スモーク・メイ・クライ
シャワーの音がやる気なく降る雨のようにびたびたと響いていた。夕暮れの部屋はもうほとんど真っ暗で、窓が一枚だけ、まだ明るい空を映していた。ホルマジオはベッドに腰掛け煙草を吸っていた。イルーゾォの煙草だ。本人は今シャワーを浴びている。外に出るのもあまり好きではないらしいこの男は、煙草が一本減るのでも惜しがる。棚には保存の利く缶詰、冷蔵庫はほぼ空っぽ。煙草はストックというほどではない。滅多に吸いはしないのだ。しかしホルマジオは敢えてイルーゾォの煙草を吸う。今日はこれで二本目だ。背中と肩には一本目を吸った時につけられた引っ掻き傷が残っていた。煙草を返せと、爪で引っ掻いてきたのだ。子供か。あるいは猫のようだ。それを可愛らしく解釈してやれるのは、いざという時、自分の方がイルーゾォより強いからだろう。 イルーゾォは臆病で残虐だ。鏡の中でおぞましいほど露わになる嗜虐心は、ちょっと見るだけでもイルーゾォの中に抑圧されたものを想像させるに十分だった。二目と見られぬ姿に変えられたターゲットたち。男だろうが。女だろうが。年寄だろうが。子供だろうが。美人だろうが。マッチョだろうが。肌の色が黒かろうと白かろうとホモだろうとヘテロだろうと素人であろうと犯罪者であろうと、イルーゾォは実に神様並みの平等さで全てを取り扱った。ゴミのように。 嬲り殺す過程でもたらされる高揚感は死体を処理する段階で急激に萎えすぼみ、自分が作り上げた死体を見て嘔吐することもしばしばだ。イルーゾォが暗殺チームに加わってから、ホルオマジオは呆れるほどにその光景を見てきた。だがイルーゾォは後でどれだけ打ちのめされることになろうとも残虐趣味をやめようとはしない。病気なのか。大雑把な括りをしてしまえばそう言うのか。もっと簡単な表現もある。馬鹿だ。それも正解だろう。だが同じチームにあって同じ抑圧を感じているホルマジオが考えるに、最初はシンプルな思いであったはずだ。社会的生物としての人間の根源的な欲求。相手に尊敬されたいという望み。 カタギの世界に生きていてもそう叶わないであろう望みを、何故叶わぬと怒り、憎悪を拳に込める。馬鹿だなあおまえ、とホルマジオは時々枕を抱いて眠るイルーゾォの寝顔に吐きかける。最早飢えはセックスでは埋められない。仕事のある限りイルーゾォは鏡の中で無残な光景を繰り広げ続けるだろう。チームの中で一番ろくな死に方をしないのはこいつではないかとホルマジオは心の底で思っている。 臆病者。だから逆に望んだものを得られるかもしれないと感じると怯えて手を引く。与えられたことがないから目の前のものが本物かどうかも分からない。自分を陥れる罠ではないか、利用されるだけではないか。疑心を隠さずどんより濁った目でこちらを見つめる。それ故にホルマジオは決してイルーゾォに向かって愛は囁かないし、優しく抱いたりもしない。後者に関しては趣味の問題かもしれないが。もし本当にイルーゾォが求めているものを与えようとしたら――抱き締めて、ゆっくりベッドに横たえ愛していると囁いたら、その時イルーゾォは自分を殺そうとするかもしれない。冗談半分、もう半分でホルマジオは確信している。恐慌に駆られたイルーゾォが自分をネズミのように叩き潰すイメージ。その前に殺してやる。 セックスはセックスだ。やりたいからやる。欲情をホルマジオは隠さない。ただ行為に及ぶ中で、比喩表現ではあるけれども、このまま殺してやりたい、と思わないこともなかった。抱こうとするとイルーゾォは最初躊躇いを見せる。押すと抗う。臆病者は世間における一般的な愛情表現をその身に受けながら弱々しい抵抗を装って快楽を呑む。時々見せるウブな反応はイルーゾォがセックスをするために踏む必要なプロセスだった。まさか女相手にもそんなことはすまいが。 「お…」 さっきし終えたばかりだというのに股間のものが硬くなる。少し興奮したのは、イルーゾォが女相手だろうと鳴かされる側だろうと想像してしまったからだ。 シャワーは相変わらずびたびたと狭い浴室を打つ。ホルマジオは暗がりの中に浮かび上がるシーツに掌を這わせ、イルーゾォの脚の間から流れ落ちたものの染みに触れた。買い置きがなかったのでコンドームなしでやった。イルーゾォは抵抗したが、それも形ばかりのものだった。結局はしたい。時折、せずにはおれない。 やる気のない水音が止んでドアが軋みながら開いた。 「…ホルマジオ?」 煙草をシーツに押しつけ、非難の声を上げようとするイルーゾォを浴室に押し返した。狭い浴室は冷たい水の匂いで湿っていた。 「なっ…お前、さっき終わったばっか……」 「黙れよ」 尻を掴んで抱き寄せれば更に硬くなったものが押しつけられる。イルーゾォは短く悲鳴を上げ、目を逸らそうとした。だが無理矢理にでもキスをすればその気になるのだ。 いつだって場所は問わない。そんなのは最初からだ。イルーゾォの半身は浴室から逃げだそうとするかのような格好でドアの向こうにはみ出る。浴室には相手の腰を掴んで押しつける自分の荒い息づかいだけが反響する。 一瞬胸をよぎった虚ろを誤魔化すように相手の背中にのしかかり、濡れ髪に隠れた首筋を噛む。髪からはイルーゾォのにおいがする。 せずにはおれない。この衝動的な関係がなぜこうも続いているのか、考えたことはない。イタリア男たるもの、人生の楽しみこそ主題に据えなければならない。 ならば自分の人生の楽しみにイルーゾォは存在するのか、とも考えたが今宵もホルマジオが睦言を囁くことはなかった。 * 月は出ていないが屋根の上を覆う雲が街明かりを反射して夜の空気はぼんやり明るく足下が覚束ないということもない。ましてイルーゾォの部屋を目指すのは慣れた足だった。ホルマジオはポケットの中の煙草を指先でいじり、吸いたいのをしばらく我慢していた。夜道を紫煙が漂い仲間のヤサまで案内しては堪らない。誰かに狙われているような気配はないが、自分たちは暗殺者であるし、ソルベとジェラートの死に顔が瞼の裏から消えるには早すぎる。 イルーゾォの部屋は路地の複雑に入り組んだ袋小路の、果たしてどの入口がどのアパートに繋がっているのか分からない建物群の中にある。一番手前の入口から入り廊下を抜け、狭い階段を上る。一番上の階にあるその部屋は付近で一番日当たりが悪いのだとは本人の談だが窓が一枚だけ中庭に面しているせいで、いつも妙に眩しい気がした。窓から射す陽は鏡に当たる。イルーゾォは大体その中で眠っている。 夜の部屋はやはり暗かったが、窓のお蔭で隣家の明かりなどが仄かな光となって届き、ここでもホルマジオは転ばずにすむ。ただ、爪先は何かを蹴った。 鏡の下にハイヒールが転がっていた。 ホルマジオはその場に佇んだまま、しばらく視線だけでそれを見下ろした。ポケットの中で指先が紙巻きに触れる。思い出したようにそれを取り出し、この部屋で自分の煙草を吸うのは久しぶりだと思った。ここにくればいつもイルーゾォのを吸ってばかりだ。ライターの火が一度、二度、暗闇の中でホルマジオの顔をフラッシュのように浮かび上がらせた。それは鏡に映って、ホルマジオ自身の視界にも捉えられた。最初の煙を肺の奥まで吸い込み、鏡を横目で睨む。 「イル」 鏡はホルマジオの影のような輪郭と煙草の赤い火しか映し出さない。顔を出す気はない、ということか。 ホルマジオはベッドの上に腰掛け、床に這わせるように煙を吐いた。爪先で蹴るハイヒール。鏡の中に女がいるのか? お楽しみ中か、それとも殺っている最中か。 いいや鏡の中にはイルーゾォ一人なのだろうし、女がこの部屋に入ったこともないのだろう。ハイヒールは女が履くにはサイズが大きかった。転がる、赤いエナメル質の。片方だけ。 「なあ、片足、持って行ってるのかよ」 ホルマジオは鏡に向かって、だがやる気なさそうに話しかける。 「何思い出してマスかいてんだ」 すると思わぬ方向からもう片方のハイヒールが飛んできて、避けたつもりだが踵が頭を掠った。 ドアの方を振り返るとイルーゾォが立っている。猫背気味に、今し方ハイヒールを投げた手をだらんと垂らしていた。 「…誰がお前でマスかくかよ」 「オレとは言ってねえぜ」 考えれば相当な失言のはずだがイルーゾォは動揺するのさえ億劫だと言わんばかりの態度でだらだらとホルマジオの目の前を横切り、鏡に手を触れた。 「おい」 「寝る」 「イルーゾォ」 立ち上がりホルマジオが鏡に触れるとその手は冷たい表面に遮られるが、イルーゾォは水に沈むように掌の半分が鏡に溶けていた。 「邪魔をするな」 イルーゾォは顔を上げずぼそりと吐く。 「任務だったのか」 「仕事がなきゃ食っていけねえ」 「いつ受けた」 「いつだっていいだろうが。何詮索してるんだ、らしくねえ…」 言いかけた口は言葉の続きを紡がず不満そうな息だけが漏れた。ホルマジオは顎を掴んだまま、じっくりとイルーゾォの顔を見つめた。煙草の小さな火は、しかし確かに火で、見つめる内に網膜には確かなイルーゾォの顔が映った。暗闇に赤い火で描いた顔。陰鬱で、目元には濃い隈がくっきりと浮いていた。 「…で、何人殺したよ」 「数が問題か?」 煙を吹きかけると咳き込む。顔を逸らそうとしても許されないので細めた目に涙が滲む。 手の中に脱力の気配がだらりと流れ込んだ。イルーゾォは目をつむり、投げやりに自分の身体を差し出していた。ヤるならヤれと言わんばかりの面。 煙草を吐き捨て、ホルマジオは唐突に手を離した。イルーゾォの身体はよろめき、肩から鏡にぶつかる。しかしもう溶けこみはしない。 「…ホルマジオ?」 ホルマジオは黙ってベッドに横になった。まるまる占拠し、瞼を閉じる。 「ホルマジオ…」 イルーゾォが名前を呼ぶ。声は心細く、頼りない。それでもホルマジオは目を開けることも、腕を広げてこっちに来いと誘うこともなかった。 眠りに落ちるのと、諦めたイルーゾォが鏡の中に入るのとどちらが早かっただろう。爪先がハイヒールを蹴る音がした。確かに日当たりの悪い部屋だ。何も見えない。 翌朝、酒を入れない日はいつも通り夜明けより少し早く目覚め、冷蔵庫を漁った。相変わらずろくなものが入っていない。炭酸入りの水は飲む晩の為に用意したはずだが、一緒の買い物をしてから今朝まで一度もそんな夜はなかった。瓶の中身を一気に干し、一息ついて鏡を振り返る。鏡に映ったベッドの中でイルーゾォが膝を抱えている。ホルマジオは水が三分の一ほど残った瓶を掴んだまま鏡に寄り、拳でノックした。 「出て来いよ」 地平の向こうの朝陽から空へ浸透した光は窓からこの部屋にも広がって、鏡の中のイルーゾォの顔は仄白く、血色が悪かった。目の下の隈はいっこうに消えていない。 のろのろと鏡から這いだしたイルーゾォに炭酸水を押しつけ、勝手にクローゼットを開ける。部屋も冷蔵庫もガラガラなのにクローゼットの中ばかり、その狭さを無視して物が詰め込まれていた。ホルマジオは多分洗濯済みだろうシャツを見繕って背後に投げた。イルーゾォはちびちびと水を飲んでいるところで、頭からシャツを被った。 「着替えろよ。出るぜ」 残りの水を飲み干したイルーゾォが咳をした。溜息も出ないようだった。 迷路のような路地を抜けると世界には朝が広がっていて、ホルマジオは当然のように近くに駐めてあった車を盗む。助手席のドアの前でイルーゾォがぼんやり突っ立っているので、しょーがねえなぁ、と内側からドアを開けてやった。 「早くしろ」 「どうして」 「パクられてえかよ」 アクセルを吹かし一気に通りを抜ける。 世間は月曜日らしい。街中に向かう車がところどころで渋滞していた。それを尻目に車を郊外へ郊外へと飛ばす。道路は一度海岸沿いに出て山へ向かう坂道になっていた。イルーゾォはヘッドレストに頭をもたせずっと腕で目を覆っていた。 「…吐く」 「我慢しろ」 「マジで…」 だがスピードは緩めない。何割かは本当に気持ち悪かったのかもしれないイルーゾォは、諦めたように身体を傾けた。 「眩しい」 大分時間が経ってから、ぽつりと言った。 「朝だからな」 ホルマジオは答えてから、不意に込み上げた笑いが我慢できなくなった。 「当たり前じゃあねーか」 「うるさい…」 いよいよ身体を小さくするイルーゾォは子供のようだ。 古い門の跡地は街と海を一望できる場所だった。平日の早い朝とあっては観光客の姿もない。ホルマジオはようやく車を停めて、外へ出た。 「イルーゾォ」 振り返るとイルーゾォはシートを倒していよいよ本格的に寝る体勢に入っている。 「何してんだよ」 「ねむい」 「見ろよ、いい眺めだぜ」 「いい」 仕方なくドアを開けて横たわった上に覆い被さるとイルーゾォはばちんと目を開け、馬鹿!と叫んだ。 「こんなところで…!」 「こんなところで何だよ」 「あっ、朝…! 外…!」 「一晩も拗ねてたお前が悪いんだろうが」 許可しねえ…!と腕で弱々しく押し返そうとするイルーゾォの額にキスをし、車から出た。 「…は……、え…?」 「目、覚めただろ」 渋々起き出したイルーゾォは眼下に広がる景色を見た。 「あいつら全員死ねばいいのに」 崖っぷちの柵にもたれ、イルーゾォは呟く。 「あいつら全員死んで、どうする?」 「………」 ぼんやり考え込んだ後、何も、とイルーゾォは言った。 「何もすること、ねえな」 ホルマジオは街を指さす。 「お前の部屋、あの辺だろ」 「そうか?」 「オレんち、あの辺」 「わかんねえ」 「覚えろよ。たまにはオレんち来い」 どうして、という目で見られる。ホルマジオは歯を見せて笑う。 「あのなあ、オレたち、この後でヤるぜ」 「馬ッ鹿…」 「オレの部屋、まあ来りゃ分かるが、朝っぱらから喘いでも誰も気にしねえからな。好きなだけ鳴かせてやる」 イルーゾォは雑言を吐こうとするのをぐっと堪えている。疑っているのだ。どうすれば自分の身を守れるかを考えている。 避難などさせない。ホルマジオは一歩一歩、歩いてイルーゾォに近づいた。イルーゾォはじりじりとすり足で下がり、崖の縁まで追い詰められる。両腕が後ろ手に柵を掴み、反った背が危なっかしく空中に飛び出る。だがホルマジオはわざと腕で支えようとせず、反った胸を舐めるように顔を近づけた。 「イルーゾォ」 「な、なん、だ、よ…」 「オレのベッドに入れてやるからな。お前、思ったことを言えよ」 「な、に、を…」 ホルマジオは黒髪の、結った一房を手の中に撫でキスをした。 「お前の思ったことをだよ」 イルーゾォの腕が震え、上体ががくりと揺れる。ホルマジオはすっかり力をなくしてイルーゾォの身体を腕の中に抱き込み、耳元に囁いた。 「オレは好きだと言うからな」 崩れ落ちそうなイルーゾォの身体を支え、笑いをこぼす。 「お前の耳に愛を囁いちまうからな。ベッドの中でも言う。お前も言え」 イルーゾォの震える手がようやくホルマジオの背にしがみつき、身体の中の何もかもを吐き出してしまうような溜息が聞こえた。 街まで帰る間、イルーゾォは助手席で膝を抱え、小声で何かを練習していた。言えないらしい。言ったら聞こえている。 「ベッドの上で言やいいんだぜ?」 「死ぬ」 声を上げてホルマジオは笑った。楽しみで仕方がない。車を乗り捨て、ドアを蹴り開け、猫を追い出し、せっかくだから祝杯もベッドに持ち込もう。くだらない二人の門出をビールで祝う。何回だって言わせるつもりだ。イルーゾォが自分から繰り返して止まらなくなるほどに。 報告書が出ていないが無事に帰ってきたのかとリゾットから電話があったのは夕方で、携帯電話で答えながらイルーゾォは隣でけらけらと笑うホルマジオを叩き、顔を真っ赤にして怒った。ベッドの下はビールの空き瓶でいっぱいだった。 * 仕事の後は、会う。ホルマジオが仕事の時、イルーゾォはアジトで待っている。それから一緒に帰る。イルーゾォが仕事の時は、帰り道、いつの間にかホルマジオが隣にいる。だがそれよりも二人で組んで仕事をすることが多い。リゾットは最近そのように仕事を割り振っている。関係がバレたのかもしれないが、いざ仕事となった時に二人の組み合わせは悪いものではなかった。人を殺す、という仕事だけれども。 最近ではめっきりホルマジオの部屋に居着いたイルーゾォが一週間ほど自分の部屋に帰っていて、こちらから迷路のような路地を抜けあの部屋に向かった。 イルーゾォはキッチンの狭いテーブルで、自分で作った料理を食べていた。見るからに不味そうなそれは何だと尋ねるとパスタだと言う。まだ鍋一杯に余っている。 「食う?」 「いいや…遠慮するわ」 「遠慮するなよ」 「する」 不味い料理を鍋一杯い作った自覚はしっかりあるようで、イルーゾォは眉間の皺を深くしながら皿の上の物体を口に運んでいる。品なくすすり上げたパスタのソースが跳ねてホルマジオの頬にも飛んだ。 「あ、悪い…」 ホルマジオは頬についたソースを指で拭う。赤い。多分棚によく見かけたトマトのソースだろう。舐めるとしょっぱいがそれなりにトマトの味もして、だがしかしフォローするほどの味には至っておらず、結局半笑いを浮かべた。 「いい。もう捨てる」 イルーゾォが皿ごとゴミ箱に捨てようとするのを引き留め、唇の端に残ったソースを舐め取った。 パスタのいっぱい残った皿も鍋も棚上げに、思う存分抱き合った。最近、イルーゾォは抱かれている最中にも少し笑うようになった。痛みとそれに対する悲鳴を抑えなかった頃、尻から血を流しつつ二人で煙草を吸った頃、イルーゾォは傷つきながら馬鹿にしたような笑みしか浮かべなかった。ホルマジオは小休止の最中にくだらない小話を口にし、イルーゾォが笑いを我慢できなくなる様子を眺めた。 セックスは、勿論したい。欲情をホルマジオは隠さない。だが、何かが変わり始めた。今は、したいと思ってこの部屋を訪れるのではない。訪れて、イルーゾォの顔を見て、それからどうしてもしたいと思う。 隣に横たわったイルーゾォが眠り込み、静かになってしまった部屋をホルマジオは漫然と眺めた。窓は斜陽に赤く染まり、キッチンからは塩気の強すぎるトマトソースの匂いが漂ってくる。壁には窓とベッドを映す鏡。 赤いエナメル質の光。ホルマジオはわずかに身を乗り出した。鏡の下にハイヒールが片方だけ落ちている。いつか自分が蹴ったものだと思う。もう片方はイルーゾォが投げた。床の上を見渡す。片方しかない。 イルーゾォは今でも女を抱くのだろうか。 それを考えた瞬間、こいつが女を抱いたら殺そうと思った。女をだ。イルーゾォは壜に閉じ込めて拷問する。 肩を揺すぶって起こすとイルーゾォは不機嫌そうにぐずったが、その目にホルマジオの姿を捉えて、ん、と小さな声を漏らした。 「なに」 ホルマジオはとろんとしたイルーゾォの目をしばらく見ていたが、枕元に手を這わせ煙草を取り上げると黙って吸った。 「何だよ、人のこと起こしといて、なあ」 「うるせえ」 「お前が起こしたんだよ、ええ、アホマジオ」 手が伸びてきて煙草を取り上げようとする。何故かそれが煩わしく感じ枕元に押しつけた。シーツの焦げる匂い。横目にそれを見下ろして一瞬言葉を失った唇を無理矢理重ねた。 「ホルマジオ…?」 イルーゾォは弱々しく呟き、抵抗しない。 嫌がるのを無理矢理上に乗せ自分で動けと言った。 「…無理、だ……」 「んなことねえだろ、ほら…」 尻の割れ目をなぞると途切れ途切れの声が漏れる。恐れているように聞こえる。怯えている。何度もホルマジオの名前が呼ばれた。 「いつも…いつもみたいに……」 「いつも?」 乱暴にされたいのか、と突き上げると泣き声さえ聞こえた。 リクエストどおり突き落とすようにベッドに倒すと、イルーゾォはがむしゃらに両腕を伸ばしホルマジオを抱き締めた。爪が背中を掻き、傷つける。 「痛ッ、やめろ、馬鹿」 「いい…」 髪を鷲掴みにされベッドに押しつけられながらイルーゾォは、いい、と繰り返した。 「いい…」 「おい、馬鹿」 「いい、このまま殺せ…」 ホルマジオは心臓が引き攣った気がした。 イルーゾォ、臆病者め。 「オレに殺されたいかよ」 涙に濡れた顔をイルーゾォは押しつける。 「そんなに、オレが好きか?」 臆病者の残虐趣味者め。欲しいものを手に入れて死ぬのが恐ろしくなったか。世にもむごたらしい死に怖じ気がさしたか。幸せの絶頂で死にたいと望むようになったのか。 「しょうがねえなあ…」 ホルマジオは鷲掴みにしていた髪に指を通し、ゆっくりと撫でた。 「本当に馬鹿だ」 オレも、お前も。 チームの全員が招集をかけられた。アジトにはいつも誰かがいるものだが、ここまで全員が顔を合わせるのは久しぶりだった。めいめいソファや椅子に腰掛け、黙りこくっていた。いつも喧嘩だか会話だか区別のつかないほどうるさいギアッチョとメローネさえ口を噤んでいた。腰掛けず立っているのはリゾットとプロシュートで、プロシュートはソファに腰掛けて固くなっているペッシの背後に佇み、流し目にリゾットに視線を送っていた。 アジトは狭いがそれでも欠けた席がある。ソルベとジェラート。今も時折夢に見る死に様が自分たちに沈黙を強いてきた。リゾットの一言はそれを破るものだった。 ボスには娘がいる。 解散の後、ギアッチョとメローネは早速飛び出していったが物色するものはそれぞれ車に女にと方向が違う。それなのにしばらく一緒に歩いているのがアジトの窓から見下ろせた。プロシュートとリゾットは低い声で話し合っていて、ペッシがそれを心配そうに見つめている。 「じゃあ」 ホルマジオが声をかけると、三人が顔を上げてこちらを見た。 「イルーゾォ」 片隅で椅子に腰掛けたまま軽く俯いていたイルーゾォは夢から醒めたようにこちらを見た。少し笑っている。それは仕事前に見る表情だった。嗜虐心。イルーゾォのスタンド能力はマン・イン・ザ・ミラー。鏡の中という死の世界にターゲットを引きずり込む。そこではイルーゾォだけが安全で、何人たりともその世界を壊すことはできない。娘を拉致するとなれば、初手、もしくは早い段階で動くべきはイルーゾォなのである。仕事前の高揚が煙のように漂っている。 アジトとなったビルの暗い階段を下りる最中も、それは背後から生ぬるく漂った。 「飯、食って帰るか」 「ああ…」 返事もどこかしら上の空だ。 表は午後になったばかりだった。車を使って二人で出掛けるのは久しぶりだった。路肩でとびきりピカピカに光っていたマゼラティの運転席に我が物顔で乗り込むと、イルーゾォも当たり前のように助手席に乗った。 しかしマゼラティはレストランには向かわなかった。海岸沿いの道をただただ北上し、走り続けた。 イルーゾォは車内を引っ掻き回し、ブランデーやフィルムの入ったニコンを探し出した。自分で一口つけ差し出すが、断る。 「まだ死にたくねぇだろ」 「当たり前だ!」 珍しくイルーゾォが声高く笑う。 風が冷たくなった。時の流れの中で打ち棄てられた小さな町の港で、よく目立つピカピカのマゼラティは停まった。 潮風の中浮かれていたイルーゾォの足が止まる。彼は思いきり胸を反らし顔を上げて波止場の先の景色を見ていた。深いブルーの海。果てなく広がる空と、彷徨い人のような雲の切れ端。 訳もない笑い声をこぼして、イルーゾォは柵を背にもたれかかった。長く息を吐く音が聞こえる。気配が静まる。 結った髪が冷たい海風に揺れる。背のラインを露わにするシャツはクローゼットから無造作に選んだものだった。襟は大きく開いていたが、昨夜ホルマジオが噛んだ痕は辛うじて隠れていた。 車から持ち出したニコンを構える。レンズを回し焦点を合わせる。青の中にイルーゾォの姿が浮かび上がる。 シャッターを切る音にイルーゾォが振り返った。カメラを構えたホルマジオを見ても何も言わなかった。ただ振り向きざまの顔は今まで浮かんでいたはずの笑みを消しており、黒い瞳は不安定な場所から錨を投げるようにホルマジオを見た。 「イル、別れよう」 その言葉を口に出すのに躊躇も、震えもなかった。 そしてその言葉を聞いたイルーゾォも動揺しなかった。黒い瞳はじっとこちらを見つめていた。 覚悟してくれ、とリゾットは言った。生き残る為に戦う。そのためには死をも恐れない覚悟が必要だ。矛盾は覚悟の中で両立し、アジトにいた誰もがその言葉に頷いた。 ホルマジオもだ。 イルーゾォもだ。 冷たく湿った風がイルーゾォの髪を嬲り、分かった、と小さな声が答えた。 「今はその方がいい」 「分かってる」 イルーゾォの笑みはかすかに歪んでいた。その目がカメラを見た。そうだ。これではまるで。 ホルマジオはイルーゾォの隣に並ぶと海に向かってニコンを投げ捨てた。 「あーあ、勿体ねえ」 「どうせオレのじゃねえしよ」 腕を掴んで引き寄せると、別れたばっかりだ、と言いながらもイルーゾォは瞼を伏せた。 キスをしながら頬に触れる睫毛が震えているのを感じた。潮風が冷たいせいだ。縋りつくイルーゾォの手も冷たかった。早くその手を離せ、とホルマジオは祈る。オレが離せなくなる。 唇が離れ、イルーゾォは失敗した笑顔のような表情で言った。 「お前もそんな顔するんだな」 どんな顔を…、とは問わなかった。男にも泣きたい時はある。イルーゾォこそ、その一番の理解者のはずだ。 「別れよう」 目の前で囁く。 イルーゾォが瞼を軽く伏せ、口元にようやく薄い笑みを刷いて囁いた。 「別れよう」 部屋に戻ると、しばらく構わなかった猫が足下に擦り寄った。ホルマジオはそれを抱いてソファに腰掛け、ぼんやりと天井を見上げた。 あまりに強く抱き締めすぎたのか、猫は唸り声を上げ爪で掻く。 「しょうがねえなぁ…」 暗い部屋に呟きが落ちた。静かだった。一人だった。 溜息を呑み込む。無性に煙草が吸いたい。ポケットの中を探るとくしゃくしゃの紙巻きが一本出てきた。唇に挟んで分かった。イルーゾォの煙草だ。 火を点しホルマジオは、身体の中を埋め尽くすように深く煙を吸った。
しゃさんのイラストから。
|