玲瓏たる月光の雫は真実たる君




 薔薇である。月夜である。粗末な杯もこの地上で最も清らかなものを注がれる夜であった。仲秋と呼び、望月と呼び、名月と呼ぶその光を、地上のものどもあまねくその身に満たして呆然と空を見上げる夜であった。解かれる謎はなく、あるはただただ清かな銀色の光であった。
 事実のみを目の前にして名探偵は、言葉をなくし思考を消失させ目に入るもの全て耳を嬲る空気の総体、はだえに触れる清澄なる空気と匂いとその中で舞い、咲くがごとく裂く肉体を感じ、ただただ感じ入った。広い屋敷には夏の名残の薔薇が咲き、かぐわしい香りは舞台に敷き詰められたスモークのように足下を漂っていた。輝く素足がそれを蹴り上げる。城字は薔薇の香りがそれを蹴り上げた肉体が発する香りが頬を掠め髪を揺らすのを感じた。
 目の前の、地上で最も強く最も美しい肉体が、腕で空を裂き、掌で香りを抱きするたびに、彼は自らの肉体も裂かれ、裂かれた肉体が花のように咲き、虹色の残像を纏う腕に抱かれる幻覚を味わった。否、薔薇の香りはあり、目の前に肉体は舞い、イチジクのタルトの香りに包まれる、ならば名探偵の主観と直感をもってそれは幻ではなく真実に違いない。
 城字・ジョースターは波紋入りの口づけを食らったかのように全身をビリビリと電気的に震わせ目の前で繰り広げられる舞踊に釘付けになっていた。この地上の全てを統べるだけの完璧なる力を備えた究極生命体は、この九月の満月の夜、城字の為に、城字の為だけに舞を舞っているのだった。それは全ての生物の遺伝子を奥底から刺激するような、言語と思考を超越したメッセージだった。訴えであり咆吼であり、歓呼であり嬌声だった。脆弱であり苦しみを背負う、生物、というものの原初に発した産声だった。
 カーズは美しかった。それ以外の感情を城字は持たなかった。永劫の時を経てもこの真実は失われることはない。那由多の時を彷徨い恒河沙ほどの美を見つけても、それは全て目の前で舞うこの男に帰するのだろうと思った。五感を全て持て、更には第六感をも開放して全身で究極生命体の舞いを受けとめる名探偵の脳は思考を遥かに超えた速度で行き来する電子の白光の波の中、極めて穏やかな心で厳粛に、そして生まれたての嬰児のような無邪気さと無垢の瞳をもって、目の前の生命を賛美した。双眸から滂沱と溢れ出す涙がそれだった。
 後日ペネロペと幼いジョエコは言った。まるでお月様が庭に落ちてきたかのように美しい光で溢れていたと。あまりに強烈な美はそれから三日間、城字の身体を金縛りにした。しかしベッドに横たわりながらも城字の魂と精神は自由で、瞼の裏の舞いをなぞりながら繰り返し溢れる歓びに微笑み、自らも、生物、の一つであることに感謝するのだった。感動と共にカーズの舞いは官能さえ引き起こす。
「本当に腹上死する人間がいたら」
 ペネロペは城字の額にのったタオルを冷たく湿したものに取り替えながら言った。
「きっとこんな顔をするのね」
 城字は反論しなかった。しようとしても口は動かなかったのだが。うっとりと微笑んだ城字の顔を、ジョエコはクレヨンで画用紙一杯に描いた。それを見たカーズは、ふん、と笑い「よく描けているではないか」と幼い子供の頭を撫でる。
 ようやく口が利けるようになった時、城字は月並みな言葉であの夜のカーズを賛美した。
「マジで魂抜けたわ。あの時なら、僕、食べられても文句出んかったで…」
 カーズは唇の端を持ち上げ曰くありげに笑った。
 意識は正に薄れようとしていた、あの時だった。薔薇である。月夜である。仲秋の名月であり、満月だった。城字の両目からとめどなく溢れる涙は深い泉から湧く清水のようだった。カーズは城字の前に跪き、滴るそれを美酒のごとく舌で受けたのだ。そして崩れ落ちた弱々しい人間の身体を抱き、今なら騒がれることなく食べることも可能だが、と戯れに考え口づけをするに留めた。名探偵の知り得ぬ事実は、カーズにのみ知られることで永遠なる真実たる。
「ちょ、カーズ先輩、ニヤニヤして、何」
 解けぬ謎は俺のものだぞ、名探偵。



2013.9.20