朝を迎えに夜を吐き、真昼を浴びて夢を見る




 次の休み、ヴェネツィアに行こう、と床に倒れたまま泣き止まないイルーゾォに言った。吐くだけ吐いていい加減泣き疲れたようだが、それでも洟をすすり上げる音はまだ続いていたし、間歇的なしゃっくりが時々ホルマジオを驚かせた。触れようとすると振り払われる。しかし本当に退けたければ鏡の中に行くがいいのだ。それをしない分自分は必要とされているのだろうと思う。
 何となくその気になれなくて脱ぎ散らかした服はそのまま、全裸だろうが部屋の主は床に突っ伏して見てはいないのだから構わない。キッチンに向かい、一度だけ振り向いた。自分が乱暴した後のように見えた。実際には逆だ。いつも自分が受け入れる側なのは納得いかないと言うから、しょうがねえなあ、とこちとら慈悲心を起こしてやった側である。突っ込むことができず気持ち悪さに吐いたのはイルーゾォで、オレとオレの尻にたいがい失礼だろうがとホルマジオは思ったが、あまりにも苦しげに吐き、あまりにも泣き止まないものだから怒った先からプシュッと怒気が抜けて結局「しょうがねえなあ…」と呟くしかない。
 冷蔵庫はガラガラで酒も入っていなかった。意外なことだ。いつも鏡や部屋といった自分のテリトリーから出たがらないイルーゾォだが、そのテリトリーの中にあっても生活必需品が欠けている。戸棚を漁ると冷えていないビール。栓を抜き、一口呷ってダイニングに戻った。今更だが、そもそもダイニングでやろうとしたことが間違いではなかろうか。
「飲まねえか?」
 ビールを差し出すと、顔を伏せたまま首を振る。
「顔…洗う……」
 ようやく聞こえた声は低く、砂漠の石を擦り合わせた音のように乾いていた。
 自分が出て行くまで動かないかもしれないと思ったが、ホルマジオの予想に反してイルーゾォは目の前で身体を起こした。両手を突き、上半身を持ち上げる。首はなんとか頭を支え、暗く澱んだ瞳があらぬところを見た。目の下には隈が浮かんでいた。部屋に来た時は気づかなかった。真っ暗だったからだ。今はダイニングの明かりに照らされて目の下の隈も、裸の背中の前に見た時より痩せたのも、吐瀉物を拭った床もはっきりと目に映った。
 イルーゾォは鼻を鳴らし、饐えた匂いに顔をしかめた。が、それで立ち上がる気になったようだ。よろよろと覚束ない足取りで浴室に向かう。ホルマジオはしゃがみこんだままその背中を見送り、ぐびりとビールを呷った。
 初めてイルーゾォを抱いた時、それは襲うと言い換えてもよくて、場の流れは合意らしい空気もあったのだがコトの終わった後、抱かれた男はひどく不機嫌だった。ホルマジオに向かい最低だと繰り返し罵ったものの、それでも最後は笑っていた。だから関係が続いてしまったのである。何度も身体を重ね受け入れられレば、もともと組織内でもつまはじきにされたチームの仲間だ、仲間以上の情も湧いたが、男でありながら受け入れる側はストレスも多かったのかもしれない。
 浴室からまた吐く音が聞こえた。ホルマジオが細いドアを開けると狭い浴室から熱気と饐えた匂いがどっと押し出して思わず顔が歪む。
「大丈夫かよ」
 シャワーの湯気の中からイルーゾォが手を伸ばす。握ると振り払われた。触るなという牽制だったらしい。イルーゾォは壁にもたれ、何度も唾を吐いていた。小さな排水孔に流れていくのは、湯と、血。
 呷ったビールを、押さえつけたイルーゾォの口に無理矢理流し込むと、相手は勿論それを嚥下できずほとんどをこぼした。
「頭、おかしいんじゃねーのか…?」
 シャワーの下で、水音にさえ掻き消されそうな声でイルーゾォが言った。
「臭いだろ、オレ」
 吐瀉物の匂い。血の匂い。熱すぎるシャワーが排水孔に押し流すイルーゾォの身体の奥から吐き出されたもの。だが、まだ何か残っているはずだ。 口の中に指を突っ込むと、イルーゾォがまたえずく。吐き出されたのは唾液。それからホルマジオの名前だ。
「何だ?」
 イルーゾォはすっかり力の入らなくなってしまった手でホルマジオの背中を抱いた。爪がカリカリと力無く引き寄せようとする。だからホルマジオの方から抱き締めベッドに連れていっていいかと尋ねた。
「嫌だ」
「なんでだよ」
「今日はもうセックスしねえ…」
「しねえよ」
「嘘だ」
 八割方嘘ではあった。
「でももう疲れたぜオレも…寝たいしよ」
 抱き締めなだめすかしようやくベッドに連れ込んだイルーゾォの背中にキスをしながら、明日の朝には買い出しに出掛けて美味い飯を食おうと考える。冷蔵庫を食い物と酒で一杯にしよう。仕事のないしばらくの間、この部屋に籠もって放埒のまま楽しむこともできるほど。それから…。
「次の休み」
 ホルマジオは濡れて艶やかになだれるイルーゾォの黒髪に指を通しながら言った。
「ヴェネツィアに行こう」
 休みなんかいつあるんだよ、とイルーゾォが踵で蹴った。

          *

 全ての虚ろな世界の中で、なにものも入ることを許可していないのにどこかから聞こえてくる囁き声がある。イルーゾォは寒さの中で目を覚まし、硬いベッドの上でじっとしていた。
 午後の光は鏡の外と同じように射しているのに、ここは寒い。熱のない光はイルーゾォを浅い眠りに留め決して深く眠らせなかった。しかしイルーゾォはそれで安堵しているのだ。眠っている自分を自覚できる。その間なら自分は死なないだろう。眠っている間に死んでしまうということもないだろう。生きたものの気配が全くないこの世界で眠りに落ちたら、次の目覚めはないのではないか。永遠にこの中に閉じ込められはしないか。自分のスタンドのことなのに分からない。
 聞こえてくる囁き声も未知の現象だった。否、声は知っていた。ソルベとジェラート。アジトがもう一つ前の、ホテルのワンフロアだった頃、鏡越しに聞いた睦言だった。あの二人が死んで随分時間が経つのに、鏡の中に入ると今でもそれが聞こえる。気のせい…?木霊のように、永遠に反響し続ける残響。ここには生きたものはいないのだ。声は生きたものから切り離されたものだから、本人たちが死んでもここに取り残されたまま。
 鏡の向こうで二人が睦言を囁き合っているからと言って、イルーゾォはそれを覗いた訳ではなかった。だから男同士でどうやってやるのか、詳しいやり方はこの前まで知らなかったのだが、ソルベとジェラートの囁きから想像していたものとは違うなというのが感想だった。ホルマジオが粗いだけだろうか。
 それが突然妙なことを言われたものだ。
「ヴェネツィアに行こう」
 何故唐突にヴェネツィアなのか。分からないが、しかしホルマジオは疲れ果てたイルーゾォの背中にキスを繰り返しながらそう言った。その声を聞きながらイルーゾォは他の場所を思い浮かべていた。
 瞼を透かす太陽の光が眩しい。鏡の世界にも存在する、太陽は生き物ではないということだろうか。月も、星も、この地球も。地球が人間を乗せて宇宙を漂う船だという言葉をイルーゾォは笑う。匂いもなく、ぬくもりもなく、無味乾燥な世界を知っているから。それが自分の精神力によって開かれた世界とは言え現実に存在するものであることも。この世が舞台で全てはセットで、角を曲がった向こうには役目を終えた役者がやれやれ何も知らないアホを騙すのも疲れると汗を拭っていても驚かない。寧ろ相応しくさえ感じる。誰もそんなものだと思っていた。笑顔を振り撒き、騙す。優しく繋いだ手で奪う。甘言を囁いた直後にせせら笑う。それら人間全て、自分を騙すために用意された役者だと思えば納得できた。
 ホルマジオとの関係が続いているのは、最初に与えられたのが痛みだったからだろう。最初から痛みだった。ホルマジオは優しくするそぶりも見せなかった。ただ犬のように自分を組み伏せて突っ込んだだけだ。そして終わるとイルーゾォに文句を垂れたのだ。勿論言い返した。こちらときたらお蔭で尻から血を流していたのだ。罵り合い、同じ煙草を吸い、少し笑った。ひどいセックスだったが、これが最後だろうとは思わなかった。これを最後にしようとも。次に寝たのはいつかの食事の後だ。まだ手順を踏むようにはなったか。
 それから何度という夜を重ねて先日の夜とうとう自分が入れたいと言った時、自分は本当にそれが叶うと思っていたのだろうか。馬鹿言うなと逆に手酷く組み伏せられる想像を頭の隅でしていた。だから「しょうがねえなあ」という彼の口癖を聞いた時もすぐに反応できなくて、目の前に開いた想定外の未来に立ち竦んでしまった。
 それはイルーゾォも男ではあるけれども、本当にホルマジオの尻に突っ込みたかったのかと言えばそれは現実的な思いつきではなかったのだ。叶わないとしても言ってしまう言葉がある。金持ちになりたい。美味い料理が食いたい。ボス死ね。休みが欲しい。どこかに行きたい。何も考えたくない。
 我が儘を、ホルマジオに言いたかったのだ。ただ空疎な言葉を吐き出すのではない、ホルマジオに向かってこのどうしようもない魂の空腹の叫びのような言葉を投げつけたかった。ホルマジオは、イルーゾォの世界に這入り込んだ、生きた人間だったのだ。
 鏡の向こうを見た。生きた世界に生きた男がいた。鍵をかけていてもスタンド能力を使ってどこからでも入り込む。イルーゾォは鏡に手を触れさせ、薄く写った自分の顔が酷い有様なのを見た。目の下の隈は消えていないし、髪も結っていない上に寝癖で乱れていた。寝起きの娼婦よりも酷いと思ったが、そのまま外に出た。
「おはよう、か?」
 ホルマジオは自分が鏡から出てくるのを知っていたのだろう。軽い揶揄の混じった挨拶。イルーゾォはまっすぐ冷蔵庫に向かい冷たい水を飲んだ。口から溢れて流れ落ちる炭酸が喉の上でぱちぱちと音を立てた。
 後ろから手が伸びてくる。背中越しにホルマジオが手を伸ばし、冷蔵庫の扉を大きく開いた。中身に満足したらしくうんうんと頷き、晩は何食う?と訊く。作るつもりだろうか。振り向くと顔は思いの外近い位置にあった。唇から覗く歯。
 唇をぶつけるとガチリと音がした。だがホルマジオは下手だとも笑わない。イルーゾォは冷蔵庫に押しつけられ、逆に唇を貪られた。腰から下がひんやりとする。冷蔵庫の扉は開きっぱなしだ。
 ようやく唇が離れると唾液が口の端を伝った。舌を伸ばしても流れ落ちるそれを掌で拭いながらイルーゾォはボソリと呟いた。
「は?」
 ホルマジオが聞き返す。
「何だって?」
「許してやる」
「何を」
「許可、してやる」
 鏡の中?それでもいい。しかし寝室のドアを閉めれば、そこは既に二人きりだ。
 窓から午後の陽が射す。ベッドは硬い。洗っていないシーツはちくちくする。締め切った部屋は妙に息苦しくなる暑さだ。それでもホルマジオに些か乱暴に抱きすくめられながら、ここがいいと思った。この寝室は、思いの外居心地がいいものだったのか。
 ベッドの上、膝立ちになり壁に手をつくと背中から汗ばんだ身体が寄り添うように密着する。
「トスカーナ…」
 イルーゾォは呟いた。
「何だって?いきなり…」
「この前、お前が言ったじゃねえか、ヴェネツィア…行くとか」
「ああ」
「オレ、トスカーナ…」
「トスカーナがいいのか。フィレンツェ?」
「じゃねえ」
 何もねえとこ、と余計に小さな声でイルーゾォは呟く。
「ブドウ畑とかしかない…何もねえ所が…」
 ホルマジオは黙って聞いている。言葉の一つ一つを拾い上げられていると思うと声が途切れそうになる。これ以上声は小さくはならない。だから続けるしかない。
「誰もいなくて、暖かくて、温泉…も出るんだろ」
「ワイン」
 ホルマジオの指がイルーゾォの唇をなぞった。
 少し震えて頷いた。
「ワイン」
「セックス」
「…今してる」
「するだろ?」
 頷くと腕が強く抱擁した。
「いてえ…」
 シーツの上に転がされる。陽を浴びて白く反射するシーツは生温かかった。
「じゃあ、トスカーナだ」
 ホルマジオが言った。
 イルーゾォは頷いて、何故だか小さく、しかし腹の底から笑い出した。



2013.9.16