サクロサンクトサクリファイス 12




 深く眠っているのが分かった。そして目覚めが近づいているのが分かった。心臓が置いてけぼりにされるような急浮上ではなく、自分を包み込むものがやさしく朝の訪れを告げ肌からじわじわと目覚めるような覚醒だった。このままでいたいようなぬくもりが包む。空気は冷えているが、耳やあらわになった頬の上で跳ねる音に懐かしい温度を感じ、それは鼻にもぐりこんだ朝食の匂いで確かなものとなった。フライパンの上で油の跳ねる音だ。ジョニィは瞼を開き、横たわった場所から部屋を見た。
 窓の外はすっかり明るく、通りをゆく車の音が聞こえた。明るい部屋の中の印象は、昨夜と大して変わらなかった。明るい中で見れば思ったより散らかっているが、その端々には好もしさがあった。うちとけた親しみやすさ、男としての共感のようなもの。古い雑誌の投げ置かれ方や、床に落ちて行方不明になりかけているリモコンなど。だが総体として見た時、穏やかな部屋だ、とジョニィには思えた。昨夜は静かだとばかり思っていたけれども。穏やか、という言葉をジョニィは思い出した。穏やかさがこの世界にはある。
 一瞬不安に思ったが、立ち上がることができた。裸足の足の裏が絨毯を踏む。安物なのか高価で古いものなのか、よく分からない。日々踏まれる中ですっかり古びてしまった絨毯は、足の裏に心地良く触った。
 朝食を作っているのは勿論ジャイロで、キッチンを覗くと背中が見えた。
「おはよう」
 ちらりと振り向きかけられた挨拶に驚き、ジョニィはどもりながらおはようを返す。
「座ってろ。オレのクマちゃんは丁重に扱え」
「…膝の上とか?」
 冗談を言うつもりなどなかったのだが、ジャイロの口にするクマちゃんはジョニィを油断させてしまう。
「丁重にな」
 振り返りジャイロは、ニョホッ、と笑った。手元を見ないままフライパンが大きく揺れ、目玉焼きが引っ繰り返る。器用な男だ。
 ジョニィは一脚しかない椅子の上に鎮座するクマのぬいぐるみをソファに移動させた。座らせようとしたところで自分の使ったくしゃくしゃのシーツに気づき、どうすればいいのか初めて悩んだ。この上に置くのは丁重な扱いとは言えないだろう。ぎこちない手つきでシーツを畳み、ようやくぬいぐるみを座らせた。
 朝食はトーストに目玉焼きにベーコンにサラダにと、昨夜眠る前は空腹のまま出て行くことも覚悟していたジョニィだから、テーブルの上に広がる皿にまた驚き身体を固くした。最後にコーヒーが置かれ、さっさと食えと乱暴に促される。
「…君は?」
「作りながら食った」
 椅子が一脚しかないせいだろう。昨夜の一件で、もう二人ソファに並んでの食事は気まずくなっていた。それにしたって、この待遇は破格だが。
 最初にコーヒーに手をつけた。
「…美味しいよ」
「だろ?」
 ジャイロは素直に誇らしさを口にした。
「そこいらのコーヒーショップにゃ負けないぜ」
 朝食の間、ジャイロはカップを片手に佇んでいる。随分のんびりしているので、思わず尋ねる。
「仕事は?」
「昨日夜勤明けだったんだぞ。休みだ休み。オレを殺す気か」
「君は毎日病院にいる感じだった」
 あたたかい朝食と穏やかな部屋の空気のお蔭か、思い出す病院はつい昨日までのことなのに、とても懐かしい気がした。
「みんな、君を頼りにしてたんだ。病室のやつらも、ポーク・パイ・ハット小僧も。何だかんだ言いながら面倒見のいい君のことをさ」
「褒めても何もでねーからな」
「コーヒーは?」
 ジョニィは空のカップを持ち上げる。
「最後におかわりをもらおうかな」
「図々しいやつだ」
 非難ではなく言葉尻には笑いが滲んでいた。
「ありがとう…」
 空の皿を目の前にジョニィは言った。
「心からこう言うのは本当に久しぶりだ」
 あるいはそんな記憶などなかったか。
「昨夜のことも。迷惑かけたけど、君は本当にいいやつだな。だから…本当に、心から感謝してるよ」
 席を立つジョニィに、行くのか、とありきたりな科白はかけられなかった。ジャイロは壁にもたれたまま、コーヒーを飲み干したカップを手の中に弄び、大した支度もない支度をするジョニィを眺めていた。ぴっちりしすぎたジーンズに胸元のゆるいTシャツ。しかも色はピンクだし、鼻血の痕が赤黒く残っている。サイズの合わないスニーカーは踵を履き潰さないと入らなかった。あとは薬の入った紙袋。
「あ、飲んでねーだろ」
 ジャイロの顔は急に患者を叱る医者のそれになって、キッチンから水をとってくる。
「忘れず飲めっつったろうが」
「ありがと」
 目覚めてから何度ありがとうを言っただろう。二度。三度。この短い時間の中で、たった一人の男相手に。
 薬を飲み干し、苦さに顔をしかめる。
「口直しがほしい」
「てめえ、そうやって…」
「うそうそ。もう行くよ」
 ジョニィは自分が笑っていることに気づいた。どうして笑うんだ。これからどうすればいいのか、何が待ち受けているのか。もう守る者などいない煉獄の道行きに踏み出すのに。
 それは目の前にいるのがこの男だからだ。ジャイロ・ツェペリという不思議な男のせいだ。
 ドアの前でもう一度振り向き、言った。
「ありがとう、ツェペリ先生」
「ジャイロでいい」
 そしてこの男も何故、そう言うのだろう。
「ありがとう…、ジャイロ」
 アパートを出ると、そこは自分が夢に見続けてきたニューヨークだった。出勤らしいの、得体の知れないの。若いの、老いてるのも、まだ子供らしいのも。肌も白黒黄色問わず歩いている。足音が踏みしめたスニーカーの底から這い上がってくる。そしてこの車の量。ひっきりなしに騒がしいこと。皆が自由に、自分勝手に歩くこの雑踏に帰りたかったのだ。
 ジョニィは思わず立ち止まったが、背後を振り返ろうとはしなかった。自分の足で外へ出た。もう目指す場所は一つしかなかった。そのために生き延びた。そのために外へ出た。グラウンド・ゼロへ、ディエゴ・ブランドーの死体を探しに。
 アパートの窓からジャイロが見下ろしているのに、ジョニィは気づかなかった。手の中のカップはおかわりのコーヒーがすっかり冷めていて、男自身もそれに気づいていなかったのだ。地を踏みしめひたすらに歩くジョニィには知りようがなかった。

 地下鉄に乗れば終点まで行ける。ジョニィは駅の階段を下り、未練がましく改札口まで行った。淡い期待を込めて――もしかしたら小銭を見落としているのでは…?――ポケットを探るがレシートの切れ端さえ入っていなかった。 いいや、流石に終点までは走っていないのか。崩落したツインタワーの名を冠した終着駅。もと来た階段を上りながら、足が動くことを一歩一歩実感し自分に言い聞かせる。歩ける。なんだったら走れる。この二本の脚で歩くことを夢見ていたのだ。歩こう。
 しかしの混雑。タワー跡に近づけば近づくほど空気は奇妙な緊張をはらむ。まだ普通に見える通りが、急に胸騒ぎを起こさせる。白く汚れた窓。街路樹の根元や葉の間にも白い粉――灰とも砂ともつかないものが積もっている。転がる石塊、アスファルトに残るタイヤの痕、それに血の痕…?
 グランドゼロはものものしい空気に包まれていた。当然だった。瓦礫の山も、わずかに数階分残ったタワーの形骸も、生々しい爪痕という表現さえ生やさしい。消防隊や軍人が忙しく動き回っている。炊き出しのバス、ボランティアの姿。それを遠巻きにするように不安げな目をしたたくさんの人々がうろうろしていた。ジョニィも結局その中にまじり遠巻きに作業の様子を眺めるしかなかった。あれは救助活動なのか、それとも。あの日から既に一週間以上が経過している。それでも数日後に救出された人間が大きくテレビで取り上げられ、ジョニィもそれを見た。希望を捨てられない人間、絶望を受け入れられない人間、様々な思いが焦げた匂いのする白い灰や砂煙となって立ちこめている。
 瓦礫や無事生き残ったビルの壁面は所狭しと張り紙に埋め尽くされていた。ジョニィも病院の壁で見たものだ。行方不明者の安否を問う張り紙。名前と、笑顔の写真と、連絡先。ジョニィは一枚一枚に目を通した。知りたいのは血の噴き出すような事実、ディエゴの死だ。胸の潰れそうな笑顔の羅列ではなく、たった一つの死体。日が暮れるまでジョニィはグラウンド・ゼロの周囲をぐるぐると何周もした。張り紙は埃にまみれて汚れ、その上から新たな張り紙が貼られた。その中にディエゴの笑顔がないのは喜ぶべきことだろうか。あの唾を吐きかけてやりたい笑顔が見当たらないということは。
 日が傾きかけても瓦礫の山で働く人々の熱気は消えなかった。しかし拡声器で作業の終了が叫ばれ、それがリレーのように現場一帯に広がり、重たい足取りで皆生きた世界に帰ってくる。まだもう少し、この足下の瓦礫を一つどかせば誰か見つかるのではないか、そんな思いを残しながら。
 そうだ。あの瓦礫一つでもどかせば、ディエゴの死体が。ジョニィは夕空を背に聳えるように見える瓦礫の山へふらりと一歩踏み出す。今なら。消防隊員の姿も消えた今なら。勢いづいて次の一歩を踏んだジョニィは、同じ勢いで襟首を掴まれ思わず、ぐぇっ、と死にそうな声を上げた。
「どこに行こうってんだ、おたく」
 粗雑だがうちとけた親しみのある言葉。
 だがジョニィは振り返らなかった。
「ぼくはここに来るために、来たんだ」
「なんとも哲学的なお言葉だな。だが敢えて教えてやるぜ。全然かっこうよくねえ」
「評価してもらうつもりはないよ。見つけなきゃいけないものがある。それだけなんだから」
「探しものをするにゃあ暗いだろう」
「君はいいやつだと思うけど、変なやつだよ」
 ジョニィは振り返り、締められた襟首を掴んで戻した。
「どうしてこんなところにいるんだ」
 思い切り冷たい目で、冷たい表情で、冷たい声で言ったつもりだった。今更やさしさには縋らない。醜態は昨夜晒し、別れは今朝すませた。
 だが目の前の男は焦げ臭い風が灰や砂塵を吹きつける中、穏やかな瞳で言った。
「おまえさんの心配をしちゃあ駄目か?」
 まだまだ明るいと思っていた夕陽がビルの向こうに消えた途端、あたりはすっと暗くなる。空ばかりまだ明るくて、地上に佇む男は影法師のようだった。しかし影の中からも穏やかな視線は注がれていたし、ジョニィの沈黙にも愛想を尽かすことなく待っていた。
「君の」
 ジョニィはわざと大きく口を開いた。
「心配に、値する人間とは思わなかったよ」
「勉強が足りないらしいな」
「そりゃどうも。小学校からやり直そうか?」
 気を強くもって言い返す必要があったのだ。腹に力を込めていたのに、胃袋はジョニィを裏切って瓦礫の転がるグラウンド・ゼロの端に腹の音を響かせた。
 不意に湧き起こった笑い声は背後からで、炊き出しを片付けていた男たちの一人が、残り物だが食ってくか?とホットドッグを掲げた。ジャイロも笑っていたが、ジョニィは恥ずかしくなかった。腹に力を込めなくとも、声は落ち着いた。
「あれを食べて、夜はゴミ捨て場で寝ることもできる」
 ジャイロの目はもう苦しげではなく、彼は穏やかな瞳のまま頷いた。
「それも一つの道だろうな。おまえさんが選んだことなら、オレはそれを尊重するさ」
「エリナ・ジョースターを扱ったように?」
「ジョニィ・ジョースターはなかなかガッツのあるやつらしいんでな」
 ジョニィは炊き出しの男たちに近づいて冷めたホットドッグを受け取った。
「夕食はこれだ」
 一口囓る。
「でもコーヒーがないんだよね」
「…素直じゃねえなぁ、おまえさん」
「君に言われたくない」
 ジョニィはがつがつとホットドッグを頬張りごくんと飲み干して、コーヒー、と繰り返した。
「すごく飲みたい」
「どーすっかなー」
「そこいらのコーヒーショップの味じゃあ満足できない。一番美味しいコーヒーが飲みたいんだ」
 そんなコーヒーを淹れることのできる男をぼくは知ってるよ、と言うと、オレの知ってるヤツか?とジャイロは尋ねる。
「多分ね」
「よっしゃ、じゃあオレのコーヒーと飲み比べてみろ」
「君のが美味い?」
「飲めば一発だ」
「じゃあその味を確かめさせてもらおうかな」
 軽口の応酬をしながらジョニィは溢れてきた涙を一生懸命拭った。Tシャツの裾を掴み上げて洟をかむとジャイロがハンカチを取り出し、ったく、と呆れながら子供にするようにくしゃくしゃになったジョニィの顔を拭った。
 地下鉄には乗らず、歩いてアパートまで戻った。すっかり疲れ果てたジョニィは階段に難儀し一段一段休みながら上りたいそう時間をかけてしまったが、ジャイロはそれを黙って待っていた。