サクロサンクトサクリファイス 7




 短くベルの音が鳴った。耳の奥に突き刺さるような古風なベルが一度、ジリリと。
 ジョニィは目を覚ます。首を傾けるが時計はない。ベッドの周囲は水色のカーテンに覆われている。狭い。カーテンの向こうから唸る声が聞こえる。
 あの部屋ではないのだとジョニィは自分の心にじっくり実感させた。消毒液の匂い、カーテンで区切られた狭いスペース、人の気配。全て、何もかもが違う。ここはあのビルの階数も知れない部屋ではない。ベルの音は空耳だ。自分はもう指定された衣装を身に着けて七十八階に行く必要はないのだ。
 ここは安全だ。
 まだ夜中のようだった。足音が近づいてきて隣のベッドで止まった。暖色の小さな明かりが点けられ、カーテンがぼんやりと明るくなる。輪郭の曖昧なシルエットのようなものが見える。唸り声は続いていた。聞き覚えのある声が、どうした、と低く柔らかい声で尋ねた。
「ツェッペリン先生」
 唸りが止み、嗄れた声が幼稚な喋り方で言った。
「オイラ死ぬのかなあ」
「死なねーよ。どうしてそんなこと考えるんだ」
「だってみんな死んじまったんだ。死んじまったら誰もいなくなるんだ」
 またその話か、と別のベッドから声が飛んだ。隣のベッドの患者は一際大きな声で唸った。うるさいぞ!と声。
「小僧。こら、ポーク・パイ・ハット小僧」
 やさしくはないが親しみを込めた、年下の弟を叱るような声だった。
「おめーなあ、このジャイロ・ツェペリ先生が治療してやってんだぜ? 簡単に死ぬもんかよ」
「でも分かんねえよ。オイラもうすぐ死ぬかもしれない」
「よく聞け、小僧。おめーは馬鹿だ」
「うう、ああ」
「馬鹿は風邪ひかねーし、馬鹿は死ななきゃ治らねーんだ。つーことはだ、馬鹿なおめーは死ぬのか?死なねーのか?」
「えーと、馬鹿は風邪ひかねえ」
「そうだ」
「馬鹿は死ななきゃ治らねえ」
「じゃあどうなる?」
「オイラは馬鹿だから死なねえのか!」
 そいつぁ馬鹿だ!という目の覚めてしまった周囲のヤジの中、カーテンの向こうのジャイロ・ツェペリは「そのとおり」と重々しく頷いた。
「分かったら寝ろ」
「オイラ馬鹿でよかったなあ」
「まったくだ」
 明かりが消え、隣のカーテンの閉まる音。ジョニィは再び舞い降りた夜闇の中で息を潜める。
 音を立てずにカーテンが開いた。薄く射す明かりの中で見えたジャイロの姿は完全なシルエットだった。ジョニィの顔は半分、そのうすぼんやりした青白い明かりに照らされていた。
「起こしたか?」
 低く小さな声で尋ねられた。ジョニィは首を振った。
「おやすみ」
 囁いてカーテンは閉められる。シルエットの中で彼は笑ったのかな、と思う。昼間見た金歯の輝きが耳の中でキンッという音になって古風なベルの音を退けた。
 おやすみ、か。何年ぶりに聞く言葉だろう。隣で死の恐怖に怯え唸っていた子供にも言ってやればいいのにと思いながら瞼を閉じる。病室はあっという間に静けさの中に落ち着き、また息を潜めるような寝息だけが漂う。
 瞼を閉じてもしばらく起きていた。おやすみ。その一言がひどく優しくて眠れなかった。

 翌朝ジョニィは初めて朝食の時間に起きた。スープのような、ただのお湯のようなものを出され最初は足りないと思ったのだが、炎症が酷いという喉は一口スープを飲み込むたびに激痛に見舞われ、結局空腹なのに半分を残してしまった。
 そう言えば何故ちゃんとした病室にいないのだろうと思っていたが、一人一人を個室にあてがう余裕もないのだ。聞けばどの病院も満床らしい。テレビは朝から瓦礫の山を映し出していた。そうだろう。ビルが丸々なくなってしまったのだ。
 んめえー!と隣から声が上がる。昨夜と同じ嗄れた声、そして幼稚な感じの声の上げ方。好奇心からそっとカーテンに手を伸ばした。そしてギョッとした。
 隣のベッドにいたのは確かに少年だったろうが、ジョニィが予想したどんな姿もしていなかった。勿論、怪我はしているだろうと思った。自分が死ぬかもと思い込むくらいだ。ミイラ男のように包帯だらけかもしれないと。その方がよかったかもしれない。まず目についたのは焦げた髪の毛がまばらに生えただけの頭だった。小僧と呼ばれるその少年はスープの皿に直接口を近づけ、動物のような行儀の悪さで食べ散らかしていた。顔の半分が真っ黒に見えたのは鬱血しているせいで、ジョニィは自分と一緒に降り落ちる瓦礫の雨を思い出す。あれを顔面に食らったのだろうか。ギョロ目で口も大きく造作のアンバランスさは、おそらく年齢以上に彼を幼く見えさせていたが、昨夜の会話を思い返すに精神年齢も幼いようだ。
 くるり、と小僧――ポーク・パイ・ハット小僧は首を巡らせジョニィを見た。鬱血していない側の目がジョニィを睨みつける。
「なに見てんだよぉ」
「それは…」
 ジョニィは相手の顔を直視できず、皿を見た。
「美味いって聞こえたから」
「やんねーぞ」
 ポーク・パイ・ハット小僧は皿を抱き込む。取らないよ、とジョニィは何故か弱々しく言った。
「オメエ、それ、スープか」
 ジョニィが半分残した皿をギョロ目が眇める。
「…食べる?」
「いいのか!」
 うひょおっ!とポーク・パイ・ハット小僧は声を上げた。
「オメエ、いいやつだなあ!」
 ジョニィは手を伸ばして皿を手渡すと、カーテンを元に戻した。向こうからは、うンめぇー!とまた感激した声が聞こえた。ジョニィにはほとんど味のしない代物だったのに。
「朝っぱらからうるせーなあ」
 聞こえた声にジョニィはハッと顔を上げた。と言ってもカーテンしか見えない。ポーク・パイ・ハット小僧が、ツェッペリン先生!と声を上げる。
「分かったから唾飛ばすなスープ飛ばすな。おい小僧、皿が多いんじゃあねーのか?」
「もらったんだぜぇ」
 隣のやつはいいやつだ、という言葉と一緒に乱暴にカーテンが開けられる。ポーク・パイ・ハット小僧が首を突き出して尋ねる。
「オメエ、名前なんてゆうんだ」
 名前を。
「…ジョースター」
「…ジオシュッター」
「ジョースター」
「ジオーシュッター」
 ジョニィが思わずいらっとしたのを顔に出す前にカーテンから手が離れ、ジオシュッターだぜ、ジオシュッター、と小僧はジャイロに向かって自慢げに言った。
 通路側のカーテンが開けられる。ジャイロがひょいと顔を出し、いいのか?と口の形で尋ねた。ジョニィは掌で喉を押さえて見せた。するとジャイロはうなずきウィンクを一つ寄越して、またちょっとカーテンの向こうに消える。皿は舐めるなよ、と言い聞かせるとポーク・パイ・ハット小僧の不満そうな声。
 ジャイロがやって来た。ジョニィはまた息を潜めた。
「おはよう」
 その一言を朝から聞くことがあまりにも新鮮で、カーテンの向こうに射す朝日も自分の知る太陽の光とは別の、キラキラしたもののように思える。
「おは…」
 喉が詰まった。痛いのではない。緊張している。おはよう…、と俯き加減にジョニィは呟いた。
「昨夜、あの後眠れたか?」
 黙って頷く。
「朝食、ほとんど食べてなかったみたいだが…」
「喉が」
 ジョニィはわずかに顔を上げ、さっきと同じ仕草をした。
「飲み込もうとすると、凄く、痛くて」
「吐きそう?」
 首を横に振る。
 失礼、と囁きジャイロが手を伸ばす。首に触れ、顎に触れる。ジョニィはまた強く目を瞑って口を開く。カチ、とライトで照らすような音。
「飲み込むのはつらいかもしれないが、咳はどうだ?」
「あ……」
 昨日ほどの息苦しさはない。
「あんまり出てない」
「薬は効いてる。心配すんな」
 触れる指先はその言葉直接喉に言い聞かせるかのようにあたたかい。
 やおら、それが離れるのをジョニィは薄目を開いて見送った。ジャイロと目が合う。彼は不意に真面目な顔をする。
「あ…ありがとう」
 間を持たせようと、ジョニィはこの二年、いやそれ以前を溯ってもほとんど言ったことのない言葉を吐いた。
「ありがとうございます、ツェペリ先生」
「ジャイロでいい」
 彼はまたそう言った。
「ミズ・ジョースター」
 ジョニィは強く首を振る。
「ミスとかミセスとか、そういうのいらない」
「じゃあ…」
 ジャイロの視線はちらりと左手薬指に注がれた。銀色の指輪。
「エリナ」
 くっとジョニィの喉が引き攣り、大きく見開いた目がジャイロを見る。それは別に責めている訳ではなかった。怒ってもいなかったが、ただエリナと自分を呼ぶ姿の向こうに様々なものを見たのだ。
 過ちで踏みにじった過去。
 罰を背負わされた証明たる名前。
 エリナ・ブランドー。
 Dio。
「すまない、馴れ馴れしかった…」
「そうじゃない」
 ばつの悪そうなジャイロの科白と途中で遮る。
「ジョースター」
 大事にその名前を吐いた。
「ただのジョースターでいい」
「ジョースター」
 微笑む瞳が向けられた。ジャイロの笑みは全体品がなかったが、一つ納得したような彼の目はしんと静かで視線が心地良かった。
「ありがとう、ジャイロ」
「イッツ・マイ・プレジャー」
 入れ替わりにナースがやって来て点滴を打ってくれた。隣のベッドからは皿を下げられようとしてぐずるポーク・パイ・ハット小僧の声が聞こえた。

 午後、フロアの空気がざわついた。ジョニィは空腹もあってひたすらぼんやりしていたので、それは遠いざわめきにしか聞こえなかった。しかし。
「やべえ、サツだ!」
 ポーク・パイ・ハット小僧の叫びに意識が戻る。
 小僧はフロアのどこかを覗いてきたらしく、慌ててベッドに飛び乗ったり跳ねたりする音が聞こえた。
「…警察?」
 思考は言葉になる前に様々な恐怖に結びつく。ジョニィはがばりとカーテンを開けた。
「警察が来てるのか?」
「ああ!」
 ポーク・パイ・ハット小僧は病院着を脱ぎ捨てるとベッドの下にあった自分のものらしい服を掴んだ。ボロボロのオーバーオールと靴、それだけだ。
 裸になると小僧の身体中の傷、胸に巻かれた包帯とそこに滲む血が露わになったが、ジョニィはもうそれに構っていられなかった。
「どこに行くんだ」
「逃げるに決まってるじゃねぇーかよぉー」
「ヤツらは何度も来てるのか?」
 オーバーオールに足を突っ込み、ポーク・パイ・ハット小僧は動きを止める。
「オメエもヤバイことがあんのか、ジオシュッター」
「答えろ、警察は何度も来ているのか」
「ビルがぺっしゃんこになってからは、オイラ、はじめて見る」
 警察が来た。身元を確認しに。身元の確認が必要な人間も――きっと死んだ人間も山といるだろう。警察の、お役所の仕事だ。一人一人、誰が生きていて、誰が行方不明で、誰が死んだのか調べる必要があるだけだ。しかしジョニィは胸騒ぎがする。警察が近づいてきていると思うと、もう一秒だってここにはいられないような焦りが湧き起こる。
「来るか?」
 靴を履いてベッドから飛び降りたポーク・パイ・ハット小僧が振り向いた。
「オメエも逃げるか? ジオシュッター」
 一も二もなくジョニィはベッドから下りた。ポーク・パイ・ハット小僧の後ろを早足で追いかけながら、自分が普通に走っていることさえ不思議とは思わなかった。
「抜け道はこっちだぜ」
 ポーク・パイ・ハット小僧は廊下にあった清掃カートを押して、当たり前のように部外者立ち入り禁止の通路に入っていく。
「ほら」
 差し出された帽子をジョニィは被った。カートの角に引っかかっていた清掃員の帽子だった。ポーク・パイ・ハット小僧は角を曲がるたび「ギィー、ガシャン」と声を立て、楽しそうだ。とうとう業務用エレヴェーターに乗り込み一階のボタンを押した時は上機嫌で「ウィーン、ウィンウィン」とワイアーの音を真似した。
 非常口の窓は白く光っていた。この向こうにニューヨークがある。いつも窓越しに見下ろすことしかできなかった街がある。ジョニィの足は震え出す。
「おい、おまえら!」
 大きな声が響いた。ポーク・パイ・ハット小僧は飛び上がり、ジョニィも身体がビリビリ震えた。壁に背中を押しつけ、振り向く。そこにはジャイロ・ツェペリが立っている。
「こんなところにいたのか、おめーらよお」
「オイラはずらかるぜ」
 最初は飛び上がった小僧だが頑固そうにそう言い、非常口のドアノブに手をかける。
 ジャイロは大股で近づいてくるとジョニィの目の前を通り過ぎ、オラ、と手に持っていたものをポーク・パイ・ハット小僧の頭に乗せた。ボロボロの帽子だった。
「病院にゴミ捨ててくんじゃねーよ」
「こっ、これはゴミじゃねえぞ! オイラんだぞ!」
 ポーク・パイ・ハット小僧は擦り切れた帽子を深くかぶり、べえっと舌を出した。
「じゃあな、おじん」
「ツェペリ先生だろーが、クソガキ」
 扉が開く。真昼の光が眩しくジョニィの目を射す。その中、もう振り返ることなくポーク・パイ・ハット小僧の背中は消える。
「さてと、ジョースター」
 ジャイロが振り返った。
「おたくは病室に戻るんだ」
 その言葉を聞き、ジョニィは後ずさって首を振った。
「駄目だ、戻るのは…」
「あのなあ、逃げるとして、そんな格好で外に出て行く気なのか?」
 指をさされはしなかったが、ジャイロの視線はジョニィを頭の先から爪先までしっかり撫でた。ジョニィは彼の視線の刺さった自分の肉体を見下ろす。
 膝丈の患者衣。ワンピースのように羽織っているそれは、素材は薄く、自分の太腿がシルエットになっているのを目にした。
 ジョニィは久しぶりに自分の肉体を見下ろしたのだ。そして自分の身体の秘密を知る者以外の人間の前で、己の身体がどうなっているかをまざまざと認識した。下半身のシルエット。薄いながらも膨らみをもつ胸の先は尖って、薄いブルーの布地を押し上げていた。
 今度こそジャイロを睨みつけると、相手はうんざりしたように言った。
「おい、セクハラで訴えるとかやめろよ。寧ろオレはおたくがその悩ましい格好で外に出て行かないよう助けてやったんだぜ?」
「…うるさい」
「ああ、今のは余計なお世話だったかもな。じゃあ次は主治医の命令だ。ベッドに戻れ、ジョースター」
「病室にくらい!」
 敢えて病室と言い直し叫ぶジョニィの剣幕に、ジャイロは驚いたようだった。
「…自分で帰る……」
 しかしそのままジョニィの身体は壁にもたれ、崩れ落ちた。ジョースター、とジャイロが近づいた。
 ジョニィは脚を見下ろした。ぶるぶる震えている。さっきまで平気で歩いていたのだ。そのことを思い出すと悔しくてリノリウムの床を拳で何度も叩いた。
「やめろ」
 ジャイロの声が聞こえる。
「やめろ、ジョースター」
 腕を掴まれた。全身を満たす悔しさを、憤りを込めたはずなのに、それはあっさりジャイロの手に掴まれてしまったのだ。
 ジャイロは白衣を脱いでジョニィに羽織らせ、脚の動かないジョニィを車椅子に乗せた。
「警察は次の階に行ってるぜ、多分」
 エレヴェーターの中でジャイロがぽつんと言った。
「…本当に?」
「きっとな」
 確かに元のフロアに戻った時、あのざわめきは消えていた。ジョニィはさっき逃げている最中は気づかなかった廊下の張り紙に目を遣った。
 それは壁中を埋め尽くしていた。安否を尋ねる張り紙だ。皆が誰かを探している。家族。恋人。友人。張り紙の中の顔は、どれも笑っている。
 病室の手前でジャイロは立ち止まった。ジョニィも身体を緊張させた。
「悪い」
 耳元に低く囁かれた。
 車椅子はゆっくりと動き出した。病室には二人の男が待っていた。
「スイませェん…。もう少しで帰るところでした」
 色白の男が言った。
「ギリギリ間に合った世界だな」
 顔に刺青を入れた黒人の男が言った。