サクロサンクトサクリファイス 10




 美しい静けさ、というものがあればそれはまさにこの部屋だった。ニューヨークの喧噪もクラクションも窓一枚で隔てられただけなのに、太刀打ちできない。静けさは完璧だった。調和、不滅、真理、それら文明の古くからあるものたちがどっしりと柱のように静寂を支えていた。これを破れるものはこの世にはない、悠久の静けさ。
 つまりそれがジャイロ・ツェペリの秘するもの、彼を内側から支えるものなのだろう。全てが説明可能だった。積み重ねられた本は無造作に見えて決してバランスを崩さなかった。窓から遠い隅に据えられたチェロは何百年さえ一夜であるとでも言うように落ち着いて、ただいつか部屋の主が弓を持つのを待っていた。ジョニィが片腕をのせたテーブルの上には鉄球が転がっている。何に使うものだろう。目に映るものは特殊なものが多いはずなのに、ジャイロ自身の私生活をなかなか覗かせようとしなかった。それを垣間見させる数少ないものが、壁に掛けられた女性の小さな肖像画とソファに鎮座ましますクマのぬいぐるみだった。だがどちらも口を開こうとはしない。
 どれもジョニィの人生にないものだった。それはこの二年の話だけではなく、遠く過去を溯っても見出されることがなかった。だからジョニィはただ、凄く静かな部屋だ、と思うことしかできなかった。
 ジョニィは部屋の主に勧められることなく、無遠慮に椅子に腰掛けていた。今更許可を取る必要はないはずだ。自分はこの部屋に足を踏み入れた。ジャイロ・ツェペリはそれを許したのだ。発行されたライセンスは敷居を跨ぐことのみを記したものではない。脚の疲れがあった。鼻血もまだ流れ続けていた。できればソファへ腰を下ろしたかったが、クマのぬいぐるみはその席を譲ろうとしなかった。
 頭を傾けるとまた鼻血がこぼれだした。ジョニィは慌てて首を反らしたが、喉の奥に流れ込んだ血の味に吐きそうになる。嘔吐感も一緒に無理矢理飲み込んで掌で鼻を押さえた。鉄錆の匂いは口の中からも香る。
 馴染みがない訳ではない。そう思った。
 鼻は血の匂いで塞がれていたのでコーヒーの香りがキッチンから漂っていることにも気づかなかった。
「ああ」
 明かるいキッチンから出てきたジャイロは思い出したようにルームライトを点け、ジョニィの目の前にコーヒーを置いた。ジョニィは片手で鼻を抓み、もう片手を光に翳す。汚れている。ジャイロがキッチンに引き返した。ガリガリいう音が聞こえ、次に出てきた時には砕いた氷を詰めたビニール袋を持っていた。差し出されたそれを、別にふざけた訳ではない、当たり前のように鼻に当てるとジャイロはぶふっと笑い、氷を首筋に当てさせた。冷たい。思わず肩が跳ねるが、その冷たさも火照った身体に心地良いものとしてすぐ馴染んだ。
 テーブルには椅子が一脚しかなかった。ジャイロは脇に佇んだまま、コーヒーに口をつけた。何も言ってこない。ジョニィから口を開く。
「知ってたのか?」
「何を」
「ぼくが男だってこと」
「主治医だからな。……おまえの身体は『視た』」
 見たという言葉を特別な意味で使われたような気がする。
「じゃあ知ってて今まで…」
「おまえがエリナ・ジョースターだと名乗ったんだ。それがおまえさんの生き方なんだろうと納得したまでだぜ、オレは。過去に何があったか知らないが、おまえさんの生き方だ、口出しするこっちゃねえ。その身体で、エリナと名乗って生きるんなら、オレはおまえをエリナとして扱う。それだけだ」
「…ぼくが」
 ジョニィは氷の袋をテーブルに置き、顎を引いた。
「ジョニィ・ジョースターだと知った今は?」
「どうすればおまえさんが部屋を出てくか考えてるところだよ」
 目の前の熱い湯気を立てるカップに手を伸ばす。両手とも汚れている。指先で触れ、引き寄せた。
「このコーヒーは、飲んだら出て行けって意味かな」
「それでもいいぜ」
 コーヒーは熱く舌を火傷しそうだった。真っ黒でどろどろで飲んだことのない味だった。それなのに二口目、三口目と口にすると胃の腑から熱が広がり疲労や狂騒や混乱を一つずつ解かれるような気がした。
 空のカップを置いたジョニィは椅子にもたれかかりあたたかな溜息を吐いた。身体の力が抜けていく。
「おい」
 ふとジャイロが影になって手を伸ばしていた。濡れたタオルが鼻に触れた。また血が流れ出しているのに気づかなかった。
「顔を洗えよ。手も」
「…どこで」
 軽く顎でしゃくって示したのはベッドルームに続く入口だった。
「キッチンでいい。手だけ…」
 言いかけたが、駄目だ、顔を洗え、と強く言われた。
「そんな血塗れの顔で寝られたらオレのソファとクマちゃんが汚れるぜ」
 ジャイロはソファを占領していたクマのぬいぐるみを小脇に抱え、重ねられた本を片付け始めた。
「ソファで寝ろ。いいな?」
 あっさりと言われて、今夜は意地でもこの部屋に居座るつもりだった気概が挫かれる。
「いいけど…」
「じゃあ行けよ。あ、あとな、タオル、汚れたからって捨てるなよ」
 ベッドルームを抜けて浴室のドアを開けた。汚れた手でドアノブに触れるのが躊躇われたので、タオルで拭った。赤い斑模様。自分の血。鏡で見ると確かに酷い顔だ。血を洗い流し、口を漱ぐ。洗面台の白くなめらかな曲線を赤い血が渦をなして流れる。
 冷たく濡れた顔を上げた。水が滴り落ち、胸元の緩いTシャツを濡らす。ピンク色のこれも血が点々と落ちて汚れている。女物、しかも巨乳の女が着ていたんだろうTシャツ。患者の顔など見ずに盗んだ。ジョニィは襟を抓み、自分の身体を見下ろした。もう一度顔を上げる。
 自分の身体に乳房があるのは見た。小さいが確かに存在を主張する膨らみがあった。ジョニィは手を伸ばし、ジーンズの上から股間をなぞる。あるべきものがない。ないはずのものの上をなぞるとじわりと熱が上がる。しかし鏡で向き合う顔は。
「ジョニィ」
 名前を呟く。
「ジョニィ・ジョースター…」
 自分のよく知る顔だった。
 浴室を出る際、ちらりとベッドルームを見た。リビングにはわずかに存在していたジャイロの個人的生活を示すものがほとんど見つからなかった。静かだ。もう一度、そう思った。
 ソファの上はきれいに片付けられていて、『クマちゃん』はさっきまでジョニィの腰掛けていた椅子にふんぞり返っていた。ジャイロの姿はなく、キッチンから鼻歌が聞こえた。今度はジョニィの鼻にも夕飯のいい香りが届いた。出来上がったリゾットを二皿、両手にジャイロは足でソファを示した。ジョニィは腰掛ける。
「つめろよ」
「え?」
 テーブルに椅子は一脚しかない。そうではあるのだが、そこを占領するのはたかがクマのぬいぐるみではないか。
 しかしジョニィとジャイロはソファに並んで腰掛け夕飯の皿を手にしている。
「黄色い」
「ミラノ風だぜ」
 ジャイロはぱくぱく食べ始める。ジョニィもスプーンで一掬いし、口に入れた。嚥下ももうつらくはない。
 あたたかい食事に、これまでも飢えてきた訳ではなかった。まだこの脚の動いた頃、美味いものは飽きるほどに食べた。ビルの上での生活も出てくる食事は粗末ではなく、寧ろ贅沢なものが毎日のように出された。だが誰かと一緒に食事をすることなど、この二年間全くなかった。隣のベッドだったポーク・パイ・ハット小僧。スープをあげた。カーテン越しの食事。今、ジャイロの距離は近すぎる。
「熱いか?」
「ううん…」
 この男は自分の身体を知っている。ウェディングドレスの存在と、左手の指輪も知っている。そしてエリナという名も、ジョニィ・ジョースターという名も知った。何も尋ねないのは、オレには関係のないこと、だからだろうか。しかしパソコンでもモバイルでも、ネットに繋いで検索すればすぐに素性は知れるはずだ。ジョニィ・ジョースター。世間から二年間姿をくらましただろうが、ジョッキーとしての栄光…残した成績は事実である。確かに過去自惚れてはいたが、しかし自負もある実績だ。それに自分は白昼撃たれたのだ。きっと事件の記録が残っている。
 本当にこの男は我関せずを貫き通すだろうか。
 知られたところで構いはしない。問題はこれからだ。ディエゴの生死を確認し、どう生きるか、あるいは死ぬかだ。そのためには血のついたTシャツとぴっちりしすぎたジーンズにサイズのあわない靴、左手の指輪だけでは不足だった。今宵眠る場所は確保したものの、明日食べるものもない。
 ジョニィはちらりと隣を盗み見た。ジャイロ・ツェペリはもうほとんど皿を空にしたところで、すぐに視線に気づいた。
「美味いだろ」
「…うん」
「後で薬飲めよ」
 所持品に追加だ。薬、一週間分。
 毎度、非常口で自分を捕まえた男だ。夜勤明けでわざわざ脱走患者を待ち伏せた男だ。朝が来たからといっていきなり放り出す、ということもないだろうが。
 眠そうにあくびをした主の寝室は早々に電気が消えた。昨夜から寝ていないのだ。ジョニィはソファに座り込み、じっと考えていた。ポケットにはびた一文ない。たとえ明日の朝食をジャイロが出してくれたにしろ、その先にはどうしても金が必要だった。グラウンド・ゼロにくらい歩いて向かってもいいが、その先生きるにしろ何にしろ、ニッケル硬貨さえ手持ちがないのは厳しい。
 自分の持ち得る通貨は何であるか。ジョニィに逡巡はほとんどなかった。今更何を汚れるとも思わなかった。汚辱なら、その煮詰まった鍋の底に二年間肉体も精神も浸したのだ。惜しむものも、恐れるものもない。
 ジョニィは立ち上がり、Tシャツを脱ぎ捨てた。九月の夜気が胸に触れる。はりついたようなジーンズを脚を揺らして脱ぎながら、それなら目の前で娼婦の真似事でもしてみせれば効果が上がったろうかと考えたが、真似事も何も、考えたこともこれからやることも娼婦のそれに違いなかったのである。