葦と永遠 【黎明編】




 失うものは何もない。失われるものなど何もない。全てはこの世界にある。虚空に見えるこの暗闇にもありとあらゆるものが漂っている。だがあまりにも広大すぎてカーズの周辺に存在する量が少ない、とは言えるようだった。地球で城字を食べて以来、カーズは何も口にしていなかった――必ずしも口から食べる訳ではないが――し、光は遠くにあった。宇宙空間はがらんどうで、寒く、冷たく、カーズは広げた翼に爆発した太陽の風を受け暗い海を小舟のように漂っていた。だが、ただ漂流しているのではなかった。目指すものはあった。星の光がそれだった。
 城字が最後に言った言葉。星の光が導く。カーズはこれまで三十六回の宇宙の終わりを経験していたが、地球に背を向け自らの意志で外側へ動き出すのは初めてだった。テラ・インコグニタへの旅と呼ぶには、胸躍るそれより退屈と沈黙ばかり周囲に満ちた旅だったが。
 一つ、また一つと光を追う。それは粒子として質量を持ったものであるとは言い難い、カーズの判じるところによれば魂の欠片だった。城字の肉体はあの晩全て、髪の毛一筋残さずカーズが取り込み吸収してしまったが、魂はカーズが抜き取ることもなく天空へと昇った。最初から、カーズを導くために?
 城字・ジョースター。生きている間は名探偵だった男。彼は人間の中では唯一カーズの生に寄り添い、またカーズもそれを許した相手だった。二人は同じ空気の中で同じものを見、考え、考えることを楽しみ続けたのだ。城字はカーズの生を考えたのだろう。永遠に続く生。それに対して人間は葦ほどのか弱い存在であるし、城字は一度ついえれば二度と生えることのない葦だ。宇宙にたった一本の考える葦、推理する機械は、自分の死んだ後の永遠に思いを巡らせ、どのような意志を持つに至ったのか。
 一緒にいたい。ならば地球を飛び出した暗黒の果てまでも。
 光は誘う。城字が誘うからにはそこには意味があるだろう。何しろ城字は名探偵だった。その魂は今もそうだろうか。
 カーズは光の導くままに進む。時々翼の角度を変えて受けるエネルギーの方向を調節した。肉体はほぼ硬質化していたが、意識は常に目覚めていた。カーズは考える。そして記憶の中から取りだしたものを精査し、また考える。城字なら思い出を取り出して楽しむのだと表現するかもしれない。
 時々、小惑星群で小休止し、自分が地球からどれだけ離れたかを考えた。しかし心配はしていない。迷子など、人間の子供ではあるまいし。宇宙が終われば、次はまた一点から始まるのだ。そして怒濤のような膨張を続け、カーズの運命はまた地球に引き寄せられるだろう。自分はジョジョを食べたが、果たして因果は断ち切られたのか。それともまた新たに余分な己が宇宙へ放逐されるのだろうか。
 因果から解き放たれていれば新しい世界を作るまでである。新たな自分が飛んできたら、次の宇宙でも役に立つだろう。それにそれは地球にジョジョが存在することを意味する。顔を拝んでやらねばなるまい。
 長く長く漂い続けた。いつの間にか翼に受ける太陽からの風は止んでいたが、また新たな爆発や星の衝突が引き起こした力に、カーズの肉体は風を受けた帆のように虚空を進んだ。

 その事実に気づいたのは、この宇宙にかつて存在した地球を基準に天頂を設定した時、そこから見下ろした移動の軌跡が大きな楕円を描いて交わったのを知った時だ。意図が読めた。光はカーズを安全な場所に導いているだけではなかった。この移動こそがメッセージそのものだった。
 それからカーズは自らの肉体をペンに宇宙空間に描かれるメッセージを楽しみに飛んだ。どんなメッセージかは簡単に予想がつくものであったし、またそうだと分かるのも早かったが、しかし最後まで付き合うことにした。何せカーズには永遠の時間があるのだ。
 城字の筆跡で、筆記体の『I love you』は呆れるほどベタなメッセージだ。演出としても規模の大小だけで使い古されたものである。だが、宇宙規模でやった人間は今回含めて三十七の宇宙の中でも唯一、城字・ジョースターだけだろう。
 最後のエクスクラメーションの点に当たる座標に向かって飛びながら、カーズは凍った肌に懐かしいものを感じた。太陽の熱だ。かつて直接触れることのできなかった太陽の光が懐かしいものへと変わろうとは。
 目の前に見えるのは太陽系の太陽よりも規模の大きな恒星だった。惑星を幾つも通り過ぎたが、その中で昼の面を鮮やかな水色に輝かせる星こそが終着点だった。ほぼ水に覆われており、陸地の姿はまだなかった。そこには耳にそよぐ風の音もなかったが、永い時間を経て辿り着いた懐かしさを喚起させる星だった。カーズは海面に降り立った。
 地球で言えば夜が明けたばかりのような爽やかな光の下にいた。海には生きたものの姿はなく、どうやらこの惑星では温度は氷河期を終えて全体的に上がり始めたところのようだ。海底と見えるものは氷であり、冷たい波が明るく揺れていた。
 カーズの足下には波紋が広がる。それは惑星を覆う海全体に響き渡るのではなかろうかという波を立てた。
「城字」
 希薄な空気がカーズの声を伝えた。
「城字・ジョースター」
 海の中に光が集合し、ぶるぶると波立ちながら盛り上がる。盛り上がった水はカーズの目の前でおよそ百七十センチを越える塊になり、人間の形に精製されてゆく。
「久しぶりだね、カーズ」
 城字・ジョースターの形をした水は言った。否、それは城字だった。宇宙空間に溶け出した城字の魂を集合させ内包した器。城字の形をし、城字の記憶を持ち、城字の思考をし、城字の声で話す。城字・ジョースターそのものだ。
「こんな遠くまで来させおって。お前の言いたいのはそれだけか?」
「僕のメッセージ、読んでくれたんやろ」
「アイ・ラヴ・ユーか?」
 カーズが呆れたように言うと水の塊の城字は照れたように身体をくねらせ不明瞭な音声を吐いていたが、不意に正面を向いた。
「I LOVE YOU」
 カーズを使って文字を書いたようにゆっくりと囁いた。水色の両手がカーズの胸に当てられる。かつて城字を食べた場所へ。
 とろけるような笑みが下から見上げ、こう言った。
「会いたかったよ、カーズ」
 永遠を目の前にすればまばたきほどの時間の別れも、そして城字の言葉もカーズに染み入り、カーズは文字どおり城字をごくごくと飲み干した。星の光は惑星全体に散らばって、そして希薄な空気を揺らす初めての風の音が聞こえた。カーズは羽を畳むと「ふむ」と笑って、水の中に滑り込んだ。テラ・インコグニタならぬ、マレ・インコグニタだったという訳だ。真っ新な星は己の可能性に気づかないまま、まだ微睡みの中にある。まずは何を創ってやろうか。
 水の中をより明るい方へ泳いでいると、光の群れが隣に並び、城字の笑顔を描く。なるほど、自分も一緒にという訳だ。究極生命体と一緒に世界を創造しようとは、つくづくただの人間ではない。
 光は並んで線になり、メッセージを描いて弾けるように消えた。I love youだった。



2013.10.15