永遠を呑む翼




 天井はそのまま上階の床板で、撓んだ板の隙間から小さな機械の眼が覗いているのは分かっていた。僕は想像する。小さなレンズの向こうには人間の眼球があり、それはどれだけの客観性をもって僕らという異形を観察することができるのだろう。だが機械には判断できない。機械も思考は持つ。いずれ感情も獲得するだろう。さあ、僕らを今正しく観察し正しく判断することができるのは人間だろうか、機械だろうか。感情があればグロテスクで見るに堪えない。感情がなければ理解ができない。多分、理解できないはずだ。
 イスタンブールの坂道を、古い坂道を上って、かつては貴族や官僚が住んでいたはずの建物が崩れ、補修され、それでもなお建て直された壁も窓も古びている、そんなホテルだった。名探偵ジョジョ、トルコの来訪は二度目。一度は高校卒業の春。仕事で。勿論殺人事件。二度目は今日。やっぱり春。最後に降った雪が溶け始め、所々ぬかるむ石畳の道を踏んだ。仕事じゃない。連れが一人。物凄く体格のいい男。裸になれば恐ろしい程の肉体美を黒いコートと帽子の下にキュッと隠してここまで歩いてきた。本当は人間じゃない。額には角がある。帽子がそれを隠していた。たゆたう長い髪はご丁寧に頭巾を巻いていた。額や耳の飾りには稀少鉱物を惜しげもなく用いていたけど彼本人の威圧感、そして生物として遥か上位にあるものの品の良さの前にはそれがダイヤであれルビーであれ添え物でしかなかった。輝くものは彼を輝かせる為にあるのだ。
 帽子を脱ぎコートを投げ出す仕草は優美で洗練されていた。これ以上正解の動きはないと思えるほどだった。同じ優美さで彼は生き物を殺すことができる。ゆっくりと花を摘むような優雅さで。
 僕はカーズが服を脱いでいつもの彼の、人間の感覚から言えば薄着すぎる姿になるのを眺めていた。ぼんやりはしていなかった。一幅の画が動くが如く。額縁の中の美しいものが動き出すのを鑑賞するような、そんな瞳の置き方だった。
「何をしている?」
 カーズが首を反らし気味にこちらを振り返る。
「何もしてない」
 ぼくは扉にもたれかかったまま答えた。
「何も考えてなかった」
「思考を止めた貴様はただの脆弱な人間だ」
「思考してても君にはそうだろ?」
「どうかな」
 その先の答えを僕に言わせたいんだろうか。カーズはよく僕を試すけど必ず正解というのは握っていて、でも今のどうかなはカーズ自身正解に頓着していないような、そんな答え方だった。
 僕は天井を見上げた。天井板の隙間から覗くレンズは、ここからは大きな亀裂の中の小さな真っ黒い瞳に見える。オバケみたいなものにも散々遭遇してきたから――そもそもカーズと一緒にいる――今更どんな造形にもビジュアルにも驚くまいと思うけど、探偵だとしても、三十七の宇宙にたった一人しか存在しない特異点だとしても、やっぱり僕は人間で幼い頃からの記憶とかそういうものが何かのきっかけで喚起させる怖さというのは隙間風のようにひょっと胸に忍び込む。
 小さな黒い瞳の主はおそらくスピードワゴン財団だ。どの宇宙においてもジョースター家と関わりのある、縁の深い人々だし、カーズなんか直接の関係がある。その彼らが僕らを、特にカーズを観察しようとするのは不思議じゃなかった。たとえ僕、城字・ジョースターの不利益にならないようという目的であっても、プライバシーを覗かれるのはウェルカムじゃないんだけど。って言うか、それから逃れて流れ流れて晩冬のイスタンブールに辿り着いちゃった僕らなんだが。
「つまらんことを気にするな」
 カーズが言う。
「…君のことやで」
「俺に敵うものなどいないのだ。その俺が何を気にする」
「また宇宙に放り出されるかもよ」
 冗談としては際どい、下手すると次の瞬間食べられたって文句言えないっていうか文句言う前に食べられるような科白だけど、カーズは怒らなかった。水色の瞳が細められ、僕に微笑みかけた。
「何を恐がっている、ジョジョ」
 ジョジョ、と僕を呼んでくれる。僕が死んだらジョエコやその子孫、この宇宙が終わったら僕じゃないジョージ・ジョースターにそう呼びかけるんだろうか。きっとそうだろう。たくさんの宇宙の中にこれまた沢山存在するジョジョ。彼を宇宙に吹っ飛ばした――直接の原因は火山だけど置いといて――ジョセフ・ジョースターに始まり、ジョジョはきっと彼を飽きさせないだろう。
 投げ出されたカーズの帽子とコートをかけ、僕も自分のを脱いだ。部屋はゆるく暖められていた。窓の外は雪が消えたお蔭でようやく走れるようになった自動車が泥水を跳ねながら走り去り、靴とコートを汚された学校帰りの子供が大声を上げていた。僕は窓辺に寄る。見下ろすと、角の所まで親が迎えに来ている。靴とコートを汚された子供が泣きながら親の元へ走ってゆく。角の向こうには家路がある。
「カーズもさ」
 僕はわずかに曇ったガラスを指でなぞりながら呟く。
「地球に帰ってきた時はめっちゃテンション高かったよね」
 ふん、と鼻で笑うのが聞こえる。
「僕もホッとしたけど」
 窓に額をぶつける。少し冷たい。僕の額は熱い。冷たさに集中するように目を閉じる。
「旅が終わるのは、それはそれで切ないもんやと僕は思う。でも永遠に終わらない旅もめちゃめちゃ寂しいやろうなと思う。冒険はさ、引き継がれるからいいんやって」
「人間の精神は脆いな。死ぬことを考えていたか」
「脆いよー。めっちゃ壊れやすいよー。フラジールもフラジール。取り扱い注意割れ物注意天地無用のシール貼って」
「馬鹿め」
 一言で片付けられる、それがいい。カーズの一言には何千兆年の重みがある。そのカーズの生きた時間も永遠を前にすると始まったもいない。いやー宇宙壮大だわーヤバイわーと思える。人間は死ぬ。当たり前だ。僕は目の前でそれを何度も何度も見てきた。同じ事が僕にも起こるのだ。永劫の前の須臾の間に。ほんと、悩むなんてアホだろ。
 でも僕はガラス窓に額を押しつけたまま動かなくて、あ、やべ、これ僕完全に拗ねてない?駄々っ子みたいになってない?っていうか僕のこの状態、え、何、寂しいの?って自分でツッコミを入れるのも虚しくなるくらい寂しい。これをカメラのレンズで覗かれて録画されてるのも分かってるのに動けないくらいに。やべえ死にたい。
 すると甘い香りが部屋中に広がって僕は窓をぶち破って落っこちて死ぬ確率を計算する前に濡れたように艶々と美しく光る黒い羽に包まれている。
「カーズ…!」
 上からカメラが見ているのだ。一体カーズの変身はどのように映ったのだろう。多分最初は肉体の変化を始める最初の衝撃でぶわっと黒い髪が舞って、その次に背中から腕にかけてがみるみる変身し、カメラの早回しで花の成長を見るみたいに羽が生えるのが見えただろう。生えた羽は翼をなして、次から次に生え替わり抜け落ち、床はみるみる黒い羽に覆われていく。真上からそれを捉えるカメラの視界は床の羽とカーズの翼と美しく長く乱れる髪に新月の宇宙を覗き込んだように深い暗色の折り重なりで、それこそ深淵を覗き込んだような畏れを相手に抱かせたに違いない。これを見ているのが人間なら。もし機械なら、これを宇宙と見間違えてもおかしくない。僕は宇宙の中で翼の腕に抱かれる。
 僕の視界もほとんど黒だった。色んな黒が重なって深い黒になり、その中に水色に輝く二つの瞳があった。
「何を考えている、名探偵」
 水色の瞳が尋ねる。僕は僕を抱く闇の中で口をぱくぱく動かす。
「なに…を……」
 何も。
「なにも…考えられない」
「思考を放棄した推理する機械。矛盾だな。存在意義とやらも失ったろう」
「レゾンデートル、が、なに」
「ジョジョ、城字・ジョースター」
 水色の瞳は笑う。
「まるで死んでいるのと変わらんなあ?」
 僕が死ねば二人目はいない。生まれ変わらない。永劫の虚無に抱かれ永遠に思考を放棄する。それと、同じだって?このあたたかな闇と僕を見つめる目が?
「俺はお前に壊れられたくはない。困るとまでは言わぬが無限の時間の中で楽しみが一つ減る。だからお前に安心を与えてやろう。城字、心配をするな、最後は俺が喰らってやるのだからな」
 僕は水色の瞳に向かって手を伸ばし柔らかな肌触りの闇を抱き締める。宇宙船の中で聞いた時、生命の危機から背筋も本気で凍るような恐怖を感じた言葉に、僕は今心から安堵し、歓びさえ感じている。歓喜だ。歓喜して僕は泣く。僕の涙はあたたかい黒の中に吸い取られて、すぐに乾いてしまう頬に涙は次々と溢れ落ちる。泣きながら僕は笑い「約束な」と切ない永劫を生き続ける生命を抱き締める。
 あんまり暗い中にいたので、いつの間に外が夜になったかとか以前に僕の意識がどの時点で失われたのか、それって気絶したのか寝ちゃったのかも分からないけど、目が覚めたのは真夜中だった。
 天井に青白い火花が見えた。それは断続的に光っていた。撓んだ板の隙間からだらりと小さなカメラがぶら下がっていて、そのコードが時々青白い火花を発しているのだった。
 僕はあたたかなベッドの上で身じろぎをする。羽が僕の身体を包んでいる。カーズは翼の腕のまま僕を抱いて、狭いベッドの上に何とか収まっている。勿論翼の先ははみ出ちゃってるんだけど。
 カーズに眠りは必要ない。カーズは眠らない。でも目の前にあるカーズの顔は瞼が伏せられてそれが窓から入り込む夜の街灯の乏しい明かりの中、やっぱり綺麗なのを見る。
「起きてるんだろ」
 僕は小声で囁いた。
「何してんの」
「聞いていた」
「寝言とか言った?」
「呼吸や鼓動」
 羽が頬を撫でる。
「不意に起こる筋肉の収縮、貴様の耳の奥で鳴っている音、頭蓋の奥、生きようとお前の脳が絶え間なく発する命令の声」
 カーズは瞼を開いて少し破顔した。
「見えるものが全てではない。お前は面白いぞ、名探偵」
「そりゃ…光栄やな」
 僕はカーズに身を寄せる。怖くはない。それはどんな音に聞こえただろう。僕の脳はどんな感情の声を発したのだろう。
 淡い闇の中でクスクスとカーズが笑う。僕はそれを子守唄にしながら、でももうしばらくは眠れないで今度はカーズの呼吸を聞いている。呼吸さえ必要としないカーズが真夜中のイスタンブールの空気と僕の匂いを吸い込む音。吐き出される時、その中には微かに甘い香りが混じっている。僕はそれを吸い込んで、ちょっと勃起する。