ナイフ・イン・ザ・バスルーム




《夢路半ばにて》



 オルゴールを聴いたのだ。兄のものだ。誰かからのプレゼントだったのだろうか。ニコラスは一人でそれを聴いていた。ぼくに聴かせてくれたことはなかった。だからぼくは分厚い扉の隙間からニコラスの姿を覗き見て、その繊細な旋律に耳をすました。夢路よりかえり子よ。夢路よりかえり子よ…。メロディがリフレインする。ぼくの身体はイギリスの屋敷の暗い廊下に沈み込んでしまう。真っ暗な廊下の絨毯を突き抜けて罪の中に落ちる。ぼくに歌をうたう資格はない。ニコラスのハミングを追いかけることは許されない。
 と思っていた。
 ぼろぼろの手帳はいつもどこかに無造作に置かれていた。ぼくがそれをいつでも手に取れるように。小さな灯りをつけ、ページを捲る。赤ん坊も理那も、皆寝静まってしまった屋根の下、ページを捲る音は景色を一枚ずつ剥がして過去へと至らしめるようにぼくの耳に聞こえた。
 ジャイロと一緒に歌ったのは?彼の変な歌を聴いたのはこれが最初だ。ミシシッピー川の手前、トウモロコシの葉が乾いた音を立てて揺れた小屋の前。チーズの歌。譜面に起こせるかと彼が言ったからそれっぽく書き留めてみたけれど、いざ口ずさんでみると書き留めたものは違っているような気がするし、それに自分が歌っているのだって何だか違う気がする。 君が歌ってくれなきゃあ…。
 風が窓を揺らした。カタカタと揺れる窓枠の音にびくりとして思わず顔を上げる。ガラスに映るのはぼく一人の姿。深い夜の中で不安そうな目をしている。
「…そんなつもりはなかった」
 気弱になるつもりは。 横目に見下ろし親指がパラパラとページを捲る。ジャイロの歌。ジャイロのギャグ。書き留めたのに。確かにこの世界に君がいて、ぼくの隣にいて、笑って、歌って、馬鹿やって、一緒に戦い一緒に旅をしたのに、少しずつ薄れる記憶。ぼくは結婚した。子供も生まれた。新しい記憶、新しい思い出がぼくの中には重なってゆく。でもその中に君はいない。
 君のせいだ、君がいないせいだ、と忘れてしまいそうなことをジャイロのせいにすると彼の怒った顔が自然と思い出された。セカンドステージゴール直後のジャイロ。凄い剣幕で。…あの時ぼくは、誰にも見られてないし、誰も覚えていないだろうし、ぼくも話したことはないんだけど、とても楽しかったんだと思う。ジャイロを出し抜いて先にゴールしたこと。まさかそんなことになるなんて、ぼくだって信じていなかった。ジャイロが本当に気を散らして遅れてしまうなんて。だから楽しかった。だから面白かった。怒った彼に追いかけられながら、もっと怒って追いかけて来いと思った。
 こんな思い出も、君と話す前にさよならをしてしまったんだ。理那は言った。泣いてもいいって。ぼくはテーブルの端に手帳を置く。子供のようにテーブルの下にしゃがみこんで丸くなって泣く。ジャイロの前ではよく泣いたっけな。
「そんなつもりはなかった…」
 自分の涙声に笑う。 いつかぼくは理那の前で泣くんだろう。その時また何かを忘れているのかもしれない。遠く掠れた思い出を掴んで君を思う。君を想って泣いたことが、また思い出になる。なってほしいと思う。
 窓が音を立てる。風の騒がしい夜だ。ジャイロは静かなノックなんかしないヤツなんだ。
「君に理那を紹介したい」
 ぼくの声にはまだ涙が残っていた。でも君はぼくのそんな声なんか聞き慣れてるはずだよな、ジャイロ。そしてぼくを笑うだろう?
「大事な人だ。今でも君のために…君のことばかり考えてるぼく自身のために泣いてもいいと言ってくれた人だ」
 できた奥さんだな、と風が笑う。うん、とぼくは頷き、テーブルの脚に頭をぶつける。涙に濡れた頬を隙間風が撫でる。少し冷たい。ここより高いところにある天国は、やっぱり夜になると冷え込むんだろうか。
「ジャイロ」
 またいつか新しい歌を教えてくれよ。今度はぼくが歌う番だから。



《今日の今夜はここが帰る場所》



 踊り場で見かけたジャイロは壁の照明と踊っていた。百合の花を模したランプで、フィラメントが命を燃やし尽くすかのように光を放っていた。時々ちらつく光は踊るジャイロの影を大きく膨らませ、階段の壁一杯に広げた。それは時々ぼくも覆った。
 ジャイロはランプに手を差し伸べ、触れ得るギリギリの距離で、熱と光をその繊細な指に感じながら踊っている。ターンしても、背を向けても、指先が熱を感じるままに白く光る百合の花に導かれる。まるで本物の女の子を目の前に踊るように優しく、無心で、ステップは心地良く、いつまでも飽きることがないようだった。ぼくは階段の上り口からその光景を見上げ、はやり飽きることがなかった。
 ぼくの手には車椅子のホイールが触れていた。ぼくはこれから階段を上がるのに一度車椅子から降りなければいけない。そして泥だらけの靴が何年何十年と踏み荒らした階段を一段ずつ、自分の身体を持ち上げなければ彼には辿り着けない。終わらない音楽がないことをぼくは知っている。でもそのダンスはいつまでも終わらないような気がした。フィラメントの輝き、ジャイロのシルエット、目まぐるしい光と影のダンスに眩惑され、くらっとする。
 すると音楽が終わるように、ダンスがフェードアウトして、いつの間にかジャイロはぼくを見下ろしていた。
「待たせたな」
 ぼくは返事をしない。待っていた気分もない。ただ本当にダンスが終わってしまったことに静かに驚いている。ジャイロに担ぎ上げられて階段を上っているのは夢じゃないかと疑ってる。百合型のランプを横目に通り過ぎた。ぼくの影も大きく広がり、また過ぎていく。
 ぼくをベッドに放り出した後、ぼくがドアに手を伸ばして車椅子…と言いかけると乱暴にベッドが跳ねて、ジャイロが隣に転がっている。
「…ジャイロ」
「人に持ってこさせよう」
「どうしたの」
 ジャイロはニョホホと笑ったが答えるわけではなくて、満足げな顔をして瞼を閉じてしまった。
「ここで寝るつもりなのか?」
 ベッドはもう一つある。ジャイロの帽子を脱がせ顔に被せると、今度は彼の手が伸びてきて帽子を取り上げ隣のベッドに放った。まるで見えてるみたいに、もしくは帽子が生きもののようにどんぴしゃでシーツの上に着地する。帰る場所を知っている鳥のように。ぼくはそれがまた動きだすのでは、と――鳥が羽を休めるように身震いするのでは、眠る最初の動作のようにベッドに沈み込むのでは?――眺めていたけれど、そんな馬鹿なことはない。ダンスの余韻がぼくに夢を見させている。
 ジャイロの手がぼくの脊椎の上を辿る。五本の指がピアノの鍵盤を叩くように、奇跡の宿った背骨をノックする。浮かれているんだろうか。カンザスシティのゴールは遺体を手に入れDioを負かした――このことに関して諍いは免れなかった――とは言え優勝を狙うジャイロにとっては決して諸手を挙げて喜ぶような結果ではなかったはずだ。
「なに浮かれてるんだよ」
 言葉に出して膝の近くに転がった額を小突くと、ジャイロは腕を伸ばしてぼくの腰を抱いた。
「…今だけなんだろうな」
 ぼくはジャイロの腕の望むままに身体を横たえる。服が捲れて裸になった腹にジャイロは挨拶もなく頭をのせた。ぼくはぐへっと息を吐く。ちょっと怒ってまたジャイロを小突くと彼にしては珍しく喉の奥で笑った。
「さっき踊っていたのは何だ」
 尋ねる声はジャイロの耳にはどう聞こえているんだろう。ぼくは些細な振動もくすぐったい。
 ジャイロは天井に向かって手を差し伸べた。
「優勝した暁には」
 空中で何かの形をなぞる指先。
「オレがお前と踊ってやるぜ、ジョニィ・ジョースター」
「…そんな下らない夢を見てるのか」
「下らなくはねーだろ。確かな未来設計だぜ? じゃあおたくはどうしようってのよ。優勝したらよ」
 ああ、背中が熱い。骨がフィラメントの輝くように熱を持っている。ぼくに何かをさせようとしている。不確定な未来を覗き込ませようと背中を押す。
「ぼくが君と踊ってやるのさ」
「偉そうに」
「どっちがだよ。それに君の優勝を世界で一番喜んでやれるのは誰だと思う? それだけの価値をもって祝福できるのは?」
 ジャイロは瞼を開き、ぼくを見上げる。
「…お前か」
「ぼくだよ」
 天井に向かって差し伸べられていた腕がゆっくりと下りてくる。その手はぼくを探す。ぼくは手を握ってやる。
「だな」
 ジャイロが微笑する。
 ぼくの背中を叩かれたように、ぼくも指を叩く。それに合わせてジャイロが出鱈目な鼻歌を歌う。
「一晩中こうしてるつもりじゃないだろうな」
 そう言ってみせたものの、ぼくも少し眠い。
 ジャイロは肘をついて身体を起こした。夕闇の中でぼくを見た。家に帰る前の子供の目みたいだ。楽しさの余韻に引き摺られながら、今日一日が終わる切なさに抗えないでいる。ぼくは両手を伸ばしてジャイロの頭を引き寄せると、額を触れさせ、でもそれだけじゃやっぱり中途半端だったんだ、結局鼻の頭と額に二度キスをした。
「さあ、起きてぼくの車椅子を取ってきてくれ」
 手を離すと彼はベッドから起き上がった。夕闇の中で見るそのシルエットはぼくの心に切なさを呼び起こしたけれど、それは単に旧い記憶や落日を見る人間の根源的な憂愁にすぎない。シルエットの中でジャイロは笑っている。ちょいと狩りにでかけますかとでも言うような、獣の獰猛さをひそませたいつもの笑いだ。レース中のライバルが見るような、観客たちがオペラグラスで覗く時に見えるであろう笑み。いつものジャイロ・ツェペリ。
 ジャイロは隣のベッドから帽子を取り上げた。その時、ぼくは、あ、今夜は安心だ、って思ったよ。彼の帽子が彼をちゃんとこの部屋に連れ戻してくれる。一夜の宿、でも確かにぼくらの眠る場所。
 ドアの前で急に踵を返し、ジャイロはぼくの額にキスをした。ぶっきらぼうで何も言わなかったけれど、ぼくは笑顔になった。そうだ…。ドアの閉じた余韻、階段を下りる足音を聞きながら未来に思いを馳せる。
 ぼくのゴールを誰よりも喜んでくれるのは、祝福の資格を持つのは君以外にいないんだ、ジャイロ。



《ロミオ・アンド・ブルーアイズ》



 指先にまでジョニィの重みが染みて持ち上げるのもだるい。そして心地良い。
 のろのろと持ち上げた指で相手の背中をなぞる。ジャイロの上に伏したままのジョニィは満足げな息をゆっくりと繰り返し吐き、その息はジャイロの耳をくすぐった。こそばゆい、という意思表示を含めて髪を摘んだが、ただそれだけのことでもまだ火花を立てる快楽神経には十分な刺激だったらしくジョニィは気持ちよさを笑いにし、よけいにあたたかな息を吹きかけた。ジョニィの下半身は昂ぶりを忘れたままぬるい体温の下に眠っているのに、その肉体はたった今果てた自分よりも情事の色を色濃く残す。手は力をなくし弛緩したそれをゆるく握りしめたまま離さない。まるで自分のものだとでも言うかのようだ。
 ――間違いじゃあない。
 ジョニィがしたいと言う。擦り切れた絨毯の上にしゃがみこんだ格好のまま、手だけを伸ばしジャイロの太腿に触れる。抗えないのは自分にも性欲があるせいかと思うが、しかし上になるのはジョニィなのだ。もし勃つものがあれば今頃…いや、今でも大して変わらない。自分はジョニィに抱かれているのだと思う。ジョニィがジャイロを抱きたいと望み、ジャイロ自身がそれを受け入れているのなら。
 たとえば人を愛するのに障害を作るのは社会の仕組みで、生まれも肌の色も言葉の違いも関係ないのだ、とは先祖代々人の死に向き合い続けたツェペリの哲学と受け継いだ病院、そして尊敬すべき両親の教育の賜のとしてジャイロの至った結論だが、可能性として存在したたとえ相手が同性だろうとも…という考えを実践的に実感することになったのが生まれ故郷を遠く離れた異国の地であったことはジャイロを少しホッとさせた。神の教えと敬虔な父をどう説得するかはニューヨークにゴールするまでに考えればいい。
 ホテルの窓は冷たい風に震え、二人に現実を思い出させようと努力していた。しかしジャイロは重ねられる肌の心地良さに酔いすっかり重くまどろもうとする指を持ち上げて、ジョニィの後ろ髪が首筋を撫でていた。するとジョニィは首を振る。
「くすぐったいか?」
「じゃなくて。そういうのはぼくがすべきものだろ?」
 ジョニィの手はジャイロの長い髪を梳き、頬と耳元にキスが降る。
「で、甘い言葉を囁く」
「何て言ってくれるんだ?」
「きれいだとかかわいいとか」
 自分で言いながらジョニィは笑い声を上げ、ひとしきり笑うとまどろみに引き摺られながらうっとりとジャイロを見た。
「なあ、色男」
「なんだ」
「ニューヨークにゴールする日のことを想像すると、待ち遠しくてたまらない」
 ジャイロは黙って頷き、促した。ジョニィは髪を梳いていた手でジャイロの耳を撫で、わずかな時間、言葉を忘れたかのように黙った。瞳の奥にこれまでの道のりが蘇っていた。ジャイロはジョニィの薄いブルーの瞳に様々な光景を見た。サンディエゴのビーチ。砂漠の夜。夜明けのロッキーマウンテン。カンザスの雨や、悲しいほどに鳴るとうもろこしの葉。雪景色の中に凍りついた湖の匂いをかいだ。遠く眩しい朝陽の匂いと空を覆う厚い雪雲の匂い。
 まばたきをしたジョニィは眠気のなせるわざか、初めて見るもののように、驚くほど無垢な光を湛えてジャイロを見た。見知らぬ景色を思い描く瞳がジャイロを映した。
「あの街に辿り着いたら、きっと君を抱ける」
 そうだな、と小さな声で応える。
 遺体が全て揃えば、六千キロの旅路を踏破したその先なら。希望がジョニィを突き動かす。そのためにはジョニィは何でも差し出してしまう。自分の人間性さえ。今こんなにも美しい色をした瞳を黒く染めてしまうことさえ厭わない。
 だがジャイロだけは知ってもいる。何を捨てても手に入れたい遺体を、ジョニィはこれまで二度手放した。遺体を抱いて、命を投げ出してもと言いながら、結局自ら手放したのだ。
 ジョニィの瞼が閉じた。現の世界に残されたジャイロは毛布を引き上げ、冷気を感じ始めたベッドの上に息を吐いた。毛布の下では下半身がジョニィに掴まれたままで、もう返事もしないほど眠りの中に落ちてしまっているのにジョニィは手を離さなかった。ジャイロは片方の頬で笑い、好きなままにさせた。こんなところもリンゴォ・ロードアゲインの嫌った対応者の性質だろうか。だがベッドの中でのことまでとやかく言われる筋合いはない。死んだ男の視線に黙れと言いつつも、男の世界は厳しい。そうだ厳しい。ニューヨーク。それからネアポリス。父上。神。
 ニューヨークに辿り着いたら、その先、更に東の旅へ自分はジョニィを誘うのだろうか。
 ――普通に考えてたぞ。
 ゴールに辿り着き更に描く地図が一致すれば、それは愉快に違いない。その時はジョニィの脚が動くことも喜んでやれるだろう。本当に動けば…。自制しようとしても、ジャイロは時々祈っているのだった。まるで抱かれるのを楽しみにしているようにも見える。
 ――構うか。
 それで構わない。認めるのは悔しいがサンディエゴで出会った時は憐れな車椅子の少年だったジョニィが今では自分に比肩する色男だ。認めた男が相手ならば。
 ――抱かれてやるのもやぶさかじゃあねーぜ。
 納得こそが肝要なのだ。
 ロミオ、ロミオ、と頭の中で歌う。色男の歌。作詞作曲、ジャイロ・ツェペリ。翌朝起きたらジョニィに聞かせてまた書き留めさせようと思ったが、眠りとともに重くなるジョニィの肉体は歌も忘れるほどの夢の世界へジャイロを沈めてしまった。
 翌朝、鏡の中、首筋に残る赤い痕を見つけた。
「ぼく、昨夜いい夢を見たよ」
 夜明けを前にした薄青い部屋の中、ジョニィが一足早い夜明けの光を瞳に宿し、笑った。



《ナイフ・イン・ザ・バスルーム》



 鏡に向かって左向きに立つジャイロの裸を浴槽の中から微睡みながら眺めているうちによぎった光景が幾つかある。テーブルに一本だけ残されたナイフ。ニコラスの葬式の写真。雨の止まない夕方の窓と壁紙の暗さ。今夜はもうたっぷりしたと思っていたが、情動は皮膚の下でゾゾ…と音を立てて蠢いた。
 愚かしいほどに欲しいと思う。もうジャイロは自分のものだろうと、たとえこの瞬間離ればなれになってしまってもジャイロが自分を忘れることは一秒、一瞬、電球の明滅する一刹那ほどもないだろうと思うが、更に深く刻みつけていっそ傷ついた神経を一つに縫い合わせたいと思った。眠い。ホラー映画の影響だ。多分。半分くらいは。半分はジョニィが常々思っている本音だ。腕の中でぐずぐずに溶かして血や体液になって浴室のタイルを濡らすジャイロの上で眠りたいとか、その程度のことなら醒めていても思う。
 いいや、切り裂きたいとか食べたいとか猟奇的な思いに日々囚われている訳ではない。むしろ静かに愛したいとジョニィは望んでいる。床の上に倒れているなら、掌をそっと押し当ててその鼓動を聞いていたい。涙を流しているのならそれが湧き出でてどこへ流れてゆくのかをいつまでも眺めていたい。砂漠を越えて吹き始めた秋の風を心地良く感じるように、河のせせらぎやトウモロコシの葉の擦れる音を聞いて自分を取り囲む風景を愛するように、自分とは別の肉体を持ったこの存在があまりに自分に近く、近くにあるのに別々の存在であることを感じるともっとそばに、と腕を伸ばしてこの手の中にと望む。ただそればかりのことだ。
 勿論、セックスも歓迎はする。ジョニィは自分の腰を撫で、今も残る銃創に震え、しかし震える腰の更に下まで熱を孕んだ掌の感触を感じられることに感謝する。挿入の瞬間、本当に満ち足りた気分を味わいジャイロの耳元に「グラッツェ」と囁くと、不満げな呻きが返された。
「…よくない?」
 馬鹿な科白を吐きながら、耳元で笑う。ジャイロは懸命に息を吐いて自分の身体を弛緩させようとしていた。
 ジャイロがそこにいるだけで、胸だけではない、全身が満たされる。足の指先までぬるく重たいものが満ちて、じっとそのまま動きたくなくなる。シーツの上自分の身体も横たえ身体を密着させれば汗がそのまま皮膚と皮膚という境界を溶かすように錯覚した。
 ジョニィは鏡に向かうジャイロのペニスに焦点を合わせた。今夜、射精した数は自分の方が多かった。よくあることではあるけれども。濡れたタイルに視線を落とす。排水孔にゆるゆると流れてゆく湯の流れ。もう流れ去ってしまったろうか。排水管を通じてどこへ流れてゆくのだろう。河へ。海へ。うっかり魚が孕まなければいいが。
 鏡に向かったまま動かないジャイロの表情は遠い北国の食卓に忘れ去られたナイフのようだった。
「こっち来いよ」
 湯の中から腕を持ち上げ、ジョニィは鷹揚に手招く。ジャイロは静かにこちらを振り向き、なんだって、と低く小さな声で尋ねた。
「今度はぼくが舐めてやるから」
 ジャイロの眉根はわずかに寄りジョニィを眇めると、唇を震わせて音を出した。ブーイングの音だけ、いつもの彼の陽気が蘇っていた。
「オレは寝るぜ」
「ぼくだって」
「お先に」
 ジャイロは浴室から立ち去り、寒天質の照明とぬるい湯の中に取り残されたジョニィはズルズルと浴槽の中を滑って顔半分を沈め抗議の声を上げた。言葉は声にならず泡になって弾けた。
 ろくに身体も拭かないままジャイロの気配を追って寝室に向かう。しかしその手前でジャイロは見つかった。居間のソファに転がっていた。
「風邪引くよ」
「おまえこそ」
 ジャイロは薄く目を明けて浴室の明かりの照らしだした床を指さす。
「びしょびしょじゃねーか」
「我慢できなくて」
 床に膝をつき、ソファに横たわる腹に顔を押しつける。歯で噛むと、ジャイロの手が彷徨って濡れた髪に触れた。
「パンツ」
「うん?」
「Tシャツ」
 だがジョニィはジャイロの所望を叶えようとはせず、掌を下半身に這わせ、裸の腹に頬ずりした。
「このままベッドに行こう」
「ならどけよ」
「返事は?」
 ジャイロは降参したように腕をだらりと垂らし、もう片手で目を覆った。
「おおせのままにとでも言えば満足か?」
「少しはね。でも足りないから」
 ジョニィはジャイロの太腿を掴み、その内側にキスをして見えない程度の微笑を浮かべた。
「今夜中さ」