オーバーチュア・オーバー・ドライヴ




 とても淡い色の瞳をしていることに、時々ハッと気づく。まるで六歳とは思えない何かが、その淡い色の瞳を透かして覗く。ジョエコ・ジョースター。僕の血の繋がらない妹はとてもキュートでエネルギッシュでパワフルで、そして不思議な女の子だ。
 雨の午後だった。土曜日で、朝から依頼された事件現場に向かった僕とカーズは午前中で事件を解決し急な雨で機嫌を悪くしたフィアットに乗って家へと帰るところだった。県境まで行ったので僕はロッテリアを片手に食べつつ――もっとマシなものを食え、とカーズは説教する――高速に乗る道に入るところだった。するとフロントガラスにぶつかるペシャッペシャッという音。霙に変わってきている。
「うわ、大丈夫かなあ。カーズ、ラジオつけて。交通情報」
 すると指先一つ触れただけで既に魔改造済みのカーステレオは局を変え周波数をピタリと交通情報に合わせるし、しかもダッシュボードの上にはブォンと音を立ててAR画面が浮かび上がりナビゲーションまでしてくれる。
「凍結は流石にしないよな」
「速度制限が出ているぞ」
 ARの画面がブォンブォンと重なって雨雲の動きと予測図まで見せてくれる。凄く便利なんだけど、次の車検に通るのかな、この魔改造車。
 ハンバーガーの残りを口に突っ込んで高速に入る。カーズは立ちこめる安っぽい油の匂いが気にくわないのかほんの少し窓を開けた。冷たい空気が首筋を撫で、僕はぶるっと震える。カーステレオはARの画面を引っ込めて普通に音楽を流し始めた。カーズは人間がぺちゃくちゃ喋るラジオは好きじゃないけど、音楽なら少し聞く。カーズの種族には芸術的発展が乏しかったらしくて、だから今音楽大好きっていうほどじゃないんだけど、流れていてもあまり文句を言わない。ただ今のところはクラシック限定。僕がオリコン一位の曲を口ずさんでいたら「何だその雑音は」と言われた。あれ、これって僕が音痴なの?
 マリア・カラスの歌声が流れる中高速は週末で天気も悪いけれども思いの外スイスイ進んで、楽勝だね、昼から何しようかとか言ってたら急に歌声が途切れカーステレオが「臨時ニュースです」とか言い出す。
「お、事件か?このままそっち行こうか」
 僕は半分冗談半分本気で言ったんだけど、保育園で立て籠もり事件が起きたらしくて、僕はジョエコのこともあるから誰やそのモーゾたれと思わず方言でこぼしていたらそれがジョエコの通う保育園で壁にぶつかりそうになる。
「馬鹿者」
 カーズが横からハンドルを掴んで体勢を立て直してくれた。
「は!何て!何て言ったの今の!はぁぁぁぁ?」
「やかましいぞ。ジョエコの通う保育園に爆弾魔が立て籠もっていると言ったのだ聞いていなかったのか」
「聞いてないよ!」
 いや聞いてたけどそういう意味じゃなくて!
 僕はフィアットが悲鳴を上げるのも無視してアクセルを踏み続ける。速度制限なんか知るか。カーズの魔改造のお蔭でちょっと丈夫になった僕のフィアットは雨の中時々ヘッドライトをチカチカさせつつも高速道路でもあり得ないくらいのスピードで西暁まで走る。
 途中でペネロペから電話が入って、それは石ころじゃなくて僕の普通の携帯電話だったからカーズが出た。通話ボタンを押した途端、ちょっと!早く帰ってきてよ!とペネロペの悲鳴。ジョージのせいなんだから!またジョージのせいなんだからね!と感情的に叫ぶペネロペを後ろから押さえる声がボソボソ聞こえてそれは多分僕の父のジョンダだ。僕はカーズが差し出した携帯電話に向かって叫ぶ。
「今行くから!ほんとすぐ行くから!絶対助けるから!」
「当たり前よ!馬鹿ね!」
 電話越しなのにほっぺたをひっぱたかれるようなペネロペの声。でも彼女は半分泣きそうになりながら付け加えた。
「ジョージもちゃんと帰ってきてよ」
「心配しないで、ペネロペ。必ず三人で帰ってくるよ」
「カーズ。ジョージのこと、ちゃんと助けてあげて」
 ペネロペとジョンダも現場に向かうらしい。僕はインターチェンジに向かってハンドルを切りながら、多分僕らの到着の方が早いかなと予想する。一刻も早く解決したい。そして家に帰りたい。
「また、だなあ名探偵」
 カーズの揶揄は当然だった。ジョエコはこれまでにもう何度も危険な目に遭っているのだ。大体全部僕のせいだ。
 名探偵っていうのは世の犯罪者の天敵であり、同時に向こうからするとライバルのようにも見られていて名探偵に挑戦するために起こされた殺人っていうのも実際に起きているんだけど、僕の場合標的にされたのが可愛くて可愛くてたまらない僕の妹、幼いジョエコだった。お泊まり保育に参加した夜の水族館を襲撃されたことが一度、送迎バスのバスジャックが一度、誘拐未遂が三回。多い。多すぎる。僕とカーズが未然に防いだものも含めると六歳の女の子とは思えない犯罪遭遇率だ。ごめん。本当にごめん。
 でも僕が名探偵であることは変わらないし、多分僕は死ぬまで名探偵であり続ける。これはきっと僕の宿命だし運命だ。ジョエコもジョースター家の宿命の中で色んな運命を引き寄せてるのかもしれないけど水族館襲撃とバスジャックと立て籠もり事件は確実に僕を名指ししての犯行だから本当にごめんなさいとしか言えない。だから僕はジョエコを助けるためなら命だって懸けられる。
 とか心の中で決意していると目の前の道路にはパトカーが密集していて僕らはいつの間にか保育園に到着している。あれ、ろくに運転した記憶がないけどな、と思うけどそれは勿論カーズのお蔭に他ならない。ペネロペもカーズに対しては、ジョエコを助けて、ではなく、ジョージを助けて、と言ったのだ。
 でもカーズが言われたことを言われた通りに言われただけやるかと言うと、カーズは僕ら人間になんか及びもつかない存在なのである。究極生命体。
 フィアットを降りると顔なじみの刑事がすぐに見つかって僕が「今の状況は…」と尋ねようとしたら、カーズはその脇をすり抜けスタスタと歩いてゆく。決して急いたり素早い動きではないのに、報道陣や周りの警官が止める間もないまま、滑らかな歩みは立ち入り禁止のテープを抜けて保育園の庭に至っている。
「カーズ…!」
 僕は声が掠れた。大声を出す訳にはいかないし、かと言って止めて一悶着起こすのも衆目の前ではアレだし、って言うか僕にカーズを止められるはずもないんだけど。
 一応、分かってはいる。カーズはジョースター家の人間を決して疎かにはしない。たとえ殺人犯を壁面に叩きつけてもバスを輝彩滑刀で切り裂いても、これまでジョエコに傷一つつけたことはない。お嫁さんとしてジョースター家に入ったペネロペのことだって、よく「女」ってぞんざいな呼び方をしてるけど、大体名前で呼んでる。それにジョエコは直系のジョースターだ。『ジョジョ』を目の前で殺させたりなど、カーズは絶対にしない。
 色画用紙で作られたキリンが窓を飾る横開きの戸を開けて犯人が出てくる。爆弾魔。臨時ニュースで名前を聞いて、ああ、って思ってたけど確かに知ってるヤツだ。二年前、ヤツの兄貴を刑務所にぶち込んでいる。血縁が損なわれることがどれだけこたえるか、知っているって訳だ。クソ、殺してやりたい。Uボートの魚雷で内側からミンチにしてやる。いやアルティメット・キラークイーンのディスクを入れて爪先からちょっとずつ爆弾にして吹っ飛ばしてやる。
 僕が名探偵というよりは私情挟みまくりで考えていると爆弾魔は庭に佇む見知らぬ品のいいコートに長い髪を頭巾で覆った威圧感のある大男に向かってテメェ何者だ、どけ、ジョージ・ジョースターを呼べと命知らずにも喚く。僕は出て行こうとするが、おいおいちょっと待て、さっきから冷静さを欠いているぞ僕。僕が目の前に現れたらそれこそが好機と、ヤツは僕の目の前で保育園を爆破するかもしれない。それより早くカーズはジョエコを助け出せるだろうか。と思ってたら僕の耳元で喋ってた刑事の声がようやく脳に届いて、犯人の背後の部屋にはまだ二十二人の園児が残っていることを知る。カーズ一人じゃちょっと難しいかな!
 でもあそこにジョエコがいると思うと僕は飛び出さずにはおれないし、実際そうしてしまうのだけど。
 警官たちの間から首だけにゅっと出すのと、開いたままのキリンさんの戸からジョエコが姿を現すのは同時だった。
「カーズちゃーん!」
 ジョエコはニコニコ笑顔で手を振りながら叫んだ。
「また波紋疾走やってー!」
 あれだ。子供が玄関口で言うあーそびーましょーのノリだ。
 雨音さえ消えたかのような静寂が一帯を支配した。マスコミさえ喋るのをやめた。男は凄い形相でジョエコを振り向いている。
 するとカーズの肩が軽く揺れる。ジョエコの声に呆気にとられて静まりかえった保育園に、くつくつとカーズの低く笑う声が響く。
「よかろう、ジョエコ・ジョースター。その威力はかつて俺を宇宙に放逐したJOJOの数百倍、このカーズの波紋をとくと目に焼きつけるがいい!」
 え、やるの?いや、ここでやらないってことは絶対ないよなあ。口上もノリノリだったもん。
 そして僕は覚悟する。
 サンセットオレンジオーバードライブ!と腹の底から震わせるそれは、朗々と歌われる歌のようでもあり、サグラダファミリアの鐘の音のようでもあり、オレンジというより黄金色の黄昏が顕現したかのようだった。冷たい雨の降る保育園の庭は一瞬にして目映い光に包まれた。それは濡れた地面を伝わる波紋の輝きだった。しかも僕への復讐で目を曇らせ身なりなんか構わなかった犯人は片足をもろに水たまりの中に突っ込んでいた。どうなったかは分かるでしょう?カーズはジョエコに宣言したように本気で人間の数百倍の波紋を練ったんじゃなかったけど、それでも熱湯風呂を通り越してマグマ風呂に突っ込まれた感覚だったと思う。雨を伝って波紋の余波が伝わり、こっちの人間もかなりビリビリ痺れていた。屋内にいる園児たちは多分大丈夫だと思うけど、ちょっと待って、ジョエコが軒下でキャッキャやってるんですが、その足下が濡れてますよ?
 しかしジョエコはピンピンしたもので、
「カーズちゃん、おかえりー!」
 立ったまま気を失っている――死んでないよな…?――犯人の横を通り過ぎカーズに抱きつく。カーズはジョエコが足にぶつかる直前でひょいと小さな身体を持ち上げる。
「裸足で出てきたな」
「いいじゃない。すぐに洗うもん」
「本当か?」
「うそー」
 やべえ。こんな時でもジョエコマジ天使すぎる。僕は隣で痺れてる警官を揺さぶって可愛いよなあ?なあ!って言いたくなるけど名探偵だし大人だしそんなことはしない。そして波紋の余韻が消えたことを確認しつつカーズとジョエコに近寄る。
「…ありがとう、カーズ。ごめんね、ジョエコ」
 ジョージ!とジョエコが手を伸ばすので、僕はカーズの手からジョエコを受け取る。
「お兄ちゃんもおかえりー。おしごと終わったの?」
「ああ、終わったよ」
「今からかえるの?」
「ああ、帰ろう」
「あのね、わたし、アイス食べたい」
 アイスくらいどれだけでも買ってあげよう。暖炉の前にハーゲンダッツを山積みにして食べよう。
 人混みの中から「ジョエコ!」と叫ぶ声がした。ペネロペだ。ジョンダが十字を切り、神に感謝している。あまりカーズのことを詮索されたくないので僕らはそそくさと車に乗り込み保育園を後にする。
 ペネロペが離そうとしないしフィアットにはチャイルドシートがついていないから駄目だと言ったんだけど、ジョエコはカーズから離れない。
「カーズちゃんシートにすわれば安全だもんね」
 と言って助手席のカーズの膝に乗る。本当はその体勢が事故の時に危ない格好なのだが、ここは僕が安全運転を心がければ解決できるだろう。っていうかチャイルドシート買いに行こう、後で。
「カーズちゃんのオーバードライブ!わたし大好きー。もっと見たいー」
「ふふ、肉が液体化するだけではすまんぞ。気化するぞ」
「やだー、こわいー」
 怖いと言いながらジョエコは楽しそうだ。
「本当はわたし一人で犯人やっつけようと思ったんだけど」
「ジョエコには無理だよ」
 子供って可愛いなあと思いながら何気なく言った言葉に、ジョエコは思いの外強く反論した。
「できるもん!わたしだってビー玉があれば犯人に勝てるもん!」
「ビー玉?」
「保育園はビー玉禁止なの。赤ちゃんもいるからあぶないの。でもね、わたし、ビー玉があったらギャルギャル回して犯人なんかぐるぐるーってなっちゃうんだから」
「ギャルギャル?」
 ギャルギャル回す?何のことだ?
 するとジョエコは僕の想像の斜め上を軽々と飛ぶ。
「ビー玉を黄金長方形の軌跡で回転させるんだよ」
 僕だけじゃなくカーズも黙っている。多分驚いている。
「買ってもらったビー玉は真球じゃないけど犯人をたおすくらいならできるよ。あっ、でもスタンド使いの人には勝てるかなあ。やったことないなあ。カーズちゃんの波紋には勝てるかなあ。回転の力と波紋の力は同じものを目指してるんだよ、知ってた?」
「……ごめん、知らなかった。ジョエコ、その回転?」
「黄金長方形の軌跡で回す回転だよ」
「黄金長方形の回転ね、どこで覚えたの?」
「おうちにあった本」
 その本というのは、確か僕も昔ちょっと読んだことがあったような、ジョースター邸にある図書室の一角に納められた十九世紀出版の革装の本『ツェペリ家回想録・七世代の死刑執行人』という全六巻からなる書物で、しかもイタリア語で書かれていたはずだ。
 ジョエコが教えてくれたことは僕も後で直接本を見て確かめたんだけど、この回想録、ひいじいさんのジョセフの父、つまり僕らの――ジョエコからすれば直系の――曾々祖父ジョドー・ジョースターの奥さんであるマリア・ユリアス・ツェペリが遥かイタリアからジョースター家に嫁いだ時に嫁入り道具と一緒にやってきた本で、確かにツェペリ家という国王から死刑執行人を任命された一族の歴史と彼らの追及した技術について書かれていた。でも黄金長方形の回転というのは一子相伝の技術だったらしくて、本に印刷されているのは主に人体や医療についての技術であり、それだけでも六歳が読むにはハイレベルな内容だけど、じゃあ回転についてはどこに記載されていたのかといったらページの余白や挿絵の裏に手書きで書き込まれたものであり、しかも歴代書き加えられていったものらしくて。
「読んだの?」
 僕の質問は悲鳴じみている。
「読んだよー」
「あれかな?露伴先生にイタリア語を読めるようにしてもらったのかな?」
「ううん。だって図書館には日本語とイタリア語の辞書もあるんだよ」
 おそろしい。ただでさえ天使なのに、このハイスペックぶり。将来がこわい。頼もしいけどこわい。ジョエコ、君が大きくなったら僕は君のお嫁さんになるよ。
 とアホなことを胸で呟きつつ僕は何とかハンドルを握りしめへろへろとジョースター邸への坂道を走らせる。助手席ではカーズが回転の力に興味を持っていて、色々突き抜けて一周した僕の顔はもう笑顔だ。
「カーズちゃんのおめめも綺麗なかたち」
「無論だ。究極生命体である俺は美しさを基本形としているのだ」
「じゃあぜったいぜったいかんぺきな回転ができるよ!ねえー、カーズちゃーん、わたし真球のビー玉が欲しいー」
「ビー玉では壊れやすいだろう。俺がもっといいものを作ってやる」
「やったー!」
「よかったねえ、ジョエコ。後でお兄ちゃんにも黄金長方形のこと教えてね」
「うん!」
 ジョースター邸では先に到着したジョンダとペネロペが雨に濡れるのも構わず門前まで出て迎えてくれた。カーズはドアを開けてジョエコをペネロペの手に渡す。ジョンダが小さな足の裏をぱたぱたとはたいた。
「泥だらけで…」
「よかった。ジョエコ。お帰りジョエコ。お帰り」
「ただいまー!」
 僕は車をもう少し、ガレージまで徐行させながらハンドルにもたれかかる。
「お疲れの様子だな、名探偵」
「うん。…でも、ありがとう、カーズ」
 色々ショックだったせいか、下りた途端に足のふらついた僕をカーズは抱え上げる。肩に担いで運ばれながら僕は逆さまに見える背中にもう一度、ありがとうと囁いた。
 ようやく帰り着いた僕らの家、ジョースター家。そこにはまだ僕の知らない謎や因縁が隠されていそうだけど、今はとにかく暖炉の前でジョエコとごろごろしながらハーゲンダッツを食べたい。あ、買うの忘れてきた。でも冷凍庫にはガリガリ君が入っていたはずだ。僕らはガリガリ君も好きなのだ。カーズは氷の塊だと言うけど、いいじゃないか!
「カーズはガリガリ君、何味がいい?」
 僕は笑いながら頭巾から溢れてたゆたうカーズの髪にぼすんと顔を埋めた。



2013.10.14