ウォーキン・ウィズ・ミラー




 ホルマジオがまだミニスカートの似合う女と付き合っていた時、既にイルーゾォと組んで仕事をする機会はあって、仕事の時間ギリギリまで楽しみ、通りに出るとカーブミラーから視線が投げられた。見上げれば鏡の中にはイルーゾォがおり、無関心にちょっと軽蔑を込めた目でこちらを見ていたのだが、構いはしなかったしその後も仕事の前、後に関わらず女のことが話題に上ることはなかった。ほどなくして女とは別れた。理由は仕事のために女の誕生日を忘れたからで、ビンタではなくフルボディを振り上げられるという恐怖映画さながらのシーンが繰り広げられた。それでもちゃんとビンタを食らってやったのはホルマジオなりの甲斐性だ。
 あの時も帰り道に視線を感じたのだ。アジトで相変わらず暗い目をしながらデスクワークを片付けるリゾット相手に服が半分濡れていること、左の頬の手形の話を笑いながらした。そして一度、背後の鏡を振り返った。多分、そこにイルーゾォはいたはずだ。
 それが身辺調査だったのかイルーゾォの個人的な好奇心だったのかは分からない。まだ寝る前の話だからだ。しかしホルマジオとイルーゾォは感情を育んでから至った関係ではなかったから…。
 些末な事柄、忘れてしまったことさえ細い絹糸のように張り巡らされ、いつの間にか二人を絡め取ったのだ。鏡越しに投げられた視線さえ、正体を見せない微弱な糸さえホルマジオの首に絡みつきイルーゾォの方を振り向かせた。
 ソルベとジェラートの葬式の後、最初に受けた仕事へ向かう途中、ホルマジオは路地の角で立ち止まり顔を上げた。鏡の中ではすぐ隣にイルーゾォがいる。マン・イン・ザ・ミラーの射程に捉えられている。イルーゾォが話しかければ、それは能力に捕らわれたホルマジオにだけ聞こえるはずだった。狭苦しく建ち並ぶ古びた建物に囲まれて、夜明けは近かったが空気はしんとして重かった。ふとイルーゾォが目を逸らした。ホルマジオは時計を見た。今朝も五時まで飲んでいたターゲットがそろそろ彼の隠れ家に到着する頃だった。
 もう顔は上げず、黙って歩き出した。それでも路地の風景を反射するガラス窓の中、車のサイドミラー、ホルマジオの姿を映すものの中では、同じ景色の中、すぐ隣にイルーゾォがいるのだった。同じ歩調で歩いている。決して離れず、拳一つ、隣。
 アパートの前で立ち止まる。夜明けの光を反射し始めたガラスの中にイルーゾォの姿はない。
 これは一人の仕事だった。そしてホルマジオはペッシのようなマンモーニではなく、いっぱしの男だった。ミニスカートの似合う女を抱き、別れのビンタを甘んじて食らうイタリア男だった。なのでいたっていつもどおり、アパートの階段を上りターゲットの部屋に忍び込むと相手が気づく間もなく壜に閉じ込め、拷問で情報を聞き出した後、殺した。
 殺しに使った壜を路地裏に放り投げるとガラスの割れる音はそれを聞いた者の身体に突き刺さるように響き、ゴミ箱の隣で眠りこけていた浮浪者が慌てて逃げ出した。頭上が眩しかった。ホルマジオは顔を上げた。アパートの上の階の窓が朝陽を受けて輝いていた。
 足は自然とイルーゾォの部屋に向いた。角にさしかかるまで夢中で歩いた。だが見上げたカーブミラーに映るのは自分の姿だけで、そこでようやく我に返る。踵を返して事務所を目指した。
 イルーゾォはアジトにいた。鏡の前に据えられたソファで、丸くなって眠っていた。起きたばかりには見えない――恐らく昨夜も寝ていないのだろうリゾットがコーヒーを淹れる。
「ご苦労だった」
 コーヒーを受け取り、ホルマジオはイルーゾォの向かいのソファに腰掛けた。
「こいつ、いつからです」
「昨夜はいなかったが。お前より早かったのは確かだ」
 熱いコーヒーをすすりながらホルマジオは鏡を見た。そこには自分の姿しか映っていない。
 ホルマジオが報告書を書いている間にイルーゾォは目覚めたが、それでもソファに横になったまま不景気そうな顔をしていた。視線は時々テーブルを越してホルマジオに投げられた。
 その時のことを、やはり口に出したことはない。ホルマジオの前で笑うようになったイルーゾォは、それからも時々その戯れをやった。歩きながらも視線を交わし、イルーゾォは馬鹿なことを話しかけ、ホルマジオは口の形だけでそれに返事をした。馬鹿のように楽しい道行き。そして鏡から顔をだしたイルーゾォはいつもたまらないようにキスを求めた。その時見下ろす黒い瞳にかつての夜明けを思い出す。隔たれ多世界で黙って寄り添い歩いた早朝のこと。
 抱き寄せて尻の形をなぞるとイルーゾォは怒る。だが狭い小路とはいえ表でキスをねだるのと、どっちもどっちだろう。ミニスカートの尻を楽しむことはなくなったが、今ホルマジオが手に入れたものはそれにも勝るのだ。黒い瞳と、自分にだけ触れることを許した黒い髪と、背と、尻と。
「イイ子で待ってろよ」
 頬を両手で挟み、音を立ててキスをする。
「この仕事が終わったら天国に連れてってやるからな」
「…今その科白は微妙じゃないか?」
 お互い声を殺しながら笑い、もう一度キスをする。
 鏡の中に消えたイルーゾォが窓ガラスの中を立ち去ろうとするのが見えた。ホルマジオは軽く足を踏み鳴らし気づかせると、手招きをする。ガラス越しのキスにイルーゾォは何故かひどく照れて目を瞑った上に頬しか向けなかった。ガラスに映った目元にキスをし、ガラスをノックする。手を振ると、目を開けたイルーゾォは立てた親指をこめかみに当ててみせ、ぷいと背を向けた。笑うのは我慢だった。仕事の前なのだ。
 今夜もアジトで待っているだろう。もし他に誰もいなければあそこのソファでも、と思ったが、許可しない!と声を上げるイルーゾォしか想像できなかった。
「でもまあ、鏡から出れば、だ」
 勝算はなくもない。ホルマジオは殺し屋である。イタリア男である。陽気な口笛を鳴らし、仕事にかかった。



2013.11.7