葦と永遠 【誕生編】




 噎ぶような薔薇の香りだった。
 花が歓喜し泣いているようだった。夏の終わりを前に命のその最後まで振り絞って咲かんばかりの、爛漫たる野薔薇は白く瑞々しい花弁に月光を受け、それを満たす器であった。太陽の反射光はその銀色の鏡から二秒で地上に到達しとどまることはなく、そこここで花は揺れ溢れ出す光は夜露とともに輝く。
 月光で満たし今にも傾くかと揺れる一輪を皺だらけの手が取った。
「花言葉を使った見立て殺人もあったなあ」
 老人は懐かしそうに目を細めた。
「愛情。だから犯人は死体を薔薇で埋め尽くした。あれも本当に悲しい事件だったね。君は覚えているかな」
 老人の振り向く先にカーズは佇んでいた。頭巾を取り、人間式の衣装を捨て、触角や肌が夜風に吹かれるのは実に気持ちのよいものだった。
 風の中でカーズは答える。
「貴様よりよく覚えている」
 老人は、うん、うん、と二度頷く。
「まったくそのとおりだ。ボケないようにと努力しても事実忘れぽくなっている」
「脳の使い方がなっておらんのだ」
「言うてやるなよ、カーズ。僕は自分の指で脳は押せないし、石仮面は御免やし。でもなあ、確かになあ、記憶力の低下を歳のせいにしたくないなあ」
 なんせ名探偵やし、と老人は笑う。
 そのとおりだ。城字・ジョースター。名探偵であるならば世界こそが名探偵に従う。かつてこの老人が自信満々に――そのくせ傲慢故ではなく当然のこととして――言った時、彼はまだ十五歳だった。背は低かったし、食いでのない身体をしていた。
 しかし今、百歳を目の前にした城字・ジョースターは体躯こそ自分の足で歩く頑健さを保っているものの、あの時以上に食いでがないように思われた。だが不味そうとは思わない。
 城字は野薔薇を一輪摘み、灰色の髪に挿す。
「でも些細なこととか、どうでもいいことは覚えている。というか名探偵がいる限り世界に無駄な要素などあり得ない。僕が今、思い出しているのはね、カーズ、迷信だよ」
 頭に咲く薔薇を撫で、城字は笑う。
「生け花を挿すと親の死に目に会えない。僕は生みの親の顔は知らないが、幸いにして父も、ペネロペも見送ることができたよ」
「俺は自分の親を殺した」
「じゃあもう心配はないな」
 もう一輪を摘み、城字はゆっくりゆっくり、ズボンを夜露に濡らしながら草地を横切りカーズの前に立った。
「少し屈んで。耳の上がいい。うん。似合う。君は綺麗だ」
 城字はじっと目を見つめ繰り返し囁いた。凄く綺麗だ。
「白という色も特別だ。なにものにも染まっていない色と言えば白だけど、人はその色に縋る。清浄だから?無垢だから?中国では夫婦が死んだら互いの片足を白い布で一緒に括るんだ。それが来世で出会う時の目印になる」
「来世があると思うのか」
「分からない。僕はまだ死んだことがないし…いや、何度か死んだことがあるのかな。でも覚えていない。それに僕は生まれ変わらない。この唯一の生の中にいる。今夜僕は死ぬけど」
 城字はカーズの隣に佇むと月の清く照らし出す空を見上げた。
「やはり僕の生は、僕の主観の中で無限なのだと思う」
「死を体験しない者に死は存在せず、故に無限という答を導きだしたか?」
「論理で説明すればそうだ。でもね、カーズ、僕は歳を取って忘れっぽくなったり、昔みたいに無茶できなくなったりしたかもしれないけれど、更に色んなこと、もっとたくさんのことが分かってきた気がするんだよ。僕は君にディスクを抜かれても経験に因らない純粋思考を続けることができる。でも経験による思考は、君が僕ら人間の中に認めた想像力とかそういう価値を生み出す思考はね、純粋思考の歯車と噛み合って、更に大きなことを考えさせ大きなものを僕に感じさせるんだ。そして僕は死ぬ覚悟と、それって痛くないよねっていう不安以上にもっと大きくて僕の人生で一番重要だったものの存在を僕の心の中に確かに感じているんだ」
「それは何だ」
「愛だよ」
 皺だらけの手が挿された薔薇を撫でる。白い花弁が月光に濡れたように輝く。
「老い先短いから、他のジョジョが食べられる前に僕が生贄になろうって?そうじゃない。君とジョースター家の因果を断ち切るために僕が戦いを挑む?違うよ。君のことが好きで、ろくに人間も食べてない君に同情してる?少し当たってるけどほとんど不正解だ」
 喋り疲れたのか城字は息を吐くとステッキにもたれかかっていた重心を少し後ろにずらし背筋を伸ばした。
「君と出会い、君と冒険し、君と再会して、君と離れがたくなり、君を好きだと自覚し、君に愛していると伝えるに至った。だが僕はもうこの歳だ。一体どうやって愛情を成就させるのだろう。僕の望みは何だろうか。無限にして、死という終着点を持つ僕は君をどうしたいのだろう。もっと君と言葉を交わし、君と一緒に未知の風景を見たい。君の行く永遠とはどんなものなのか知りたい。この老いた身体の中は好奇心でいっぱいだし、君の行く先で解かれることを待っている謎のことを考えると身体がうずうずする」
 一度大きく息を吸い、そして吐き、城字は笑った。
「僕は君とずっと一緒にいたいと思ったんだ」
「そのずっととは具体的にどういう望みだ。俺が石仮面を取り出せば貴様は頷くか?」
「石仮面はノーサンキュー」
 城字は手を振る。仕草は子供のようにお茶目で、だが年相応の茶目っ気でもある。最近は霞んできた、という目を見る。勿論肉体の老化はあった。だが輝いている。少年のままの輝きである。
「忘れっぽくなったせいかな、君とは永遠に一緒にいた気がする」
「永遠はまだ始まってもいない」
「本当だ。寂しいね」
 静かに夜風が止んで、濃密な薔薇の香りがたちこめた。城字はこちらを見上げ、意外に穏やかに、微笑さえ含んで尋ねた。
「君は寂しいと思うかい、カーズ」
 城字が、己は名探偵であると自覚しているように、カーズも疑いようもなく信じているものがあった。頂点は常に一人。究極生命体たる存在は、食事も睡眠も、セックスさえ必要としない。だが満ちてはいない。不全をカーズは知っている。苦しみを、カーズは分かっている。それは噎ぶほどの歓喜であり、そして城字の尋ねたとおり寂しさなのだろう。故に永遠という生を、カーズは飽きることなく生き続けることができるはずだ。
 カーズは手を伸ばし、灰色の髪から抜け落ちようとする白薔薇を挿しなおした。
 風は完全に止み、降り注ぐ月光を逆流させるように足下から野薔薇の香りが湧き立った。カーズの目には見える。匂いさえ輝いている。自らの望みと覚悟をもってカーズの腕を受け入れようとする城字の周りには目に見えない様々な輝きが弾けていた。心臓の高鳴り、駆け巡る血と脳内物質が肉体お周囲で微かな反応を起こし、全体が仄かに光を放って見えるのだった。それは月光と比較すると仄かなものだったかもしれないが、かつて地底で暮らしていたころ、夜の風に誘われて地上へ出たカーズの目にした輝き、星の光に似ていた。
「城字・ジョースター」
「アルティメットシイング。カーズ」
「ようこそ、我が永遠へ」
 腕に抱いた次の瞬間には城字の姿はなくなっていた。あっという間に体内に吸収された肉体は本当に食いでがなかったが。
「これが」
 カーズは耳の上に挿された薔薇を取り上げ、口から一呑みにした。
「これが祝いの乾杯か」
 三十六の宇宙を経て細胞一つ一つに染みたその味は、実に美酒であった。
 おもむろに吹き始めた夜風は風向きを変えた。風の吹き抜ける先をカーズは見下ろした。丘の斜面にジョースター邸の明かりが見えた。まだ起きているのは誰だろうか。これまた美しく老いたジョエコか、それとも血は繋がっていないのに城字によく似たその孫か。いずれにせよ、この丘の上から屋敷に戻る人間はいなくなった。彼らが城字の不在に気づき、野薔薇の中のステッキに気づくのは早くても明日の朝だろう。この夜は、誰に邪魔されることもなくカーズと城字のものだった。
 カーズは悠然とその場を離れた。風に向かって歩き、不意に両腕を翼に変形させ風を受けて空に舞い上がった。腹の中には小さく鼓動するものがあった。カーズは、自らもまた星の光のような仄かな輝きを放っているのを知った。
 一度だけジョースター邸の上空を旋回し、そして二度とカーズは西暁町には戻らなかった。

          *

 サンモリッツのホテルで暮らしている。買い取ったのだ。大昔、自分が根城にした廃墟は、この宇宙では城となっていた。やはり人の住む気配はなく、ぽっかり空いた窓や尖塔を風が吹き抜けては物語るように鳴った。ホテルからはその城がちょうど真正面に眺められた。
 庭には犬が一匹住み着いている。親からはぐれたらしい仔犬だ。好きに遊ばせている。食べ物が欲しくなると通りまで出かけるが、必ずホテルに帰ってきて玄関の軒下に眠った。雪が降るようになってからはホールに入れることにした。この星に生きる生き物は、ほとんどが脆弱で、ほんの少しのことでも死んでしまうのだ。
 否、生きているものは必ず死ぬ。
 己はいずれ死ぬ、ということはないのだとカーズは考えた。老いることはない。衰えることはない。意志のある限りカーズは究極生命体であり、全ての生命の頂点に君臨し続ける。不死は存分に試した。己の血と肉をもって証明済みである。
 そして腹の中の鼓動、取り込んだ城字の肉体もまたカーズの肉体と溶け合い血液やエネルギーを共有しながら生きていた。あの姿があの形のまま埋め込まれている訳ではないが、寄生動物のように、あるいは胎児のように、もう一つの生命として存在している。
 だが声は聞こえない。
 意識が感じられない。
 己自身の肉体、火星で様々な実験を試みた余分な自分の肉体をもって、カーズは魂を知っている。なので、城字の魂が少しずつ溶け出しているのも分かっていた。腹の中で打ち続ける鼓動は馴染みのある城字の鼓動の音だが、既に変質しつつあるのだ。
 だがカーズは魂が溶け出すに任せた。魂は溶け出せば消えてしまうものだが、溶け出した魂の気配をカーズはいつまでも周囲にかぎ取ることができた。魂が溶けて流れ出した先で雪や花や犬の毛に再び溶けこんだかのようだった。なので、魂の方で流れ出すのであればそれもまた城字の意志かと理解してやった。骨片肉片にも意志は宿り、魂を引き留める。一緒にいたい、と城字は言った。ならば留まろうとする意志のある限り留まるだろう。肉体はここにある。それに鼓動のリズムは心地よく、元より不安などない身のカーズだが、その心地良いリズムに必要なものは足りていると感じた。
 春が来て、仔犬は再び軒下に眠るようになる。雪が割れ、高山の草花が短い夏を謳歌すべくいっせいに芽吹く。氷の解けた湖は再び顔をだした青い湖面を太陽の下に輝かせ、キラキラと光る反射光をテラスで寛ぐカーズのもとに届けた。
 世が来たる命の季節に輝くのと裏腹に、孕んだ鼓動のリズムは徐々に緩やかに、そして弱くなっていた。あの薔薇の咲き乱れた夜と同じ日付まで保つまいとカーズには分かっていた。
 西の空に傾きかけた月がテラスに射し、寝椅子にゆったりと腰掛けたカーズの半身を照らしていた。仄かな星の光を纏った己の肉体を美しいと、カーズは改めて惚れ惚れし見下ろした。そして腹に掌を当てた。別にそうする必要はなかったが、腹の中に城字がいるせいで生まれた雰囲気というやつだろう。
 腹の細胞一つ一つにまで意志が行き渡る。寄生する肉体を包み込み分離させるように液状化する。それは海水とほぼ成分の類似した液体、羊水だ。その中で鼓動を続ける肉塊。肉に包まれているのは脳と心臓。脳を活動させ続けるために心臓は本来の人間の肉体の限界を超えて動き続け、カーズから分け与えられた酸素と栄養素をポンプし続けていた。さて、まずは脳からだ。
 十月十日を孕むつもりはなかった。もう十分身体の中には収めてきたのだ。人間がその進化に必要とする時間も、究極生命体には訳ない。カーズは城字・ジョースターの姿を思い描くだけでよかった。
 腹の表面まで液体となり、澄んだその中に丸いシルエットがぼんやり浮かんでいた。それは腹の中から表面までのほんのちょっとの距離をゆっくり時間をかけて浮上し、顔を出してぷっと息を吐いた。表面に浮かんだ顔は人間の赤ん坊ほどの大きさで、瞼は閉じていて半透明だった。しかしもう呼吸の準備を始めていた。カーズの差し出した掌の上に、じわじわと浮上する小さな肉体は収まり、最後に爪先が抜けるとピチョンと可愛らしい音を立て、カーズの腹は元の通りに戻る。
 掌に抱かれた嬰児は勢いよく泣き出した。呼吸をするためだった。泣き声はすぐ笑い声に変わった。息を吸い、吐くことを赤ん坊自身が楽しんでいるようだった。そしてカーズの腹の上で赤ん坊はみるみる成長する。触れたカーズの身体から栄養を吸収し必要な肉体を得、あっという間に十五歳の城字・ジョースターの姿になった。
「カァァァァァァズ!」
 澄んだ夜空に向かって城字は声を上げた。
「…あは……あははは……カーズ………」
 かくんと首が折れ、下を向く。
「カーズ……」
 それきり喋らなくなった。月はどんどん傾いた。真横から射す月光が城字の顔を照らし出した。カーズには目の前の城字が何を考えているのか、その表情だけで理解できた。勿論彼の肌に触れ得るもの全てが――肉体を越して届く鼓動も電気信号も――情報を与えてくれるが、その表情だけで十分だった。
 カーズと呼ぶ他、この城字は何も持たないのだ。
 オリジナルの脳をそのまま保持しているのだから、その脳内に詰め込まれた情報をこの城字は自在に用いることができるはずだった。そのような肉体として作ったのだ。カーズに失敗はない。しかし脳を使いこなすには城字の意志は希薄だった。今この瞬間も、カーズは城字の気配を目の前の城字意外から感じているのだ。風のない夜の下、静かに眠る花、山の頂で今宵最後の月光を浴びる雪。軒下で眠る犬の毛にも、更にはサンモリッツの街全体に城字の気配は拡散していた。城字の気配は静寂の中で、じっとカーズと肉体を持った城字の様子を伺っていた。
「僕は…」
 腹の上に座り込んだ肉体は時間をかけて口を開いた。
「…城字、だ。名探偵、ジョジョ、だった。かつて。かつて、だ。今は、今の、僕は、そうじゃない。考えろ」
 また黙り込む。カーズは焦れることなく、急かすこともなく生まれたての城字を眺めていた。
「考えることはできる。でも一瞬だ。一瞬で考えることはできる。でも、全て正しく、百も、千も、万も、億も、兆も、並列してる。ううん、もうバラバラだ」
 カーズ、と城字は腕を伸ばし陽の光を浴びたことのないような真っ白な手でカーズの両頬を挟んだ。
「君以外の何もかもとっ散らかっちゃってるよ」
「まるでガラクタの思考だ」
「うん。僕は考える。こんなのは美しくない。美しくないものは真実じゃないよ。真実は、現実がどんなに醜悪な様相であろうと、やっぱり美しいものなんだ。僕は真実に因って考える」
 城字はじっとカーズの瞳を見つめた。
「凄く綺麗な目だ。よく晴れた日の浅くて優しい海みたいに水色の、綺麗な瞳だ。君は美しい。カーズ。それが真実だよ」
 思考に没入した。もう何を言っても聞こえないだろう。何も必要ない。
 必要なのは真実だけ。
 水色の瞳。城字は海に潜るようにその奥底まで見つめる。深く深く考える。真実は必ず答えを導き出す。
 最初から分かっていたことだった。城字が何を考え何を選択し何を実行したかを既にカーズは自分の目で見てきたのだ。それでも問う。
「答は出たようだな、名探偵」
「ああ。カーズ」
 城字はそっと手を離し、掌を自分の胸に当てた。
「僕を食べて」
 月が山脈の向こうに沈んだ。ふっと辺りを覆った闇の中、城字の身体だけが星のように光を放っている。
 両手が胸の上に突かれた。掌はズブズブと音を立てて溶けながら沈み込む。消化液に少しずつ溶かされ、一体となる。そこに痛みはない。あるのは城字のオリジナルの脳さえ経験したことのない得も言われぬ快感だった。
 城字の頬がふにゃりと緩んだ。
「君が初めて太陽を見た時、何を感じた?」
 腕の半分まで溶かされながら城字は尋ねた。膝から下も既に一体化している。
「美しかった」
 カーズは答える。
「これまで見た何ものよりも素晴らしかった」
「カーズ、知っているかい?君は最初の宇宙のジョセフとも戦ったし、僕の記憶も全部見ているから知っているだろう。だけどそこにある本当の意味も知っているかな。ジョースター家には代々星型の痣がある。星はここから何万光年も離れた先で輝く太陽だ。太陽の光は星の光。君が感じた素晴らしさは何百兆年もの昔から真実を君に示していたんだよ。星の光が君を導く」
 カーズは城字の肩に触れた。そこに星型の痣はない。つけ忘れたのではなかった。城字には最初から痣はなかった。もらわれっこ。血の繋がらないジョジョ。
 ふにゃりと緩んだ城字の笑顔はもう間近まで迫っていた。もうすぐ溶けてしまう。
「カーズ」
 胸の上に頬を押しつけ、城字は囁いた。
「脳だけじゃない、僕自身も君に会えてよかったと思っている。脳は再会を、僕は君に出会ったことを喜んでいる。カーズ」
 産んでくれてありがとう。
 その言葉は身体の中で聞こえた。城字の肉体は完全に溶けこみカーズは今度は脳細胞一つ残さず消化してしまっていた。だが城字は確かにその言葉を口にしたのだと分かった。城字のことだ。自分の身体だ。理解している。
 地面から冷気が湧き上がり、さっと肌寒くなる。寝椅子から身体を起こし、いいや、とカーズはニヒルに微笑した。ホテルの周囲が、サンモリッツの街全体が仄かな光を発していた。光は音もなく、雪の降るのと同じ速度で、そして逆の向きに、空へ向かって立ち昇る。天球へ向かう光は散り散りになり本物の星のような輝きを残して見えなくなった。
「この俺を導く、か」
 今から翼を生やし宇宙へ駆け上ればあの光が漂い新たな旅を始めたのが見えるはずだった。しかしカーズはそうしなかった。宇宙にはもう長いこといたのだ。そしてこの地球にはまだ百年ぽっちもいない。もうしばらく楽しんでからだ。
 城字の光が消えても、カーズはしばらくホテルに留まっていた。やがて街が衰退しサンモリッツが寂れた廃墟と化しても、まだそこにいた。軒先に眠る犬もいなくなり、夏風にそよぐ白い花も枯れた時、カーズはようやく立ち上がって天を仰いだ。星は何万光年の彼方からカーズを呼ぶように瞬いていた。
 旅が始まるのだ。
 カーズは翼を一打ちした。肉体が導かれている。魂が星の囁きを聞いている。
「城字・ジョースター」
 溢れる笑みをカーズは隠さなかった。
「今行くぞ」
 背後では膨張する太陽が乾ききった地球をその重力場に捉え、ゆっくりと呑み込んでゆくところだった。



2013.10.15