葦と永遠 【望郷編】




 思い出されるもの。古き良き時代を忍ばせる壁紙。窓に映った薄暮の空。食器類の並ぶ音と幼い娘の笑う声。人形のように美しいジョエコ・ジョースター。レコードプレイヤーは蓄音機を模していたが音楽は高音質のスピーカーから流れていた。人間の夕食の席にあり人間式の衣服を纏うことに違和感はなかったものの、それを見立てたのが城字・ジョースター、ジョジョであることはそれなりにカーズにとっても運命の綾を感じさせたものだった。
 懐かしく思い出す。永劫に等しい時間の中で、時が過ぎれば過ぎるほど思い出される一夜は遠ざかり刹那の光点となる。しかしその光をカーズは見失うことがなかった。茫漠たる暗黒、飽きるほどの虚無の中でも、その一夜、一瞬一瞬が脳裏に浮かび再体験される。
 思い出だと城字は言った。
「僕は名探偵だから何事も結構細かな所まで覚えるのはもう習性だけど、思い出ってまた別なんだよ。記憶だけど記録とも違う。言い方が悪いけど感情が事実を改竄するっていうか、まあいい意味でね」
 だから、と城字は彼らの目の前に立つ養父を見た。ジョンダ・ジョースターは三脚の上のカメラをいじり、指でOKサインを作りながら集団の真ん中に走って来た。
「カーズっち、笑顔」
 フラッシュが閃くのとシャッターの音は同時だ。カーズは笑顔を作っていない。振り向いた城字は、もう、と唇を尖らせながらも、まあそれでこそカーズなんだよなあ、と納得したように笑った。
「さっきの科白の続きは何だ」
 カーズが尋ねると、城字は三脚からカメラを外し自分で構える。
「記念写真って大事なんだよ」
「記憶の補強にか?」
「ぶっちゃけそうかもしれないけど、もっと大事な役目があるよ」
 両親から離れたジョエコが足下に縋りつく。幼子を抱き上げたところを、城字がシャッターを切る。フラッシュが眩しかったのか、ジョエコは高い声を上げて笑う。ペネロペが手を差し出し、私が撮ってあげる、とカメラを受け取った。ジョエコを挟むように城字が隣にやって来た。
「過去は変えられない。良いことも、悪いことも。君は最初の宇宙で地球から吹っ飛ばされたし、僕はどうしたって産みの親を知らない。でも他にも色んなことがあったろ?君が生命の新しい段階に至った時の感動とか、僕が火星で君と出会った時のこととか、いやあれマジ恐かったけど、でも今はこうして僕ら家族と、ジョースター一族とテーブルを囲んでたりさ。そういう良いこととか思い出に残ることとか感動の瞬間とかを、それ一度きりの遠い過去のものにしないものがある。タイムマシンだよ。記念写真は僕らのタイムマシンなんだ」
 水色の瞳を瞼の下に閉じ込める。暗闇に浮かび上がるのは、タイムマシンに関する一席をぶって家族から注目と笑いを浴び照れて怒った城字の姿だった。
 カーズは耳を澄ます。暖炉で薪が燃え、小さな火の爆ぜる音が聞こえる。壁紙の模様は枝付き燭台の柔らかな明かりに仄かに照らされており模様は明暗の境界を溶かしてぼんやりしていた。窓の外は日が落ち、夜の中に降り積んだ雪が青白く浮かび上がった。
 十二月二十四日の夜、ジョースター邸。
 それは今、カーズの目の前に広がる光景であり、彼はそれを再び体験する。
「はいはいはい!クサイことも言いますよ!イブやしね!もー!そんなに笑わなくてもよくない?」
 笑いの発作に襲われ腹を抱えるペネロペ、普段穏やかなジョンダがジョースター一族らしい明るい少年っぽさを見せて笑い、腕の中のジョエコは周囲の人間が笑うのが面白くて更に悲鳴のような大声を上げてはしゃぐ。
「リセットー!」
 城字がレコードプレイヤーに飛びつき曲をスタートさせた。サンタが町にやって来る。カーズは知らないがどの宇宙でも定番の曲だと城字は言う。
「師トンペティにも聞いたしね」
 チベットの山奥で修行に励む老人がクリスマスソングを?まあいい。
「ペネロペ!」
 城字は義母にあたる女性に向かって手を差し出し、ペネロペも義理の息子にあたる青年の手を取る。二人が踊り出すとジョンダはワインに口をつけ満足そうにその光景を眺めた。
 腕の中でジョエコが拙いながらも音楽に合わせて歌い、手足を動かす。ちょっと脳を押してやれば思い通り踊れるようになるだろうが、カーズとてワムウにいきなり石仮面を被せることはせず一つ一つを教え学ばせ育てたのだ。床の上に下ろすとジョエコはカーズの服の裾を掴んで、自分の母親を真似し踊り始めた。
 カーズは城字を見た。脳を押さなくても背は伸びたらしい。それなりの体躯はジョースターの一族の中では細い部類だろうが、しかし養子の割にはよくその特徴を受け継いで育ったものだ。環境が肉体にも変化を与えたのか。ペネロペの手をとって踊る姿は何百兆年の昔自分に刃向かった若造、宿敵のジョジョ、ジョセフにも似ていた。城字にとってこの宇宙のジョセフは曾祖父にあたるのだ。
 ペネロペは城字の手の下でくるくると回され、笑いながら城字に抱きついた。
「疲れた?」
「全然!まだ踊り足りない」
 弾けるように笑いペネロペは逆に城字の手を掴んでぐるぐる回す。
 何枚というレコード、人間の舞踏。ジョンダとペネロペの夫婦に弾き飛ばされた城字が自分のもとにやってくる。
「カーズ先輩、ダンスは?」
「理解した」
 単純で単調だが、繰り返しは基本的な快楽である。ステップを、カーズは違わずに踏む。掴まる裾のなくなったジョエコは一人でくるくる回る。
「ジョエコ」
 カーズは呼び片手を差し出した。小さな白い手がそれに掴まった。柔らかく、体温は高く、皮膚の下で命がはち切れんばかりなのをカーズは感じた。それは最初の宇宙で自分が愛したもの、四つ足の動物や、高山の雪の中にも健気に咲く花と同じ、命の輝きに満ちていた。
「次は?」
 レコードが終わり、ジョンダが促す。城字は父親に向かって親指を立て「スローなブギでひとつ!」とリクエストした。
 カーズは右手に城字、左手でジョエコを相手にしながら手指で二人の踊りをリードする。ジョンダとペネロペは夫婦の軌跡を紡ぐように二人のダンスを続ける。
 レコードは小さく流れるアヴェ・マリアに変わった。まだ興奮冷めやらぬジョエコはカーズに手をとられ、つま先立ちでくるくると回転する。
「ジョエコ、上手上手。かわいいなあ」
「あーがと!」
 その顔はまだ遊び足りないらしいが、目はもうとろんとし始めていた。ペネロペが抱き上げ「はい、ジョージお兄ちゃんとカーズおじちゃんにおやすみを言って」と促してもぐずっていたが、カーズが頭を撫でるとおとなしくなる。
「変なことしてないでしょうね?」
 ペネロペはちょっと不安そうに睨みながらもジョエコを部屋に連れてゆく。ジョンダもその後を追った。
「かわいー。もうむっちゃかわいー」
 頬を緩ませきった城字が三人の後ろ姿を見送る。
「いつも見ているだろう」
「家族やからね。でも見飽きないって。驚異的や、あの可愛らしさ」
「子供が欲しいのか?」
 話の流れとしては不自然ではなかったはずだが、城字から溢れる緩みきった空気がぴたりと音を立てて止まった。
「子供、な」
 不意に凍った目は推理する機械の目、純粋な思考に没入した時の目だ。二十歳を過ぎて再会した城字は日常の中で常々それを考えているらしかった。特異点という自分を。ジョースター家にはもう直系の子孫、ジョエコがいる。その中でもらわれっこの自分に子孫を残す意味はあるのか。そもそも何かを残し得る運命を有している存在なのだろうか。全ての宇宙で一人だけの自分は、前にも後にも何にも繋がらないのではないか。
「まだ、二十二だし」
 城字は笑ってみせた。
「この先何があるかも分かんないしね。野球チーム作れるくらい子供が出来るかもよ」
「俺なら作れるぞ」
 それはごく現実的な提言だったはずなのだが、振り向いた城字は目を見開き、瞳には涙さえ厚い膜を作って、それがパッと散った。
「ええと、具体的な方法は……いや、いやいやいや聞きたくない」
 頭を抱えた城字は低く唸り髪の毛をがしがしと掻くとバッと顔を上げた。
「セックスすんの?」
「その方法もあるが」
 うわぁぁぁと声を上げた城字はしゃがみこみ、次にうおぉぉぉと吠え、むむむむむむ…と唸って立ち上がり、カーズの肩にがっしと両手を置いた。
「考えさせてください!」
「好きなだけ考えろ」
 ふ、と笑った自分の声が耳に届いた瞬間、燭台の明かりは消え、古い壁紙も雪明かりの窓も闇に溶ける。カーズは瞼を開いた。目の前に広がるのは秒速二百万キロで膨張する宇宙空間だった。とても寒く、カーズは半ば鉱物のように変化させた肉体で、その茫漠たる闇を漂っていた。
 しかし冷たく固まったその身体はほんの一瞬前まで城字と踊り幼い命と踊り音楽の心地良さに委ねられていた。錯覚ではない。カーズの脳が再体験したものは肉体にも確かにそれを与えたのだ。暖炉にぬくめられた息をほんの少しだけ吐き、かいだ。それはすぐに小さな氷の結晶になってしまったが、懐かしい匂いだとカーズは思った。



2013.10.12