで情報と報告書を寄越すように言い、昼食を買いに外へ出掛けた。何も言わない内からギアッチョがそれについて行く。事務所には疲れ切った二人と、情報待ちだったメローネが残された。
「昨夜はよほど激しくやったらしいね」
 メローネが嬉しそうにホルマジオの頬の噛み痕を見つめながらつつく。
「鏡の中でかい?」
 ホルマジオは事務所の鏡を斜めに見上げ、溜息をついた。イルーゾォは俯せに倒れソファを占領している。
「そりゃあ衰弱もするね。スタンドパワーは精神の力だ。この場合の特効薬は愛だと思うね」
「殺してとどめを刺せってのか?」
「本望じゃあないかな」
 ふざけんな死ね、とイルーゾォが呟くのが聞こえた。
 事務所は小さな音でラジオが流れていた。ニュースは昨夜の出来事を伝えていた。昨夕はネアポリスもよく晴れ、流星群がよく見えたということだ。ホルマジオは昨夜の星空を思い出し「ぐえ…」と吐きそうな声を一声上げた。



2013.11.7