サクロサンクトサクリファイス 9
廊下の角を曲がる。ニコラスが佇んでいる。じっと見つめている。 関係者以外立ち入り禁止のドアを開ける。ニコラスが佇んでいる。じっと見つめている。 業務用エレヴェーターのボタンを押す。扉が開くとニコラスが佇んでいる。じっと見つめられながらジョニィはその中に乗り込む。 一階の廊下を光の射す方へ。非常口は真っ直ぐ突き当たりだ。嵌め込まれた窓のガラスが白く輝いている。廊下はもの音一つしない。自分の足音も聞こえない(裸足だからだ)。だがあのドアの向こうには街があるのだ。生きた人間が、ビルの七十八階から見下ろすと蟻のようだった人々が群れをなして歩いているのだ。雑多に、行き先も生き方もてんでバラバラに。ここは自由の国、自由の女神の足下、ニューヨーク、マンハッタン。 「ジョースター」 呼び止める声は既に怒声ではない。ジョニィは振り返る。そして動けなくなる。そこにはジャイロ・ツェペリが立っている。 脚がふらついた。ジョニィは壁にもたれかかり、唇を尖らせてジャイロを見上げた。 「何度目だ?」 一週間で四度目だった。 車椅子で病室に連れ戻されながら考える。 これまでに分かったことが幾つかあった。 まずこの逃げ道を教えてくれて自分は実際自主退院に成功したポーク・パイ・ハット。あの小僧はスリだった。同じ病室の患者から聞いた話だ。 病室。この身体は女のものだと思われているのに男の多い病室に入っている。が、不快に感じたことはない。寧ろトイレに行く際、女性用に入らなければならないことの方が躊躇した。これまでこんな形で自分の身体が女だと思い知らされたことはなかった。 脚。不思議だ。二年間、実はそれなりに充実したリハビリで少しは動くようになったが、それでも補装具や歩行器の助けがなければ歩くことはできなかった。だが今は動く。歩くことはおろか、走ることもできる。歩こうと思い、心が迷わない限りジョニィは歩けるのだ。まるで魔法のようだと思う。心が揺らぎ迷った瞬間に歩けなくなる。条件附きで効力が切れる、そんなところまで魔法だ。 歩いてどこへ行こうというのか。勿論、外だ。ツイン・タワーと呼ばれたあのビルのあった場所へ行かなければならない。ジャイロはブラックモアを追い返すのにPTSDという言葉を使ったが、ジョニィはテレビであのビルの跡地を見ても、また飛行機衝突の瞬間や在りし日のビルの姿を見ても取り乱したりナーバスになることはなかった。ジョニィにとってグラウンド・ゼロと呼ばれるようになった跡地の意義はただ一つ、あれがディエゴ・ブランドーの墓標となったか否か、だ。 あの瓦礫の山にディエゴの死体は埋まっているのか、それを確かめなければならない。ブラックモア、マイク・Oという二人の男の出現により、ジョニィの確信は揺らいでいた。自分は七十八階から落ちて助かった。ならば、ディエゴもビルの倒壊する前に脱出し救助された可能性もあるのではないか。ニュースに曰く、飛行機の衝突からビルの完全な倒壊までの時間は一時間四十二分。あり得ない話ではない、か。 ディエゴが死なない限りジョニィの人生の時間はビルの七十八階にいるのと変わらない。止まったままだ。もしも確かにディエゴが死んだならば、もう一度自分の人生に立ち向かうことができる。非難を込めたニコラスのガラス玉のような目に向き合い、今度こそ贖罪の道を探す。その為に生きていく。 ではディエゴが死んでいなかったら…? また、分かったことにはこれも付け加えなければなるまい。ジャイロ・ツェペリ。七十八階から飛び降りた自分を抱きとめ病院まで運んだのはジャイロだと、ジョニィはもう確信している。だからこそジャイロは自分にこれだけ親切なのだろう。ジャイロ・ツェペリ。しかし他のことはほとんど何も分からない。若い医者。法に強いという噂。その他には? 金歯にはGO!GO!ZEPPELIと彫られている。イタリア人らしい。他には? おはようの挨拶、――時々はおやすみも。不意に投げられる穏やかな眼差し。柔らかな掌。それに触れるとジョニィは混乱する。分かっていることさえ分からなくなる。ジャイロ・ツェペリという男は一体…。 その瞬間に迷ってしまう。名前を呼ばれただけで脚は動かなくなる。この二年間はナイフで刺されるまで立ち止まろうとしなかったのに、たった一週間でもう四度、捕まっている。ただ、名前を呼ばれただけで。 車椅子に乗せられて運ばれながら、今はまだ不機嫌を装うことができるし実際ジャイロに怒られながら拗ねてはいるのだが、ジョニィは素直になってしまいたいという欲求に抗わなければならなかった。まだ自分を隠さなければならない。エリナという名前とジョニィ・ジョースターが繋がってしまわぬよう。それを誰かに、特にブラックモアとマイク・Oの二人に知られないように。視線は毎日のように感じる。二人は毎日病院にやって来て遠くからジョニィを見ている。だが。 「ジョースター」 自分の本当の名前を呼ぶ声があまりに簡単に胸の奥まで刺さってしまうので、ジョニィは軽く指を噛んで耐えなければならなかった。 「人の話聞いてんのか」 「聞いてるよ」 「本当に分かってんのか?」 「分かってるよ」 「次はねーからな」 でもやっぱりジョニィが逃げ出せばジャイロは追ってくるのだと思う。幼い頃、広い屋敷で兄とやったかくれんぼ。ニコラスは最後には必ずジョニィを見つけてくれた。それと同じように…。 「あっ…」 小さな声を上げ、ジョニィは廊下ですれ違った人影を振り返った。見覚えのあるブーツ。 ニコラス? 「どうした」 ジャイロが脚を止めて尋ねる。 二人で振り返った時、ブーツも人影も見えなくなる。あるのは病院の、陰気な忙しさ。 「やっぱ聞いてねーだろ」 ジャイロが上から顔を覗き込む。 「大事なことだからもう一度言ってやるぜ。次は、ない、からな?」 「分かってる」 ジョニィは目を逸らし、同じ言葉を繰り返した。 「次は、ない」 人は未知の世界に触れ、飛び込むことで成長するのだ、とジョニィは思った。 ポーク・パイ・ハット小僧との出会いは悪いものではなかった。彼はまず病院から逃げ出す自由を教えてくれた。その方法も。一緒について逃げようとしたのを含め五回それは失敗しているが、失敗は成功の母という格言もある。 もう一つ教えてくれたものがある。それは直接的なものではなかったにしろ、ジョニィに一つの方法を示した。今、ジョニィは一階の人間溢れるロビーを堂々と横切っていた。誰もすれ違うジョニィを振り返る者はいなかった。ジョニィの姿は人混みにまぎれ、馴染んでいた。身に纏っているのはいつもの薄い患者衣ではない。ピンク色のTシャツは胸元がかなり緩かったが、わざわざ注視される程ではない。ジーンズはぴっちりしすぎている。だがその圧迫感が、逆にジョニィに自分の脚が動くことを実感させた。靴は小さかったので踵を踏み潰している。 全部盗んだ。そうしようと決めてしまえば、すんなり実行できた。悔いの言葉は吐かなかった。 迷わない。 ただそれだけだ。迷ってはいけない。歩き続けなければならない。この病院を出て、グラウンド・ゼロへ向かわなければならない。ジャイロは昨夜当直だった。昼前にまた顔を見かけたが、流石にもう病院にはいないだろう。既に日が暮れようとしている。 ジャイロはもう追いかけて来ない。そうでなければならないのだ。本当に外へ出ようと思うならば。 大きな扉の前に立つ。背後のざわめきが潮の引くように聞こえなくなる。雑踏は目の前に広がるものなのだ。夕暮れのニューヨークの街並み。ドア一枚向こうにそれがある。ガラス一枚がそれを隔てている。 耳をすませるが誰の足音も聞こえない。ニコラスのブーツも見えない。 選ぶのは自分だ。 踏み出すのは自分だ。 ジョニィはドアに手をかけた。 扉が開いた瞬間、包み込んだ空気は懐かしい秋の匂いだった。排気ガスとアスファルトの匂い。寒くなる季節を目の前に足下から立ち昇る匂い。 たくさんの人の歩く足音。車のエンジン音。どこかからクラクションの音。 街灯。ネオンサイン。ウィンドーの明かり。流れるヘッドライト。 数え切れない人間が、いる。生きて動いている。ジョニィの目の前で。 すぐ目の前で。 脚が止まった。怖じているのか? ようやく憧れの地上に戻ったのだ。行きたい場所に行ける。自分は自由だ、否、やるべきことがある。迷いはない。脚を動かせ。あのビルの、二年間自分を閉じ込めた牢獄の跡へ行くのだ。 だが再び脚は止まった。 どっちへ行けばいいのか。ジョニィはこの病院の場所さえ知らなかったことに、たった今気づいた。 思わず舌打ちがもれる。最初の一歩で途方に暮れるなんて…。 「ジョースター」 心臓が跳ねた。名前を呼ぶ声に刺し貫かれて身体から飛び出したかと思うほどだった。ジョニィは振り返り、彼以外にはいない、しかしそこにいるなどとは露ほども思っていなかった男が不機嫌そうに自分を見つめているのを確かめ、蹌踉めきそうになった。 ジャイロ・ツェペリだ。ここで自分の名を呼んでくれるなど、この男しかいないのだ。 「退院おめでとう」 「……え?」 「次はないっつったろ」 病院の壁にもたれかかっていたジャイロはひょいと身体を起こすと、手を伸ばして紙袋をジョニィに押しつけた。 「薬。一週間分だ。今まで通り飲めよ」 「…ジャイロ…?」 「じゃあな。おまえさんの健やかなる未来を祈るぜ、治療費泥棒。…ああ、服もか?」 「ジャイロ、これは…!」 だがジャイロはジョニィが意味のある言葉を発する前にくるりと背を向けて雑踏の中歩き出していた。ジョニィは考える間もなくその背中を追った。 「ジャイロ!」 「ついてくんな」 振り返らずジャイロは言う。 どこまでも歩いた。ウィンドーの明かりに照らされて、工事中の看板を避け、横断歩道を幾つも渡る。ジャイロの背中とジョニィの間には一定の距離があった。それは崩れず、ジャイロは決して振り向かず、そして歩調を速める訳でもなかった。ジョニィはただその背中を追って歩き続けた。脚は動き続ける。大丈夫だ、蹌踉めかない。 アパートに辿り着く頃、空は真っ暗で久しぶりに間近で見る街灯の明かりは寂しかった。煉瓦造りのアパートの暗い入口にジャイロの背中は消えた。ジョニィは迷わずその後を追った。 そこにあったのはエレヴェーターではなくて螺旋階段で、既に段を踏んでいるジャイロはちらともこちらを見なかった。ジョニィも足を速め階段の下に立つ。手摺りがついているのだ。恐れる必要はない。一段、踏み上がる。大丈夫だ、上れる。あの背中を追いかけられる。迷わない。 しかし一歩一歩と二人の距離は開いていった。一段ごとに背中が遠くなる。ジョニィは手摺りを握りしめ、懸命に階段を上った。不意にジャイロの足音が聞こえなくなった。顔を上げる。 「ジャイロ!」 大丈夫だ、いける。走れる。瓦礫の上だって走ることができた。 ジョニィはもう足下も見ず階段を駆け上がった。廊下に出るとドアの前でジャイロが佇んでいた。ほとんど無表情で、息を切らすジョニィに半分の興味と半分の無関心の視線を投げていた。 「ついてくるなとオレは言ったぜ」 「…知らない」 「本当に人の話を聞かねーよなあ、おたく」 ジョニィは壁に手をつき、身体を支えた。 「助けてよ」 「は?」 本当に何を言っているのか理解出来ないという顔をジャイロはした。 「今、おたく、何つった」 「助けてよ」 ジョニィは唾を飲み込み、息を整え言った。 「ビルから落ちた時も助けてくれたんだろ。助けてよ」 「…何か勘違いしてるんじゃあねーのか?」 「知ってるんだ。ウェディングドレスを見た。血がついてた。君の血なんだろ? 君が助けてくれたんじゃないか。だから病院でだって親切にしてくれた。何度も連れ戻してくれた」 「落ち着けよジョースター。いいか、確かにおまえにはオレの行為が親切に思えたかもしれない。だがそれはおまえが患者で、オレが主治医だったからだ。それ以上の意味はない。それにおまえはもう退院しちまったんだろうが。自分の意志でそれを選んだんだぜ、ジョースター。オレはもうお前の主治医でも何でもねーんだ。おまえに構う義理はないね」 「…人でなし」 「何とでも言え」 ジャイロは鍵をさし込む。 「じゃあ、助けてよ」 「はあ?」 口を開けて疑問符を吐き出したジャイロに、ジョニィは壁から手を離し一歩近づいた。 「目の前で女の子が困ってるんだから、助けてよ」 「断る」 「どうして」 ジャイロはいっそう無表情を作って言った。 「部屋に女は入れない。まして人妻はな」 冷たい視線が左手に注がれた。薬指に輝く指輪。外れない。どうしても取れなかったのだ。 「おたくは確かにかわいそうかもしれないが、オレにしてやれることはもう終わった。まあ助言くらいはしてやってもいい。後は警察なり何なりを頼れ。それが一番だ」 「警察は…駄目だ」 「じゃあ好きにしろ」 「泊めてよ」 「いい加減にしろ!」 声は強く鼓膜を打ち、廊下の空気も震わせた。 「オレは部屋に女は入れない。絶対にだ。二度言ったぜ。分かったな?」 これで最後だと言うかのように視線が外れた。 ドアが開く。ジャイロはこちらを見ない。部屋の中の暗がりへ、その姿は隠れようとする。 勘違いだ? 医者と患者だから親切にしただけ? 部屋に女は入れない? ジョニィは両脚を踏みしめ、拳を握る。 こっちだって決めたのだ。迷わない。この背中を追いかける。迷ったら、もう歩けない。 息を吸い込む。喉が鳴った。かすかに走る痛み。 だがジョニィは肺の息を全部吐き出す大声で叫んだ。 「ぼくの名前は…!」 エリナ・ジョースター。 ただのジョースターでいい。 フィアンセのエリナです。 お前は永遠にエリナ・ブランドーだ。 違う。本当は知っている。この肉体と魂につけられた名前はちゃんと胸の奥に存在していた。 ぼくの本当の名前は。 「ジョニィ・ジョースターだ!」 鼻血が一筋、唇の上から顎を伝ってTシャツの緩い胸元に落ちる。ぬめる唇を舌で舐め、ジョニィは低く声を吐き出した。 「…これなら文句ないだろ」 ドアを開けた格好のまま、ジャイロ・ツェペリはひどく苦しそうな目をしてこちらを見ていた。 |