ジャックイン、フリップ、四景




《眼と瞳》



 バスルームの換気扇の影を不規則に遮るものがあって、見上げると蛾が湯気の中で苦しそうに藻掻いているのだ。ソルベはシャワーを止め、蛾がどうするのかを見守った。換気扇は外の風を受けてゆっくりと回っていた。鉄の羽の向こうの暗闇に不意に吸い込まれるように蛾の姿は消えた。
 ガラス戸の向こうで声がした。ただいま、と。ジェラートだ。
「もう帰ってた? ソルベ」
 親しみのこもった無遠慮さで戸は開き、ジェラートが顔を覗かせる。ソルベは何故だか換気扇とジェラートを見比べた。
「なに?」
 疑問にはキスで答える。ジェラートもキスを返し、夕飯、すぐ作る、と顔を引っ込めた。ソルベは濡れた腕を伸ばし、引き留める。癖のある淡い色の髪に虫が止まっている。薄い羽を持った虫。よく街灯の周りにたかっているやつ。指先で摘んで取ると、細長い胴体から出た糸のように細い脚が動いて、生きているのだと思う。
「虫…」
 ジェラートが呟く。ソルベは手を伸ばして換気扇の側で指を離す。薄い羽は濡れた指にくっついてなかなか離れなかったが、弾くとそれも換気扇の羽の向こうに消えた。
「どうしたんだ?」
「何がだよ」
 ぶっきらぼうに答えると、ジェラートは口元に笑みを湛えて両手で濡れたソルベの頬を挟んだ。
「何が食べたい?」
「何でも」
「それが一番困るんだ」
 キスをしながら、ああ、と思う。何を最初に食べるかなど、決まっているのに。
 ジェラートの身体を浴室に引っ張り込んで作業着を脱がせるといつものジェラートの匂いと汗の匂いと買い物に寄ったのだろうスーパーの冷房の匂いがした。
 夕食は裸のまま摂った。そこでようやく蛾の話をした。
「催眠術だな」
 ジェラートが笑う。
「催眠術?」
「蛾の羽、目玉の模様があっただろ」
 ソルベはジェラートの目を見る。その円の中からは黒髪で目の吊り上がった男がこちらを見返し、催眠術だろうな、と言った。
「催眠術、だろうな」
 手を伸ばしキスをしようとすると、冷める前に食えよ、折角作ったんだから、と言いながらジェラートは逃れ。
「デザートは後」
 と指先にキスを落とした。




《放り投げられた断片》



 ふざけんな、オレは猫じゃねえ!という科白を聞きながら妙に納得しがたいものを感じつつ、少し笑えもした。腕の中を離れた重みは今やベッドの上で木登りを失敗した猫のように手足をバタバタさせているのだ。文句があるなら普通に起きればいいのに。だが起きようとしても許す気はない。相手の口癖を借りれば許可しないと言ったところか。
 半分ほどけた髪を掴んでキスというよりは噛みつき首筋に歯を立てると、抵抗を示す唸りを上げながらもくふんと漏れる息が全くその気ではないことを教えてもくれる。時々イルーゾォが踏もうとするこの手順は一つのシナリオのようなものだった。服を脱がせる過程でその気になる。感じている芝居ではない。心地良いのだと、これを望んでいるのだと、普段イルーゾォが表に出そうとしないものが露わになる。
 正直ここまで来れば面倒ということもないのだが、ここまで運ぶのが大変なのだ。手っ取り早くベッドに放り込めば猫扱いするなとさっきの科白だが、顎には爪で引っ掻かれた痕がある。畜生、ナイフでつけられる傷よりも爪で掻かれた傷は疼く。埋め合わせはしてもらわなければ。




《耽溺するクレゾール》



 湿った唇が足の甲を這う。クレゾールの匂いがする。見下ろせば自分の足首ばかり薄暗がりの中に浮いているようだった。そこに口づける男の姿さえ溶けこんでいる。さもあるか、雨の夕だ。
 ヴァイオリンの余韻は既に遠く、耳を澄ませば隣の寝室で眠る妻の寝息さえ聞こえた。常人ならば聞こえるはずもない息づかいは胸に埋まった心臓に直接響く。彼女は夕食をほとんど食べない。ワインが用意されるまで目覚めることはない。ファーストレディの決められた日常としてそれは崩れない。だから安心してこのような行為に耽ることができる。――否、目覚めていても彼女がこの部屋を覗くことは決してない。自分は強者であり彼女は自らその所有物となった。統べる者と属する者。スカーレットは己を知っている。そして自分を愛している。ある意味において彼女は部下の誰よりも自分に忠実だ。ファニー・ヴァレンタインはスカーレットがこの世で一番愛しているのは自分だと理解している。だからこそ彼女は自分の妻だ。
 妻の寝息を子守唄のように遠く聞き足に這う舌の感触を半ば忘我で楽しんだ。レインコートの男は淡々と、しかし余すところなくファニーの足を舐め尽くしていた。その行為に性急さはなかった。確かにある熱情を粘膜の内側に留めているのは彼の忠誠心だった。実にファニー・ヴァレンタインという男、部下に恵まれている。これも遺体の意志か。
 ブラックモアは確かに興奮していたがそれを大きく表現しようとはしなかった。顔は相変わらず青白く傍目には実に機械的に、もしかすればファニーが大統領という地位をかさにきて男をしもべのように使っている風にも見えたかもしれない。だがこれはブラックモアが自らすすんで為している行為なのだ。ファニーは椅子の背にゆったりともたれかかり仰向けた顔を下げようとしなかったが、ブラックモアがどんな顔をしているかは知っていた。見開かれた瞳は自分の足の甲に浮き出る静脈の形まで記憶していた。それが唾液でぬらぬらと濡れ雨を裂いて閃く雷光に反射するのを見て興奮の溜息が漏れるのを理性の綱一本で堪えている。
 足をわずかに掲げまだ些かなりとも柔らかな土踏まずに舌が這わせられると、ファニーは何という考えもなしに足の裏をブラックモアの顔に押しつけた。唾液でぬめった足の裏は鼻を撫でて滑りその感触にファニーは口の端だけで笑う。舌は指と指の間に入り込む。爪先を吸われ、心地良さにわずかに喉が反った。長い巻き毛は肩から滑り落ちて耳音でさらさらと音を立てる。
 瞼を伏せるとヴェルヴェットのような滑らかな闇に雨音とブラックモアの唇だけが感じられる。またクレゾールの香り。ファニーに触れる前、ブラックモアは必ず自分の唇を消毒するのだ。クレゾールで湿した脱脂綿で丁寧に唇を拭い、石鹸水でうがいをする。それでもこのような行為に耽る限り、自分は合衆国大統領を、この国を汚しているのではないかという疑念は拭い去れない。忠誠心、愛国心から出た行為ではなくこれは我欲だと、欲情の噴出なのだと。
 ファニーはズボンを指先で抓み、ほんのわずかだけ裾を持ち上げた。踝と足首が露わになる。ブラックモアの黒い瞳はしっかりとそれを捉える。感嘆の呻きを彼は堪える。裾はふくらはぎをちょっと見せたところで止まった。ファニーはブラックモアの呼吸を聞いた。落ち着けようとゆっくり繰り返されるそれを数えた。足首とふくらはぎに触れた手は内側に南方の雨のようなどろりとした熱情とそれに耐えようとする震えを孕んでいた。布越しに唇が押し当てられる。ファニーは爪先を動かし、ブラックモアの喉を撫でる。手はふくらはぎから膝へ、内股へと滑った。
「大統領……」
 すいませェん、と彼の口癖を挟む。
「わたくし…」
 窓を開ければ吹き込む雨に自分の身体を散らばらせ丸呑みにでもするだろう。国を、大統領であるこの自分を愛する心は人一倍強いと自負のある男だ。同時に、本人は無意識の内に隠そうとしているようだが独占欲も強い。
 クレゾールの匂いのする唇が頬を食んだ。ファニーは薄目を開けてそれを見た。すぐ側で目が合い、ファニーは鷹揚な笑みを残して瞼を閉じた。ブラックモアの湿った荒い息が顔にかかった。雨と、クレゾールの匂いだ。
 妻が目を覚ますまでまだ時間がある。近づく呼吸は雨音を掻き消しファニーを覆った。




《連続交叉線を追って》



 箱の中で半永久的にその形を保ち続ける花は幸福かどうかなど考えないけれど植物は痛みも感じるし悲鳴も上げる。電気信号を精神と呼び心の形を探るなら、形をとどめた花の心はどの時点で凍りついて永遠に思考を止めた意識はそれを死と呼ぶのか。
 中三の誕生日に女子からもらった花は今もプラスチックの箱の中で色褪せず形を変えることもない。ミイラのように肉体の時間を止めたのではなく、心の時間を止めたのだ。と考えるのはセンチメンタルだろうか。名探偵だからって四六時中常に科学的思考をする訳じゃなくて、結構感覚的で感情的な物の見方だってするんだぜと笑って見せるけど周囲は「どの口が!」と笑いながら返す。推理する機械はイッツ・オートマチック。
 いや本当だって、今がそうだって。僕はプラスチックの箱を持ち上げたり下ろしたりして、結局カレンダーの前に佇みそれを捲らざるを得ない。僕が感傷に陥るのであれ、何を考えるのであれ、十分前にポーン!と時報が鳴った瞬間にここ日本は福井の西暁でも日付が変わった訳で、カレンダーを捲ろうが捲るまいが僕の誕生日が来たことには違いない。
 携帯電話が震え出す。石ころじゃない方だ。電話は流石にないけどメールが何通も立て続けに届く。PCにも続々受信してるはずだ。いやあ、名探偵って顔は広いけど、ここまで祝ってもらえるのは人徳?みたいな?まいるなー。
 でも、さ。と僕はちぎり取った昨日のカレンダーを見つめる。
 考え続けているから生きている。この肉体だけでは生きていない。たとえ僕が考えるのをやめてベッドで管に繋がれた生になっても、肉体は一秒一秒、一日一日、一年一年歳を取り続け誕生日を迎えるたびに老いていく。が、それだとしても誕生日に必要なのは心なのだ。連続した意識なのだ。一年に一度、そこに区切りの鋲を打ちつけ、振り返る。そしてようやく歳を取る。
 カーズは数日前にふらっといなくなった。いつものことだ。僕が名探偵で事件の解決にあちこち飛び回るとしても、彼の速度で世界中を回ることはできない。またどこかを見物に行っているんだろう。昔の地球とは全く違う形をしているし、海をちょっと潜るだけでもそこは異世界だ。…別に祝ってもらいたかったとかじゃない。ただ、まあ、ちょっとは期待した。
 電話が鳴る。プルポンピンパラと石ころ電話の方。一瞬胸がキュンとして、すぐに自分をアホと叱る。ブチャラティだった。七割仕事の話で、三割は無駄話をした。俺誕生日なんだよと言うと、ボンコンプレアンノと彼の国の言葉で祝われる。その声は誠実で、僕はブチャラティがマフィアなのは分かってるしうわーマフィアだなあと思うことも何度もあったけど時々、どうしてこの男はマフィアなんだろう、と思う。
「そっちは夜か? まあいい。良い一日を」
 電話は切れて、僕は時計を見上げながら今し方受けた依頼の資料を机の上に積み上げつつ、もう寝ようと決めた。明日っていうか今日、夕食は僕の誕生日パーティーになるから仕事はちゃっちゃと片付ける。でペネロペの作ったケーキを食う。完璧。
 そしたら再び電話が鳴って、あ、誕生日って知ったナランチャかなとか考えるけどそれは石ころ電話じゃない。僕の携帯電話だ。
 画面には知らない番号が羅列されている。でも僕は頭に並んだ国番号を知っている。スイス?
「もしもし」
 相手が誰なのか直感で分かっているはずなのに月並みな第一声しか出なかった。 
 電話の向こうの相手は、ジョジョ、と僕を呼んだ。
「明日の朝一番に郵便が届くはずだ。貴様の国は何をするにも時間にうるさいからな。間違いあるまい」
「郵便? 例の赤石とか?」
「それは冗談か? 本気で言っているのならば今すぐ頭を柱にぶつけろ」
 切符だ、と。
「すぐに来い。このサンモリッツまで」
 カーズは言った。
「まさかカーズが僕に仕事の依頼?」
「貴様は今日が何の日かを忘れたのか?」
 誕生日なんか教えたっけと思ったけど、カーズは僕のディスクを頭に入れたことがある。僕の過去はまるっとカーズの中に入っているのだ。
 二つの身体に同じ意識の連続。
「ああ。行くよ」
 僕は答える。感情が声を追い越しそうになり、上擦る。
「すぐに行く」
「あまり俺を待たせるな?」
 僕らには一生分の時間があるのに、やっぱり何でだろう、本当に時間が足りない!
 今すぐにでもバイクに乗って飛び出したくなったけど我慢だ。カーズの手紙を受け取ってから。カーズの用意してくれた切符を掴んでから、ゴー。
 僕は興奮のままさっきブチャラティに頼まれた仕事を一時間で片付けて長文メールを送りつけベッドに飛び込む。あまりにも目が冴えているので「遠足前日の子供か!」と自分でツッコミを入れた。や、似たようなもんだけどね。
 ペネロペのケーキは来年までおあずけだ。それはそれで楽しみにしてます。



ホルイルはしゃさんへ、モアファニはサカモトさんへ、城カー城は南方さんへ