ストレイトライン







 ジャイロに抱かれてもいいと考えたのはいつが最初だったろう。
 ジャイロとキスをしたのはいつが最後だったろう。
 こんな時にぼくはこんなことを考えている。
 ブルックリン橋の真ん中で明けた空を呆然と見上げる。祝福するかのような太陽がニューヨークの空を、雲を眩しく輝かせ、それに乗せるように遠い歓声が高く高く響く。ディエゴ・ブランドーの背中。レースの終わり。ぼくは負けたのだ。そして今死に向かっている。
 これは…死だろうか。無限の回転。次元を超えて貫く力。無数の回転がぼくの肉体の内部で渦を巻いている。身体がばらばらに砕かれてゆく。いや砕かれるのは肉体だけではない。ぼくを繋ぎ止めていたもの、ぼくを構築していたもの、ぼくそのものが砕け小さく割れて粉々の塵になる。きっと魂さえも残らない。近づく大西洋のそばでさようならを言ったジャイロにも、もう本当に二度と会えない。ぼくの行く先は天国ではない。地獄でさえない。
 最後の時間…だから、考えるのは彼のことだけだ。ぼくの友達。唯一の相棒。
 ジャイロ……ジャイロ・ツェペリ。
 ぼくらはサンディエゴのビーチで出会った。彼は最も多い死因と二番目の死因について語った。抱かれてもいいとか考えたのは、もしかして既にあの時から?そう考えるのはあまりにも尻が軽すぎるかな。あの頃は動いたり感覚さえなかったぼくの尻のことを皮肉る訳じゃないけど。
 じゃあ、いつから?
 でも最初からと答えたってそれは間違いじゃない気がするんだ。ぼくは最初から彼ならいいと感じていたのかもしれない。今となってはそれでもいい。きっと本当はきっかけがあった。スターティンググリッドで馬の乗り方を教わった時。ファーストステージをゴールして彼から協力関係を結ぼうと誘われた時。ミセス・ロビンスンに向かってゆく姿を見た時。セカンドステージの中継地点で車椅子のぼくの隣を同じ速度で歩く彼に気づいた時…。きっかけはいくつもあったんだ。ぼくらは時間を、経験を、朝を、昼を、夜を重ねてきた。寝顔をまじまじと見つめたこともあっただろう。お互いに、互いは気づいていないと思いながら。ぼくが初めて彼の寝顔をまじまじと見つめたのは、アリゾナ砂漠の岩陰だった。白昼の太陽の影で、ぼくはぼくより早く眠りについた彼の顔を見つめた。何を考えたかまでは覚えていないけれど。
 最後にキスをしたのはいつだったかな。絶対に思い出せるはずなのに、記憶はぼんやりしている。口の中に蘇るのはコーヒーの味で、それがひどく懐かしい。
 鋼鉄の橋にもたれかかっているのさえつらかったのに、そのつらささえ感じなくなってきた。舌をべっとり汚していた血の味さえしない。コーヒー、あのコーヒーの味だ。
 吐いた息は一瞬白い塊になって、すぐ霞んで消えた。もうすぐ君のことも思い出せなくなる。考えられなくなる。この身体に染みついてきっと一生消えないと思った思い出さえ。
 ジャイロと初めて寝た夜、ミルウォーキー。
 忘れられない一日はたくさんあるけど、あれはダントツ。
 日没までは雲の切れ間が見えたのに、日が沈んだ途端吹雪き始めた。横殴りの雪にミルウォーキーは真っ白だった。街外れのホテルに辿り着いた時には、もうお互い一言も喋らなかった。しかしジャイロは馬から下りようとするぼくを黙って背負い、建物の中に入った。
 ぼくはジャイロの肩にぐったりと顔を押しつけ、もう上げなかった。耳から、そして触れる背中から聞こえるジャイロの声は半分くぐもって、耳の中で膨張して、よく聞こえないけど空いている部屋は三階にしかないことやベッドも一つしかないことが何となく分かった。
 ジャイロはぼくをおぶったまま階段を昇り、何も言わなかった。ぼくは横目に見た。古いホテルだった。安いホテルでもあった。汚くて、ボロだった。すきま風の音はもう耳に届いていた。剥がれかけた壁紙。踊り場の窓は真っ黒だ。隣の壁しか見えない。
 切れかけた電球。明滅する。ぼくはまた瞼を閉じた。ドアの開く音。身体が傾く。一つしかないベッドに下ろされる。
「ジョニィ」
 ようやく彼が呼んだ。ぼくは目を開けた。意志があることを示し、促されるままに服を脱いだ。まず傷を治療するためだった。
 糸で縫う、彼の手を見つめる。綺麗なものだ。木の実にされかけたと思ったら、帰ってきた時にもさっきまでの怪我まで消えて五体満足なんだもんな。でもそれがサーヴィスにも感じられないくらいぼくはやさぐれていた。心が毛羽立っていた。でも彼の手が触れてぼくの傷を縫う。感覚のない脚にさえ触れる。するとワインの乾杯と、真っ直ぐぼくを見つめた彼の視線が蘇り、ちょっとだけおとなしい気分になる。ちょっとだけ、だったけどね。
 でもちょっとだけでも十分らしくて、ジャイロは手際よくぼくの傷を縫い終え、それからベッドに腰掛けてぼくを見つめた。…って言うより見守るに近い視線で、ぼくがちょっとおとなしくなっちゃったから、そういう視線を投げやすかったんだろうけど、それにしたって彼がそんな目をするのは珍しいし、急にどうしたんだろうと思う。ジャイロが何だかんだでやさしい奴…ちょっと言い方が違う気がしなくもないけど、まあやさしい奴だってのはぼくもとうに知ってるが、何と言うか…憑き物が落ちたっていうか、さっぱりした顔で、彼の生来のやさしさの、まるで芯みたいなのを覗かせている気がして、ぼくは畏れにも似た、こんなジャイロの目は見ちゃいけないんじゃないかなって後ろめたさに襲われ、目を伏せたままだ。
 その時だった、ぼくの脚には感覚がないのは散々言ったとおりだった。貫かれても血を抜かれても痛みさえ感じたことがない。デリンジャーで撃たれた傷は今も疼くが、その下はどんどん感覚が鈍麻していって、ファントムペインさえ感じたことがない。たとえそれが幻の痛みであろうとも無感覚よりマシだと、ぼくはそれを強く望んだのに。
 その感じない脚に、気配が、息がかかったのだ。だからそれは幻なのかもしれないし、視覚が与えた錯覚なのかもしれない。ジャイロが身体を傾け、ぼくの膝に囁いていた。
「モヴェーレ」
 タスクがそうしたように、ひそやかな囁きで、ぼくが思わずビクッとしてしまうほど優しい声で。
「モヴェーレ・クルース、ジョニィ」
「い…言われなくたって…」
 ぼくは遺体を取り戻すさ、新しい遺体も手に入れる…、そう答えたもののぼくの声は上擦って掠れていて、決意の科白なのにちっとも決まっていない。赤面するぼくの目の前で、ジャイロは膝の上に唇を落とした。
 意味分かんないよね。
 でもその時にはもうよかったんだ。ぼくはジャイロに抱かれてよかった。もう間違いなかった。躊躇とか後悔とかいうレベルじゃなかった。砂漠の真ん中で全てが敵にまわりジャイロだけを信じたように、ぼくはまた深く深くジャイロを信じた。
 キスをしながらどんどん身体が押されて傾く。傷を縫ったばかりだけど…ゾンビ馬の糸だし、ぼくらシャワーを浴びていないどころの話じゃないんだけど…いつもなら気にしないけど…まあいいや。ぼくら男同士だけど……それも、まあ、いいや。いいんだ、ぼくは。だってジャイロだから。
 柔らかな手が促し、せっかく着ようとしていた服をまた脱がせる。荒い息づかいの中薄く目を開くと、ジャイロがはーはー息をつきながら自分の服を脱いだところだった。
「…エロい」
「は?何だって?」
 オレがやらしいって?とジャイロは聞き返し、それ以外の何なのさ、とぼくは答える。手が導かれる。冷え切ったベルトのバックルに指先が触れる。こないだ、欲しくてたまらなかったやつ。ぼくはそれを外す。
 人生何が起こるか分からないとか、神は天にいましとか色々言うけれども、これってよかったことなのか悪かったことなのか、ぼくには下半身の感覚がないお蔭でセックスはつるっと上手くいって、痛くないのはいいんだけど――多分痛かったら何がなんでも止めさせていた、多分爪弾撃ち尽くしてた――、それって逆にぼくは感じないってことだからそれは悔しくて、痛くてもいいからジャイロのこと感じたかったと思うと、ぼくは泣く。
 大丈夫か、苦しいのかとジャイロが尋ねる。見下ろす彼のやさしい…きっと生まれ育つ中で大切にされてきたのだろう心の清らかな部分をさらけ出すような瞳を睨み返し、ぼくは涙で汚れた顔を更にぐしゃぐしゃに歪める。やさしくするなよ。やさしくしろよ。甘やかせよ。ぼくには何もない。君とセックスをしていて痛みさえない。
 ジャイロの柔らかな手がぼくの身体を這った。感覚のある上半身も、冷たく横たわる下半身もだらしなく伸びた脚も。尻を掴まれた時思わず「ジャイロ」と呼んだのは別に止めてほしかった訳じゃなくて、何だろう。
「ジャイロ…」
 もう一度呼ぶと、そのまま吐息を飲み込まれた。
 その内彼の息づかいの荒さや律動がぼくのもののように錯覚されて、ぼくはいつの間にか喉の奥で喘いでいる。ジャイロがぼくの中で射精すると、多分怒ってもよさそうなそのことにまた感激して泣く。ぼくは感激しているのだ。何かもうたまらなく嬉しくて、悔しい。次から次へと涙が溢れて止まらないぼくを抱きしめ、ジャイロが笑う。耳元で「ニョホ」と聞こえて、ぼくは腕の中の男の背中をばりばり引っ掻き容赦なくぼかぼか叩く。ジャイロは笑うのをやめなかった。
 あの後、本当にぐっすり眠った。気がつくと瞼の上が明るくて、自然と目が覚める日曜日の朝みたいな気分だった。思えば二人で朝日に包まれることなどないのだ。夜明けより前に起き出すのがこの旅の常なんだから。朝日が昇ってもシーツの上にいるなんて、そもそもこんな穏やかな気持ちでいるなんて。あったことがない。あり得ない。あるはずがない。だからこれは夢なのだろうと思った。
 男の背中に腕をまわせば、掌の下で息づく肉体の、その生きる証一つ一つ些細なものに至るまで感じ取ることができる。力強い筋肉の下で休まず鼓動を打つ心臓。耳を押し当てれば滝のような血液の流れ。すきま風に反応する皮膚のわずかな震えや、鳥肌が立つのも、何もかも。そしてその一つ一つが朝の穏やかな眠りを貪っている。穏やかさを全身で享受し、安堵している。ぼくはそんな君の姿を見たことがない。
 ――だから、夢なんだろう?
 瞼を開けると睫毛がジャイロの裸の胸をくすぐった。僕は薄目を開き、光の正体を見る。街灯だ。ミルウォーキーの街の明かりだ。夜になっても眠らない明かりが汚れた窓から射し込み、シーツの上のぼくらを照らしている。太陽の光には程遠い。やはり夢だったのだ。
 でもジャイロの腕はぼくを抱きしめていて、ぼくの腕も彼の背中にまわされ、互いに分かちがたく抱き合っているのが…不思議だ。泣いた心もぐちゃぐちゃに汚れた身体も清められて、お互いの魂一つ入れた肉体同志がお互いのぬくもりを抱いている。
 過去、素敵な女の子はいた。一晩限りの娘もいたけど、続いた娘だっていたし。
 でも。でも、こんな。
 ぼくはもうそれ以上言葉にして考えるのも億劫になり、ジャイロの胸に額を押しつける。手を伸ばすと裸の尻に触った。ああ、まだお互い裸なんだ。
 身体の奥があたたかくなった。ぼくはジャイロに囁いた。
「したい」
 ん、と眠そうな声でジャイロが答えた。
 返事を言葉にする代わりにジャイロの手はぼくの髪をいじる。ぼくは彼の喉元へ、脈打つ首筋へ囁く。
「とめどなく、君としていたい」
「オレのスタミナを買ってくれるのは有り難いが…」
「当たり前だよ」
 強く尻を掴んで、ぼくは見上げるように笑った。
「ねえ、ジャイロ」
 ぼくの腰を支えるように抱いていたジャイロの手が上がる。首の後ろに触れ、ぼくの顔を引き寄せる。
「したいな」
 ジャイロがやさしく言った。
「オレもしたいぜ、おまえと、ジョニィ」
 とめどなく、とこめかみに囁かれる。うん、とぼくは声だけでうなずき、彼の顎にキスをする。
「遺体を手に入れて、ぼくの脚が動くようになったら、今度はぼくが…」
「おいおいマジか」
「マジ以外の何だって?」
「こえーな」
 こえーな、とジャイロは繰り返し、待ち遠しいな、という言葉を一度だけ挟んだ。またぼくは泣きそうになる。
 窓が鳴る。雪が激しく吹き荒れ、街灯の明かりに斑の影になる。
 明滅。
 街灯が消える。
 暗闇の中でぼくはジャイロに触る。
「ジャイロ」
 あの時闇の中で聞いた彼の返事が今でも耳に蘇るようだ。耳の底に染みついた声。もう一度聞きたい。本当に好きだった、君がぼくを呼ぶ声。
 冷たい潮風がするりと耳の奥に這入り込んで、でももうぼくの身体は震えもしない。回転の渦に巻かれ、砕け、ほどけてゆく。
 ぼくは最後の力を振り絞り、両手で耳を覆う。潮風を遮り存在する最後の肉体に耳をすます。体温や、肌に染みこむような身体の匂い。ジャイロの声。最後にキスをしたのはいつだっけ。多分、何でもない時だった。だからぼくは明確にそれを思い出せない。他の記憶と重なって、写真の二重露光みたいだ。
「ねえ」
 風の中に囁きかける。
 もうすぐぼくの存在は消える。肉体も魂も。もう祈るものもない。全ては終わった。
 でもきみに、ちゃんとさようならだけは言えた。それだけは…それだけは悔いはない。
 ジャイロ、と名前を囁くことさえ、もうできないけれど。せっかく教えてもらった君の本名、一度もこの口で呼ばないままだけど。でもそれは君と約束したから、いいんだ。
 目の前を蹄の音が通り過ぎる。でもスロー・ダンサーはぼくの傍らに佇んだまま動かない。ぼくが騎乗するのをまだ待っているんだろうか。ごめんな、スロー・ダンサー。お前をマンハッタン島に連れて行けなくて。お前に乗ってゴールできなくて。
 その時、ぼくを呼ぶ声が聞こえる。耳慣れた声じゃないけど聞き覚えのある声だ。霞む視界にぼくめがけて走ってくる栗毛の馬。乗っているのは…あれ、スティーブン・スティールじゃないか?手を伸ばしている。何か言っている。「掴まれ」何に。あんたの手?「一瞬でも」「走る馬」「チャンス」何があるって…?
「君にはチャンスがあるのではないかね?」
 ぼくに。
 チャンスが?
 ぼくは無意識の内に手を伸ばす。スティール氏はがっしりとぼくの手を掴む。馬のスピードは緩まない。走っている。走っている。ブルックリン橋を。空が流れる。冷たい風が頬を打つ。それが分かる。
 無限の逆回転…。
 回転する爪がぼくの肉体深くに食い込む。もう粉々に砕けそうだったぼくの身体の中から雑音が消えてゆく。心臓の鼓動が、血液が身体中を流れる音が蘇る。
 唯一のチャンス。ぼくは生き延びた。
 スティール氏の背後によじ上り、ようやく現世に引き留められたのにまた手放してしまいそうになる意識を保つ。マンハッタン島に入り、実況のアナウンスが鼓膜をびんびんと震わせる。ぼくの名前を連呼している。同じ数だけ失格と繰り返している。
 ジョニィ・ジョースター、負傷により脱落。
 ぼくを振り返ったスティール氏がぼくに後ろを見るように促した。もう後ろに見るべきものなんてない…そう思っていたのに。そこにはスロー・ダンサーの姿がある。
 スロー・ダンサーはぼくを追いかけて走っていた。空っぽの鞍。もう自由なのに。辛い旅はもう終わったのに。刺客に狙われたり危ない橋を――断崖に渡されたワイヤーのような、文字通り危ない橋を――渡る必要なんてないのに。
 懐かしい蹄の音。夢の中でも聞いていた。その名の通り、おまえは自由に走れる馬なんだ、スロー・ダンサー。なのにどうしてそんなに寂しそうなんだよ。
 ぼくはスティール氏の馬に乗ったままゴールをくぐり、救護班の待つテントへ担ぎ込まれる。そこへもスロー・ダンサーはついてきた。スタッフが別の場所に連れて行こうとしたが、ぼくが手綱を掴み、スティール氏が好きにさせろという指示をだした。
 冷たい路上に腰を下ろし――道路が冷たいのが分かる、尻に感覚が蘇っている――ぼくは項垂れる。すると生温かい息が頬にかかり、スロー・ダンサーがぼくの顔を舐める。ぼくは手を伸ばしスローダンサーの頭を抱く。
「ぼくの馬……」
 また涙が溢れてきた。今、ここがレースの終わりだった。
 すまないスロー・ダンサー。ぼくらは負けた。あのDioに敗北した。勝負でも、このスティール・ボール・ラン・レースでも。
 スロー・ダンサーの息はまるでぼくの名前を呼ぶように湿ったぼくの頬を撫でる。
 ああ、ジョニィ。あなたは。そしてわたしは。わたしたちは負けてしまったのね。
 あなたを乗せて最後の河を渡りきりたかった。
 あなたをこのマンハッタン島まで運んであげたかった。
「ありがとう…」
 ぼくが呟くとスロー・ダンサーは返事をするようにいなないた。
 その声は哀しげで、寂しげで、でも涙のように優しかった。

 その後、ぼくはヴァルキリーと、棺桶に収められたジャイロの遺体に再会した。
 ゴールの直後治療の最中に気を失い、目が覚めたのはゴール地点であるトリニティ教会。夕方近かった。
 聖堂の床に据えられた棺桶。
 もう何も語ることのない唇も、永遠に閉じられた瞼も、布に包まれ木の箱の中に眠る。ぼくはその上に両手を置いた。身体はゆっくりゆっくり、自然と傾いた。棺桶に頬を押しつけ、ぼくは遠い空を見る。教会の窓から見える空は高く、青い。どこまで広がっているのだろうか。太平洋を背に見上げたサンディエゴの青空から大陸を越えて広がり、更にどこまで。
 大西洋を渡る船が出航の笛を鳴らす。窓ガラスが細かく震え、教会の高い天井にやさしく木霊する。
「帰ろう」
 思わずそう呟いていた。そして分かった。
「帰ろう、ジャイロ」
 囁きかけるとその意志がしっかりと固まり、形を成す。 
 そうだ、帰ろう。
 ぼくらは家に帰るのだ。

 ルーシーがスロー・ダンサーの面倒は見ると約束してくれた。ぼくはぼくの馬に感謝の抱擁をし、別れた。
「お待たせ、ジャイロ」
 今度はぼくが君を背負う番だ。
 重たい骸。棺桶を括る綱が肩に食い込む。ぼくは杖をつき、一歩一歩、歩き出す。
 潮風が心地良く頬を撫でる。もう少しデッキに出ていよう。ほら、見えるかい、自由の女神が遠ざかってゆく。
 バイバイ、ルーシー。
 バイバイ、スロー・ダンサー。
 バイバイ、ニューヨーク。
 アイム・ホーム、今、帰るよ。
「な、ジャイロ」
 ニョホホ、と背後でタスクが笑った。




2013.2.7