サクロサンクトサクリファイス 8




 沈黙の中で自分の心臓の鼓動だけが聞こえる。指先がだんだん冷たくなって手が氷のようになる。脚と同じように、動かないただの肉の塊になる。その中で考える。ただ一つのことだけを考える。
 自分は何者なのか。
「スイませェん…」
 ブラックモアと名乗る色白の男は申し訳なさそうな顔をした。
「ごく…簡単なことをお尋ねしているだけです…。簡単なことです……。名前です、あなたの名前…」
 名前。
 自分は何者なのか。
 ベッドに腰掛け膝の上で組んだ両手を見下ろしたまま、ジョニィは答えない。あまりに長く続く沈黙を破ったのが先のブラックモアの科白だったが、そこに込められているのは申し訳なさでもいたわりでもない、有無を言わさぬ強制力だ。
「あなたの名前を…教えてください…ミス?」
「どうあっても口を利かない世界か?」
 隣の黒人、マイク・Oが尋ねた。
 二人は刑事だと名乗った。それを信じても信じなくてもジョニィにとっては同じことだ。
 エリナという名前を出せばどうなるか。
 当時ビルの中にいた人間のリストがあった場合、ジョニィは確実にエリナの名前で記されているはずで、そうなれば婚約者、あるいは既に夫として書かれているのはディエゴ・ブランドーだ。
 たとえリストがなかったとしても安心はできない。自分の外見とエリナという名前がどういう意味を持つのか。本当の意味を知っているのはディエゴとその限られた部下だけだろうが、エリナがディエゴの婚約者だと知る人間は思いの外存在する。そのほとんどがセレブで、すぐに情報が繋がらないとしても、この顔を見られればすぐディエゴに繋がるだろう。ジョニィは自分の顔には自信があるのだ。あのディエゴの美しい婚約者として、元大統領と共にヴァージンロードを歩いた女性として、自分はそうそう他人に忘れられない。
 ではジョースターと名乗ってはどうだろう。
 目の前の二人が治安と正義を守る警察官だとすれば、ここで助けを求めない手はないはずだ。しかし本能が警鐘を鳴らす。ジョニィ・ジョースターと正直に名乗ったとして、その先に暴かれるだろう真実を考えると吐き気がする。たとえ自由を求めるとしても、この肉体、この存在が即ちジョニィ・ジョースターだと知られる訳にはいかないのだ。
 それに警鐘はもっと深い部分で鳴っている。ヤツらを信用するな。そもそも本当に刑事なのか、その証拠も見ていない。本当はディエゴの一派の手先ではないのか。そもそもディエゴは…。
 ジョニィはぎゅっと手を握りしめた。ディエゴは死んだはずだ。あの状況で生きている訳がない。降り注いだ瓦礫の山。崩れ落ちたビル。生きているはずがない。
 病室も静まりかえっている。誰も閉ざしたカーテンの向こうで息を潜めている。じっと聞き耳を立て、こちらを窺っている。
 もったりと湿った溜息が聞こえた。
「たったのひとつだけなんです…」
 ブラックモアは憂鬱そうな目でジャイロを見た。
「ドクター?」
「ツェペリだ」
「ドクター・ツェペリ、あなたは話していないんですか、彼女と…。カルテはどうなっているんです…?」
「おたくらもご存知だろうが、正当な理由なしにカルテの開示なんかできないぜ」
「ええ…存じています……。だからね、名前……名前だけです、わたくしたちが知りたいのは……」
 ジョニィは顔を上げない。目の前には誰か立っている。ニコラスだろうか。見届けるために現れたのだろうか。
 ジャイロが答えようと息を吸う、そのかすかな音まで聞こえた。
「あいにく」
 金歯を見せてジャイロは笑う。
「このお嬢さんはオレにも喋っちゃあくれねえのさ。だから一生懸命ご機嫌取ってたところだよ」
 言わないのか…、と。急にジョニィは脱力した。ジャイロは自分の名前を言わなかった。エリナとも、ジョースターとも。庇ってくれたのか。何故、彼がそうする必要があるのだろう。
 そして守られた自分は何なのか。ジョニィは目の前に佇む男を見る。見覚えのあるブーツを履いている。ニコラスのブーツだ。ジョニィが借りようとして、父が許さなかったブーツだ。父が、死ぬべきはお前だったと言った時、彼の腕から奪い取ったブーツだ。
 今しも追いつこうとする宿命から、ニコラスの裁きから逃れて、自分はどこへ行こうというのだろう。エリナでもない、ジョースターでもない、自分は一体何者で何のために生きているのか。背負った罪の償いさえしない、徹底的に無価値な肉体…。だからこそディエゴのトロフィーだった。ディエゴに所有されなくなった途端、本当に自分はゴミ以下になったのだ。クソ以下だと心の中で見下していた男の手から離れて!
 視界が滲む。ニコラスのブーツが見えなくなる。大粒の涙はぼとりと拳の上に落ちた。それからは止まなかった。厩の雨漏りのように、壊れた蛇口のように、ぼとぼとだらだらと顔を汚し拳や太腿の上に落ちた。しゃっくりが出た瞬間、嗚咽が口をついた。
「ブラックモア」
 マイク・Oがやれやれといった風に口を開く。
「まるでオレたちが悪者の世界だ」
「スイませェん……わたくしたちは何も…ミス…あなたをいじめている訳じゃあない…。それとも…」
 ブラックモアの視線は左手薬指に注がれる。
「ミセスと呼ばなかったのがお気に障ったので…?」
「刑事さん」
 ジャイロがベッドから一歩離れブラックモアを促す。踵を返したブラックモアに代わって、マイク・Oがジョニィを見つめる。
「おたくらにも仕事があるだろうが、こっちも患者を治す商売だ。この患者はあの瓦礫の山から救い出されて昨日昏睡状態から目覚めたばかりなんだ。PTSDって言葉は知ってるだろ、おたくもよぉ。もし、仮にだ、おたくらのしたことでオレの患者が不安定になったり世を儚んだりすることがあればだな…」
「ああ…聞いたことがあります。スティール総合病院には法にも強い医者がいる……あなたでしたか、ドクター・ツェペリ」
「よろしく頼むことにならなきゃいいがな、ブラックモア刑事」
「…今の物言いは、正義感の強い医者として患者を思う余りだと受け取ることにします」
 背中で遣り取りを聞いていたマイク・Oが名刺を取り出し、ジョニィの膝の横に置いた。
「何か思い出した世界があれば、連絡を」
 二人が病室を出ると、周囲のカーテンの向こうからもほっと息を吐くのが聞こえた。ブラックモアはちらちらと何度も振り返りながらだったが、その姿もとうとう廊下の向こうに消える。しかしそれを見ていたのはジャイロだけで、ジョニィはまだ顔を上げなかった。嗚咽は止んでいなかった。
「おたくの事情を訊くつもりはない」
 ジャイロはマイク・Oの名刺を取り上げ、尻のポケットに突っ込んだ。
「オレには関係のないことだ」
 ジョニィは白い袖で涙を拭った。まだジャイロの白衣を羽織ったままだった。
「すまない…」
 まだ揺れる声で言う。
「迷惑を…」
「あいつらの方が迷惑だっつの。おたくの病状が悪化したらその時は迷惑だけどな、治すのがオレの仕事だぜ?」
 顔を上げると、ジャイロは軽く眉を寄せて笑った。
「美人が台無しだな」
 揶揄だが怒る気にはならなかった。自分の顔がいいことを、ジョニィは知っている。
 かく言うジャイロもそこそこにひどい顔をしていて、そう言えば昨夜の夜中も彼はいたが…、と思ったら当直明けでまだ居残っているのだ。
「その…」
「おたくのせいじゃねーって。大体こんなもんだ。もうマジで帰るけどな」
 ジョニィは溜息をつき、自分が溜息をついたことにも気づかなかった。カーテンを閉めようとしていたジャイロはニヤニヤ笑いながら一歩戻る。
「寂しいか?」
 図星、だったのだ。
 しかし顔を真っ赤にしたジョニィをそれ以上からかわず、ジャイロは手を振った。
「次に会うのは明後日だな」
「あの……」
 呼び止める。するとまたあの視線だ。静かで穏やかで、見守るような。
「助かった…」
 もう一言、付け加えた。
「おやすみ」
「グラッツェ」
 当たり前のような挨拶にありがとうで返されることもあるのかと思う。ジョニィにとっては勇気を振り絞らなければ出なかった言葉はきちんと受けとめられて、更にジョニィの知らない感情となって返って来た。
 最後の涙を袖で拭いた。白衣を結局ジャイロは持って帰らなかった。しかしジョニィには洗って返すだけの金もない。自分には何もない。残されたのは指輪と。
 ベッドの下を覗き込んだ。プラスチックのカゴにウェディングドレスが入っていた。灰で煤けてはいたが、覗き込んでハッとするほど、それはまだ存在感があった。ジョニィはそれを手に取り、息を呑んだ。
 血がついている。だがジョニィの身体に血の出たような傷は見当たらない。血は、胸の上、背中、ドレスの裾に付着していた。
 誰かの血なのだ。自分を病院まで運んだ誰かの。
 ジョニィはカーテンを見つめた。たった今立ち去っていった男を思い出した。額の絆創膏。握手をした掌。
 ジャイロ・ツェペリ。
 ドレスを抱いたままリノリウムの床にへたりこむ。しばらく、立てなかった。