マチネ・アンド・マーダーケース




 惨劇など幻であったかのように、そこにあるのは古びたタイルの床だった。つい昨日、映画館へ向かって下りたはずの階段が、滝のように血の滴っていた階段が消えていた。僕は膝に手を突き下を向いた。息せき切って二十歳の本気の猛ダッシュをやったにも関わらず、田舎町は田舎町のまま人も時間も風もゆっくり流れていた。
 僕だけだ。
 この時間の流れを巻き戻し、解決に向けて加速させようとする僕こそがこの町では異物なのだ。
 低く町を覆う雪雲は影など足下に作り得なかったが、僕は背後に人影が迫るのを感じた。僕よりずっと大柄で、肉体、知能、精神、あらゆる面で人間を軽く凌駕する存在は、甘い香りさえ淡く漂わせて僕の後ろに佇んでいた。
「尻を突き出して降参のポーズか?」
「…カーズもそんな冗談、言うんや?」
「貴様ら下等動物にはありがちな習性だろう」
 僕は腰を伸ばし、うんっ、と声を上げて伸びをした。背を思い切り反らして背後のカーズを見ると、奇妙に明るい灰色の空を背にカーズが僕を見下ろしている。
「僕は確かにこの目で見た」
 そしてカーズの水色の瞳も見ていた。
「映画開始から五十二分の、殺人のシーンで本当に人が死んだのを。スクリーンから血が噴き出したのを。トイレに死体が転がっていたのを。新たな首なし死体が階段半ばの意志半ばでついえていたのを、僕らは見たんだ。こんなアメリカの、俺の実家よりド田舎の町の映画館で一日に三人の人間が殺される連続殺人を。僕らは、目の前で見て、僕は、君と町の人々を観客に推理劇を演じた」
「それは違うぞ?」
「そうだ。違っていた。観客は強いて言えばカーズ、君だけだった」
 誰も事件の解決など望んではいなかった。 昨夜拘留された犯人は多分、もう檻の中にはいないだろう。町外れの自分の家に帰ったか、それとも町を出たのか、町人の手によって殺され密かに捨てられたか。多分、三番目のプランで当たりだ。平穏を望む町の人々が、それを乱すものを放ってはおかない。惨劇の起きた映画館さえ、たった一晩で最初からなかったことにしてしまったのだ。誰も殺人事件のことを口に出さない。勿論、新聞になど載ることもない。この町は永遠に、つまらない、何もない、平坦な時間だけが流れるアメリカの田舎町。
 カーズが手に斧を持っていた。僕が、僕らを襲ってきた正体不明の犯人を最後に撃退した時に使った武器だ。僕は手渡されたそれを構えて、古びたタイルの床を見つめた。とても無粋なことだとは分かっていた。興ざめの結末だ。
 でも僕は真実が知りたい。
 僕は名探偵だから。
 斧を振り下ろす。
「痛ッ!」
 タイルの破片が飛び散って危険極まりない。
「カーズ、離れてなよ。危ないよ」
「貴様はどうなのだ」
「名探偵やから。真実求めてたとえ火の中水の中火星の裏…」
 言いかけたところでカーズの手が僕の頭に刺さって一瞬ぼんやりした意識が戻る時には僕の皮膚はピキピキ音を立て黒光りするメタリックな質感に変わっている。
「さんきゅ」
 僕は素直に礼を言って、再び斧を振り下ろし始めた。
 誰も僕を止めなかった。皆、何も起きてないふりをしていた。僕らがこの街を去れば、今度はコンクリートで埋め立てた上に同じタイルを敷くだろう。
 タイルの下の急ごしらえした木の床が割れ、暗闇の血の匂いが染み出す。ある程度の穴が空いたところで僕は素手で板を引っぺがした。弱々しい曇り空の明かりの下でも、階段が赤黒く染まっているのが見えた。僕が穴の隙間から入り込み階段を下りると、背後には当たり前のようにカーズもいた。そうだ。ラストシーンを本当の観客として楽しめるのはカーズしかいない。僕は道化役を与えられた名探偵。
 サイリウムの蛍光色の光を、時々小さなものが遮った。僕の顔や腕から、さっきカーズによって硬質化された肌が剥がれ落ちているのだ。歩くたびに黒い鱗がぽろぽろと落ちる。厚い扉の前に辿り着く時には、僕はもとの脆弱な人間の身体に戻っている。
「カーズ」
 扉に手をかけて僕は言った。
「決して面白い結末じゃないかもしれないよ」
「それは俺が判断するものだ。安心しろ。人間どもの戯れなどどれも、なべて他愛ない」
「下らない?」
「判じてやる」
 僕は扉を力一杯引き開けた。
 割れるような音楽、身体を引き裂くような衝撃、そんなものは一切なかった。汚れたスクリーンの上、郷愁を呼び起こさせる海岸の景色がモノクロのフィルムで映し出されていた。音楽は単調なピアノの音で、既に音源自体が古いのだ、音が所々歪んでいた。
 座席の中央に、一人だけ腰掛けている人影があった。彼女は、僕はすぐに女性だと思った彼女は、じっと真っ直ぐスクリーンに視線を固定して振り向くことがなかった。
 僕は座席を大きく回って彼女の前にまわった。
 そこにあったのは稚拙な思いやりと、愛情とも呼べる自己満足と、被害者の唯一の望みだった。
 そこに座っていたのは最初の被害者となった老女だった。切断された首はスカーフで隠され、身体が動かないよう縛り付けるのは躊躇われたんだろう、両脇から押し込められた大量のクッションに埋もれ、その姿勢を保っていた。
 映画館の支配人の奥さん。小さい頃の夢は、好きな映画を好きなだけ見ること。
 不意にスクリーンが真っ白になる。音楽もぶつりと途切れた。僕は頭上の、映写機の光の射す方を見た。小窓から銃口が覗いていた。僕を狙っていた。でも僕は怖くなかった。そばにカーズがついているからとか、そういうことじゃなくて、映画をこれ以上酷く中断させるような真似を、あの映画技師はしないはずだと知っていたからだ。彼はこの唯一の観客を、クッションにくるまれ、とびきりおしゃれなスカーフを巻いた映画好きな少女の夢を壊すことを、これ以上しないはずだ。
 僕は銃口に見送られながら映画館を去った。後ろでは再び音楽が流れ始め新たなフィルムが注ぎ足され、海辺の街で恋人を待つ少女の元には恋人が現れる。僕は扉を閉めた。
「何を泣いている」
 カーズが言った。何故か。理由は僕にも説明できない。感動する物語ではなかった。心温まるラストシーンではなかった。悲しいかと言われればそうでもなかった。
「映画の終わりに人が泣くなんてこと、よくある話なんだよ」
 僕はハンカチで鼻をかみ、わざと笑って見せた。
「行こうカーズ。もうこの町を出ないと、吹雪の中取り残されるよ」
 勿論、吹雪程度で閉じ込められるカーズじゃないけど、僕は確実に凍死する。
 多分、映画は永遠に上映され続けるのだ。映画技師が死んでも映写機だけ動き続ける。そんな夢みたいなラストシーンでいいと思った。今回の僕は本当に道化だ。
 階段を上りきると入口に町民がたむろしていた。皆、じっと僕を見ていた。でも危害を加える様子はなく、映画館前に停まったバスに僕とカーズが乗り込むのを邪魔しなかった。雪が小降りなうちにバスは町を出た。
 僕とカーズが西暁のジョースター邸に帰り着いたのは丸二日後で、今回割と精神的な疲弊が強かった僕だけど屋敷に辿り着く前にレンタルショップでDVDを借りる。
「何だそれは」
「香港アクション」
 屋敷に帰った僕はペネロペが作ってくれたボウル一杯のポップコーンを抱え、カーズの身体を背もたれにしてジャッキー・チェンを観る。ホアチャーって言いながら自分の口にポップコーンを突っ込み、カーズにも食べさせようとする。カーズは僕の手ごと食べようとする。多分、冗談だけど。エンドロールはNG集だ。僕は涙が出るほど笑う。
「な、面白いやろ?」
 僕が自信満々に尋ねるとカーズは頭上から僕を見下ろして、涙を滲ませた僕の目元を指でなぞる。
「お前がな」
「カーズ先輩マジウケル」
 僕はしばらくの間、ちょっと本気で泣いて、カーズはカーズの改造のせいでバイオテクノロジーを獲得したデッキの伸ばす触手に新しいDVDを持たせ、再生する。
「次は何だ」
「殺人事件」
「懲りんヤツだ」
 カーズは僕の身体を抱え直し、腕の中に抱き込んだ。



2013.9.20