サクロサンクトサクリファイス 6




 その日のことをジョニィが聞いたのは、随分後になってからだった。ジャイロと親しくなってから――つまり彼の冗談を紙に書き留めたり彼の歌にコーラスしてやるのも吝かではないと思えるようになってからのことだ。
 九月二十五日、ニューヨークは真夏を思い出させる明るい日射しに照らされていた。陽光はビルの壁面に反射し銀色の光線となって高層建築の谷間に降り注いだ。それは美しい光景だったが同時にありきたりな光景でもあったので、誰もわざわざ空を見上げようとはしなかったのだ。たとえ飛行機の音が妙に大きく聞こえるな、と思ったとしても地上の多くは日常的無関心から首を上げることはなかった。
 ジャイロ・ツェペリという男がその日、ツイン・タワーと呼ばれるビルの側にいたのは偶々のことで、給料の小切手を持って朝一番の銀行に走ったのがその理由だった。何とか今月の家賃に足る金を懐に収めた彼は周囲の人間よりほんの少し余裕があった。勿論、出勤時間のことはあったが今から口笛を吹いてでも間に合うはずだった。彼は自作の曲を口笛に吹いた。本来チーズの名前を繰り返す彼お気に入りのメロディは自由の国の、マンハッタンの雑踏の中で一際自由に愉快そうに空に昇るので、それを楽しんでいたジャイロ・ツェペリは口笛を掻き消す轟音にすぐ頭を上げたのだ。見えたのはビルに反射する陽光を遮る黒い腹。影は一瞬にしてジャイロの上をよぎった。眼前から背後へと。だからジャイロはその衝撃的な瞬間、飛行機がビルに衝突する瞬間は見ていない。
 そこからしばらくジャイロの記憶も混濁する。衝撃は天から降ってきた。地面も揺れた。人々の身体が引っ繰り返されたオモチャの兵隊のようにジャンプするのを見て何事だと思った彼の身体も一瞬浮かんだ後、透明な巨人の手に薙ぎ払われたかのようにアスファルトの上に叩きつけられた。
 意識の断絶はどれほど続いたのだろうか。父から受けた教育、そして医者という職業柄からも自らをコントロールする意識を強く持つジャイロは、それをほんの数秒のことだと考える。だがその数秒で世界は変わってしまった。否、世界の終わりが来たと彼は思った。顔を上げた時、視界は白と灰色の入り混じった霞みに覆われていた。太陽は霞みの向こうでぼんやり黄色く輝いていた。
 世界の黄昏だ、とジャイロは表現した。天使のラッパが聞こえてもおかしくはないと思った。しかし最初の衝撃で彼の耳はほとんど聞こえていなかった。感じられたのはビルと地面を貫いて響く異様な轟音、落下する瓦礫の雨音。聞こえぬはずのジャイロは悲鳴も感じ取った。ジャイロは自分が見ているものが何なのかをようやく理解した。地上の全てが灰か砂のようなものを被り真っ白だった。物も、そして人もだ。その上にコンクリートやガラスの破片が降り注ぎ、聞こえる悲鳴と霞む視界を切り裂くような出血の赤が、今し方ジャイロが表現した現実離れした状況が目の前で繰り広げられている紛れもない現実なのだと知らしめた。彼は動き出した。自分の身体もまた歯車を抜かれたロボットのようにぎくしゃくしたものだったが、ともかく目の前の怪我人を抱えて安全な場所へ運ぼうとした。彼は医者なのだ。
 その時、ビルの遥か上階で爆発が起きた。ジャイロは正確な階を知らなかった――知る由もなかったが、それは七十八階での爆発だった。壁面が吹っ飛び、一瞬にして崩れ焼け焦げた内部が露わになった。新たな瓦礫やガラスが降り注ぎ、それはジャイロの身体も傷つけた。
 爆発のせいだろうか、それとも天候の変わりやすいニューヨークの秋のせいか。海に向かって吹く風がほんの一時煙幕を押し流し、ビルの姿を露わにした。ジャイロは顔を上げた。空は自分が口笛を吹いた空と同じように明るく青く輝いていた。だがビルからはもうもうと黒煙が上がっている。飛行機の尾翼が突き出ているのを彼の目は見た。だがそれ以上にはっきり見たものがあった。人間だ。人間が破れたビルの縁に立っている。
「ウェディングドレスを着ているのもはっきり見えた」
 そして二人の記憶は同じ地点に立つ。
 ジョニィはビルの縁を蹴って中空にその身を投げ出した。
 ジャイロは落下する真っ白な人影に向かって走り出した。
 再び視界を覆った白い煙の中、何が起こったのか。ジョニィは襟首を掴まれぐいと引き上げられるのを感じた。錯覚ではなかった。確かに落下の風の中、意識はまるで背後に置き去りにされ気を失うかと思ったほどだ。しかし襟首を掴んだ手の感触はあまりに生々しかった。自分を引き寄せた男――それは確かに男だった――の体温ある息づかいさえ耳の側に感じられた。
 ジャイロは自分の手が落下する人間の身体を抱きとめられると信じた訳ではなかった。しかし身体は勝手に動いていた。瓦礫、根元から折れた街路樹、それらが折り重なった上に真っ白なレースの塊は落ちてきて、バウンドし、滑り落ち、ジャイロの腕に抱きとめられた。
 呼吸を、ジャイロは聞いた。抱きとめた身体は生きていた。幾重ものレースと自分の懐の今月の家賃を挟んでも、しっかりと鼓動を感じ取った。ジャイロは腕の中の身体を強く抱き締め、そして未だ名前を知らないどこかの花嫁が落ちてきた先をもう一度見上げた。ビルの七十八階からは恐ろしいほどの煙が立ち上り、また視界は白と灰色に遮られた。

 ジョニィが完全に目を覚ますまで、もう少しジャイロ・ツェペリの視点から話す必要がある。
 二人が運ばれたのはジャイロの勤務する総合病院だった。救急車の中でもジャイロは自分の助け出した名も知らぬ花嫁の治療をしようとして、逆に救急隊員に押さえつけられていた。病院の到着した彼は同僚医師の治療を受け、その日の夕方にはもう患者ではなく医者としてERの手伝いをしていた。誰もが驚いたことだが、あのビルの真下にあってジャイロがこれだけ無事なのは奇跡的なことだった。
 そしてジャイロが助け出した花嫁もだ。ジャイロは花嫁がビルのほぼてっぺんから落ちてきたことを言っていなかった。言っても誰も信じられなかっただろう。花嫁はほぼ無傷だった。怪我の数はジャイロの方が多いほどだった。しかしその喉は熱や、衝突した飛行機から漏れ出したのだろう有毒な煙を吸い込んでいたらしく、そちらが問題だった。
 喉を引き攣らせるたび、花嫁は目を覚ました。ジャイロは悲鳴のような音に何度もそのベッドを覗いた。息苦しそうに外そうとする酸素マスクを付け直し、呼吸の音を聞く。花嫁は自分がどこにいるのかも分かっていないようだった。一度、枕元を見上げて掠れ声で囁いた。「兄さん」と呼んだように聞こえた。
 四日後、花嫁ははっきりと目を覚ましたが、未だにその素性は知れなかった。ウェディングドレスの他、身につけているものといえば左手薬指の指輪くらいで、名前が彫られていないかと外そうという試みはなされたが、銀の指輪は食い込んだように取れなかった。
 だからジャイロ・ツェペリはカルテを片手にこう尋ねたのだ。
「名前は?」

          *

 目覚めて、自分がいるのは病院だろうとはすぐに分かった。天国でないのは分かりきっていたが、さりとて地獄とも思えなかった。寝かされたシーツは清潔でごわごわしていた。騒がしかったが同時に静かだった。カーテンで仕切られた向こう、その向こうにも自分が横たわるのと同じベッドが並び、誰かが寝ているのだろうと思った。誰が? 他の怪我人…。
 天井を見つめる。枕の匂いには自分の匂いが移っていた。それでも今までの生活から離れた場所にいることを全身で感じた。カーテンや壁紙に染みついた消毒液の匂い。どこかで電子機器が定期的な音を発している。カーテンの向こうでは人が忙しなく動いている。話しかける声がする。音はあるのに、妙に静かだ。
 生きている。
 何故、生きているのか。
 あの結婚式で本物のジョニィ・ジョースターは死んだはずだった。この身体はエリナ・ブランドーになった。本当の償いの日々が続くと思っていた。自分がニコラスから人生を奪ったように、この人生を最後の最後の残りかすまで喰らわれ奪われるという本当の償いが。しかし。
 ビルに突っ込んだ飛行機。地獄のような結婚式場。ディエゴの手が自分を押した。ディエゴの姿は降り注ぐ瓦礫の向こうに消えた。少女の手に背中を押され、廊下を抜け、階段を下り、そしてビルの裂け目から九月のニューヨークの風を胸一杯に吸い込んだ。この足が崩れた階段を蹴り、身体を宙へ投げ出した。
 死ぬためにそうしたのではなかった。
 でも生きていることが不思議でならない。
 自分は一体誰として生きているのか。何の為に生きているのか。
 これもニコラスが望んでいることなのだろうか。
 カーテンが開いた。医者なのだろう、白衣の男が立っていた。若い男で、長い髪が医者らしくないような気もした。額に貼られた絆創膏や目元に残る青痣から、彼もまたたくさんの怪我をしているようだった。
「名前は?」
 男が言った。
 名前。
 凍りついていると、男は重ねて尋ねた。
「あんたの名前は」
 名乗れ、と目の前の男は言っている。
「エリナ……」
 咄嗟に口をついて出た名前に自身、戦慄し口を覆った。
 若い医者はカルテにその名前を書き込んで、もう一度こちらを見る。
「エリナ」
「………」
「エリナ…?」
 エリナと呼ばれるたびにぞくぞくと背筋が震えた。顔の上を這うディエゴの冷たい舌を思い出した。お前は永遠にエリナ・ブランドーだ。
 違う。頭を抱える。ディエゴはあのビルに置き去りにした。瓦礫の降り注ぐ中、奴の姿は消えたのだ。あの七十八階と八十一階しか知らなかったビルの最上階のホールに。
 あのビルはどうなった。
「ビルは…」
「は?」
「ビルは……?」
 若い医師はじっと目を見つめちょっと考えたようだが、身体をずらし少し大きくカーテンを開いた。
 部屋の端に設置されたテレビが見えた。映っているのは瓦礫の山だった。その上を消防隊員が歩いている。カメラは彼らの姿を追う。瓦礫の向こうには背の高いビルが建っている。まるで瓦礫の山を囲む柵のように。
 ビルがなくなってしまったのだと、ようやく理解した。
「エリナ」
 男が呼ぶ。
「あんたの名前を教えてくれ。でないと旦那にも連絡できないだろう」
「……え?」
「心配してるはずだ、家族が」
 そんなものはいない。旦那に連絡? 心配している? そんなはずがない。そんなことはあり得ない。ニコラスは死んだ。父はもう存在しないも同然だ。ディエゴはビルのてっぺんで木っ端微塵に吹き飛んだはずだ。いいや、それ以前に、もう自分を心配する人間がいるはずがない。帰る場所などないのだ。ビルは七十八階どころか瓦礫の山になってしまった。
 込み上げるものを言葉にできず喉を詰まらせると、酷く息苦しくなって猛烈に咳き込んだ。若い医者はすぐに駆け寄って背中を撫でてくれた。しかし身体が震えた。まるで恐がっているかのようだ。
 何を?
 ようやく咳がやむと、医師は喉に手を当て口を開けさせた。目を瞑って口だけ大きく開ける。
「炎症が酷い」
 若い医者は言った。
「ビルから逃げる間に燃えた灰や有毒な煙を吸い込んでいる。二日前、肺の洗浄を行ったんだが、覚えてるか?」
 首を横に振る。
「痛みは?」
 頷くと、手が離れる。
「大丈夫だ」
 離れた手は優しく、腕にそっと触れた。元気づけようとしながら遠慮している風だった。
「おたくはまるで奇跡の人だ。怪我だってほとんどねえんだから。家族が迎えに来りゃあすぐにだって退院できる」
 ペンがトントンとカルテを叩く。
 名前を言え。
 お前の名前を。
「エリ…ナ…」
 エリナ・ブランドー。
「ジョースター」
 嗄れた声が苦しげにその名を押し出した。
「ジョースター」
 二度、繰り返した。
「エリナ・ジョースターね」
 若い医者は復唱しカルテに書き込むと、手を差し出した。
「ジャイロ・ツェペリだ」
 握りかえすと、その手があまりに柔らかいので驚いた。まるでふわふわだ。自分の手より柔らかい。この二年間、美しく磨くこと意外ほとんど何もしなかった手よりも。女の手よりも、だ。
 あまりに心地良い握手だった。相手の視線に気づき、パッと手を離す。
「…ツェペリ先生」
 すると男はひょいと片眉を持ち上げた。
「ジャイロでいい」
 何故そんなことを言われたのかは分からなかった。
 再び横になるとすぐに瞼が重くなった。ジャイロ・ツェペリがカーテンを閉めて去ろうとした。
「先生…」
 思わず呼び止めたが、続く言葉が出なかった。目から涙が溢れ出していた。
「また昼に様子見にくっから」
 ジャイロはニカッと笑ってカーテンの向こうに消えた。笑った口から覗いた金歯がキンッと音を立てるように光った。
 涙はすぐに止まり、濡れた頬を枕に押しつける。
「ジョースター」
 シーツに向かって吐き出す。
 懐かしい名前。本当の名前。しかし半分は本物ではない。
 否、この身体が膣を持つ女のものである限り…。
「エリナ・ジョースター…」
 暗く吐き捨て、ジョニィは眠りに落ちた。