ストレイナイト







 取り敢えず全世界のジョニィは死んでくれないかなって思うくらいには好きだ、ジャイロがぼくを呼ぶ声が。
 ここまで過激なことを考えるのはセックスの前か後くらいで、後になれば大体鷹揚な気分になって、まあアメリカ全土くらいで許してやるよと思う。でもこの北米大陸でこの男が「ジョニィ」と呼ぶのはぼくだけでありたいと思って、独占欲はそのまま彼を抱きしめる力になる。汗ばんだ背中を両腕でぎゅっと抱きしめるとまた彼が笑う。笑いながらぼくの耳元に囁く。
「ジョニィ」
 勃たないのが本当に残念だ。
 マッキーノ・シティは避暑地らしく夏はシカゴあたりから観光客がたくさん来るって話で民家とか少ない割りにホテルは充実していて、もっと湖畔に近い場所には別荘も多く建っている。その上更に新しいホテルなんかも建っていて、どこもシャワー完備だって。多分これがスティール・ボール・ラン・レースの特需ってやつなんだろう。
 でもぼくらがゴール直後の限界ぎりぎりで疲労しきった身体を休めたのは、もっと古いホテルだった。格式あるとかいうんじゃない。単にボロい。仕方ないんだ…、いつものことだ。倒したばかりとは言え――またウェカピポという男は話の通じる相手だったとは言え――刺客に襲われた今日の今日でゴールした街で、大勢にその姿を目撃された場所で枕を高くして眠れるかという話で…ほんと、レースが始まってから安心できた夜はない。
 と、言いたいところだが。
 今日は。今日という日は、今夜は、こういう慢心が危険なんじゃないのかという頭の隅の警鐘も掻き消してしまうくらい興奮と熱が渦巻いている。
 ゴールの瞬間の歓声が今も耳に、耳だけじゃない、身体中に響いている。
 ぼくらはようやく約束を果たした。ワンツーフィニッシュだ。そう彼が言ったのはサンディエゴのビーチから十五キロ先の地点、九月二十五日のことだった。
 大きく腕を挙げる、ぼくは叫んでいた。雄叫びが歓声と一体になりぼくの中に響いていた。あの瞬間、何もかもを忘れて歓喜に酔った。表彰台の真ん中なんて何度も上ったことがあるのに、どんなレースでも味わったことのない誇り高い感情がぼくを突き動かし、腕を下ろさせなかった。確かに正確な順位においてぼくは二着だったかもしれないが、これはぼくらがつかみ取った勝利だった。
 古いホテルの支配人は喜んでぼくらを出迎えた。シャンペンが開けられ、ぼくらは乾杯をした。部屋はいつでも逃げられるように、裏道に面した日当たりの悪い部屋だったけど、この雪だそんなのちっとも問題じゃない。
 支配人が風呂を用意してくれた。熱い湯をはった浴槽で汗と垢を洗い流し、身体をあたためる。ぼくは湯の中で脚を撫でる。動かない脚。湯のぬくもりも感じない。掴むと芯の部分が冷えたままなのがじんわり伝わる冷たさで分かる。怪我をしてもその自覚さえない脚だ。雪の行軍が続く中よく保ってくれた。
 時間をかけてマッサージしているとジャイロが顔を覗かせる。
「覗き?」
「寝言は寝て言え、ジョニィ。溺れてるんじゃないかと心配して来てやればこれだぜ」
「ううん、タイミング良かった」
 手を伸ばすと、彼は躊躇わずぼくの身体を浴槽から抱え上げた。身体中から湯気が立ち上り、肌の表面が冷えてゆく。
「急いでジャイロ、ぼくが風邪引く」
「おまえなあ」
 ぼくが両手でしがみついたからジャイロの服も濡れる。彼はトップスピードでぼくをベッドに運んでくれて仕返しとばかりにぼくの頭をタオルで覆いぐしゃぐしゃに掻き回す。力が強くて、乱暴すぎる指が痛くて、ぼくは笑いが止まらない。
「おら、本当に風邪引きたいのか?熱でも出してみろ、このまま置いてくからな」
 気が済んだらしいジャイロがぼくの肩にタオルをかけて、駄目押しに頭を一撫で。
「嘘つけ」
 ぼくはタオルで耳の後ろを拭いながら言う。
「ぼく抜きで?レースを?」
「するかもしれないぜ」
「嘘だね」
 するとジャイロは隣のベッドに腰掛け、余裕ぶった笑みを浮かべる。
「オレはやさしくないからな」
「半分知ってるけどさ」
「半分?」
「セカンドステージ、砂漠の…ミセス・ロビンスンと遭遇した時だって君は、ぼくは先に行けって言ったのにさ」
「そんなことあったか?」
「あったよ」
「多分、だろ」
「絶対」
 ジャイロはベッドに腰掛けて動こうとしない。ぼくの荷物はぼくが放り出されたベッドの上に置かれているし、手を伸ばせば下着にだって新しい服にだって手は届く。
 何て言ったもんかな…と頭を掻き、首を傾げる。
「こっち来ないの?」
「どうして」
 湿ったタオルを丸めて投げつけると、回転が足りねーよ、とひょいと掴まれた。
 多分、二秒か三秒くらい彼は考えた。そのくらい長く感じた。結局ジャイロがしたのはくしゃくしゃに丸まったタオルをぽいと後ろに放ってベッドから腰を上げることだ。
「勝利の美酒をいただくにやぶさかじゃあないが…」
 キスをし、間近で囁く。
「ジョニィ?」
 だからさ、全部いいんだってば!
 君がぼくの名を囁いて抱きしめてくれるんなら今はそれがぼくの歓喜の井戸から湧く快楽だ。勃つものはないけど満たされる歓びを知った。全部君が教えたってのに、焦らすのはないんじゃないの?
 で、久しぶりのセックスに溺れながら、あの絶頂がないのはやっぱりそれなりにしんどいものがあって、高い螺旋階段を永遠に駆け昇るような果てのない熱にうかされながらぼくは泣いたりしがみついたり、脚が動けば、とひどい形相で本気の悪態を吐いたりする。
「こえーな。可愛い顔してやっぱ突っ込む気満々じゃねーの」
「ち、が、う!…君の…ああ、もういい」
「よくねえっ」
 より深いところまで穿たれて内臓の奥の方がぐるぐるする。
「だから…だからさ…!」
 ぼくは涙目になりながら言う。
「脚が動けば君に抱きつくのに!」
 ジャイロが驚く。ぼくはその剣幕のまま叫ぶ。
「絶対に離さないんだからな!」
 そしたらまたジャイロは笑う。ぼくを抱きしめニョホホと笑いながらそれが止まらないらしくて、笑いの滲む声で、ジョニィ、ジョニィ、と繰り返す。それを聞きながらぼくは全世界のぼく以外のジョニィは本気で全滅しろと思った。ジャイロが、ジョニィ、と呼ぶそれは目の前のぼくだけだって、そんなこと当たり前だけど、でもそれだけじゃ足りなくてとにかく全部全部欲しくて。心も身体も、堪らなくて。
 限界の先のゴールをして更なる限界を見た気がする。ピロートークどころじゃなく、果てたぼくらはそのまま眠りこける。
 流石に寒さで目が覚めた。ほんの数十分うとうとしていただけなんだけど、さっきまでのことがもう昨夜の夢みたいだ。ジャイロが起き上がろうとするので首に腕を回して引き留めた。すると、本当に風邪引くぜ、ジョニィ、と額にキスが降った。
「ここで足止めだなんか御免だからな」
「……やっぱりさっきの嘘じゃないか」
「さっきの何だ?」
 ジャイロは笑ってぼくの腕からすり抜ける。
 ようやく普通に寝る支度が調ってもやっぱりぼくらは一つのベッドにいる。九月二十五日のスタートからずっと、四六時中一緒にいるのに、更にくっついて足りないってどうかしてるんじゃないかな。そう言うと、そいつは現代医学でも根本的治療法がねーな、とジャイロは真顔で言った。
 シーツにくるまり、何かを約束するかのように互いの身体を抱きしめた。明日からまた新たなステージが始まる。とにかく今は眠る。おやすみ、ジャイロ、と溜息のように声が漏れる。ぼくの小さな声がジャイロの胸をくすぐる。
「おやすみ、ジョニィ」
 うっかり泣きたくなるような柔らかい声がぼくの耳を撫でる。あー、今夜だけ、今だけ、北米大陸全土のぼく以外のジョニィ死んでくれないかな。あとついでにDioもね、こっちは永遠に。




2013.2.6