蛇/雨




《蛇》



 カサカサと乾いた音が聞こえた。蛇だ、と思った。恐怖と共に、また思い出と共にジョニィはそれを覚えていた。蛇を見たのはイギリスでのことだった。屋敷の裏の森の中だった。ニコラスがついていなければきっと咬まれて命を失っていた…と当時は思ったけれども、今はそうではない。毒のある蛇じゃあなかった。しかし失禁くらいはしていただろう。泣き喚いて助けを呼ぶしかなかっただろう。兄の腕の力強さは、自分の心の脆弱さの証でもある。思い出の中の兄を思い返すたびにそう思う。
 夢の中ではないと思ったから瞼を開いた。焚き火の明かりは背後から射していた。横たわった自分の影の中にジョニィは蛇を見出した。鎌首をもたげきらきら光る小さな両眼で自分を見つめる蛇。細い舌がしゅるりと覗く。
 じっとそれを見つめたまま、ジョニィは動かなかった。咬まれるとは思わなかった。咬まれたとしても、騒ぐことはない。この蛇に毒はない。
 蛇は不意に素早く動いた。一瞬、自分に飛びかかってくるように見えた。ジョニィはその光景を静かに、そしてスローモーションのように見た。蛇は伸び上がると空中を飛ぶ蛾をその口に咥え、身体を落とした。それさえ音はしなかった。パタパタ、パタパタ、と蛾の羽が地面を叩いた。蛇は顎を動かし蛾を呑み込む。
 一部始終を目の当たりにし溜息をついた時、蛇はもう草むらに消えていて静かな夜は絶え間なく続いていた。自分の溜息さえ大きく聞こえた。
「ジョニィ?」
 男の呼ぶ声も夜の中で静かだった。
「起きたのか?」
「…もう少し眠る」
「ああ。まだ一時間だって経っちゃいない」
 焚き火の弾ける音。枝を放り込んだだろうか。
「ジャイロ」
 名前を呼んで寝返りを打つと、男の姿は火のせいでシルエットとなっていた。
「ん…?」
 声は穏やかだが眠そうではない。振り向いた表情は彼にしては無表情で、振り向きざまに口元が隠れているせいだな、と思った。
「君は気づかなかった?」
「何かあったのか」
 何かあればもっと慌てる事態になっている。ジャイロは軽く身体半分振り返りジョニィの背後に目を遣った。
「蛇がいたよ」
「危険なやつか?」
「ううん。虫を食べてどこかに行った」
 ジャイロは反対側に身体を捻り、馬を見てくる、と言った。ジョニィは溜息のような返事をして枕がわりの荷物に頭をあずけた。少し眠気にかられる。それでもジャイロが戻ってくると瞼が開く。
「寝ろよ」
「馬は?」
「何ともなかった」
「…怖くなかったよ」
 ジョニィは独り言のように言った。ジャイロは相変わらず無言の視線を注いでいた。
「怖くなかった。慣れたんじゃない。次に来たら、ぼくは蛇を撃つ。毒があってもなくても、きっと撃つ。それで今夜は安眠だ。君も。ぼくも」
「心強いな」
 ジョニィが軽く手を伸ばすと、気づいたジャイロが静かに指先を触れさせた。
「それはぼくの科白さ」
 ジョニィは瞼を伏せ、言葉を続けた。
「君がそばにいるから、ぼくは迷わず蛇を撃つ」
 寝ろ、と囁く声は低くいつもの彼の声ではないようだった。微睡みの中で焚き火の赤と煙と蛇とジャイロの眼差しが揺れていた。それは月のない星空の中天を目指して真っ直ぐに立ち昇る。ああ、神様に祈る時の声なんだな、とジョニィは思った。この囁きは大事なことを言うための声なんだ。
 ふ、と夢の中が暗くなる。瞼の上に射す光が遮られたのだろう。影はベルベットのように柔らかで心地良かった。おやすみ、とジョニィは呟いた。
 おやすみを背中で聞いたジャイロは焚き火の向こうを睨みつけていた。キラキラ光る両眼がこちらを見つめていた。うせろ、とラテン語で命じる。蛇の姿は煙のように掻き消えた。



《雨》



 冷たい雨がガラスを打っているのは分かっていた。日が落ちるのと一緒に段々青くなるガラスが街灯の灯った瞬間のっぺりと暗くなりカウンターでコーヒーを淹れるジョニィの少し驚いた顔を映し出す。それから街灯に照らされた銀色の筋がまるで流れ星のように降って、見とれたのも束の間、雨音はざんと音を立てコーヒーショップを包み込んだ。
 今日のバイトはラストまで。傘は持ってきていない。バスももう終わっている時間だ。八方塞がったとは、しかしジョニィは思わなかった。濡れたって構いやしない。最初から嫌がらなければ、濡れるのだってどうってことはない。遠い記憶だが…女の子と雨の中ではしゃいだことがあった。自分と付き合った娘にしてはおとなしいタイプで、そうそう最初は市議をしている父親に紹介されたのだ。言葉通りの箱入り娘で、最初は打算を透かした節度あるお付き合いをさせていただいていただけだった。言葉にすれば嫌味に思われるほどジョニィはモテたし、女の子など選り取り見取りだったのでわざわざその娘一人に執着することもないと思っていたが。
 パーティーの夜だった。屋根の下の明かりと人いきれ、ダンスで高まるムードに、誰一人雨が降り出したことには気づかなかった。ジョニィは市議に挨拶をされて、例の娘が来ているのを知った。飲み物を手に壁際でぎこちなく微笑んでいた。ジョニィも笑い返したが、次の瞬間彼女はふいと顔を背けてしまった。気分を害した訳ではない。ただ疲れ諦めたふうで、わずかに首が垂れていた。
 冷たい風が流れ込み首筋を撫でる。思わず首をすくめて顔を上げるとそこはパーティー会場ではなくひとけのないコーヒーショップで、仕事帰りのディ・ス・コが窓際のいつもの席についたところだった。すっかり眠そうだ。コーヒーを持っていくと、甘いパンケーキを所望された。
「寒い。それだけ」
 ディ・ス・コはそれぎり沈黙して窓の外を眺めた。パンケーキが焼き上がる頃、店に飛び込んで来たのはマジェントだった。パンケーキはマジェントが食べた。ディ・ス・コはコーヒーをおかわりもしなかった。それだけ。
 店じまいまでもう客は増えないだろう。閑散とした店内は寒い。ジャイロに会いたいなと思った。火曜日だった。まだ七時過ぎだった。ギターを抱えて歌うにも家に帰るにもまだ些か早かった。
 ブランデーが入って少し酔っ払ったマジェントと結局コーヒー一杯でねばったディ・ス・コを追い出して店のシャッターを下ろしたのが十時過ぎ。風が出てきて、雨はいよいよ冷たく、また強く吹きつける。ジョニィは安っぽいビニールのレインコートのフードを被り、外へ出た。すぐに家に帰りたいと思ったが、脚が勝手に遠回りをする。病院へ向かっている。この時間、教会のホット・パンツも、友達のルーシーももういないだろうに。ジャイロは…。
 シフトの通りならばもう部屋に帰っているはずだった。一人で夕食を摂って熱いシャワーで温まって、今頃テレビを観ているかもしれない。ジョニィは病院の前に佇み、その高い建物を見上げた。窓にはまだ所々明かりが残っていたが、夜の雨の中光る白い窓はなんだか寒そうだった。しかしその寒そうな明かりを見ても、ジョニィはホッとした。ここがジャイロの働く場所だ。一日の半分の時間を過ごす場所。まだ一緒に暮らす前、ここに来ればジャイロに会えると思っていた。次のストリートライブの約束。この前のライブの文句。喧嘩の続き。譜面に起こした新曲を渡すために。自動販売機の不味いコーヒーを飲むために。ホット・パンツやルーシーに会うついでに。何となく顔が見たくて。
 同じ部屋でただいまを言うようになる前、ジョニィはこの病院の前に来ると安心したものだ。今でもそれは感じる。ジョニィは踵を返し、アパートを目指して歩き始めた。雨はレインコートの隙間から滑り込み、湿った身体がじんわり冷えていた。足を速めた。寒い。それだけ。
 アパートの鍵を開けると、遅かったなと言いながらジャイロが廊下に出てくる。手にはタオルを持っている。ジョニィが濡れてくっつくレインコートを苦心して脱ぐのは手伝わず、勝手に頭を拭き始めた。
「ちょっと、邪魔、これ脱げないだろ」
「だから傘持ってけっつったのによ」
「これがあるからいいんだよ」
「濡れてんじゃねーか」
 しょうがないだろ安物なんだと開き直る端からくしゃみ。後ろ手のまま袖の抜けないジョニィはジャイロの胸に顔を押しつけてくしゃみをした。
「きったねーな」
「ああごめん」
 そしてまたくしゃみ。洟をすすり上げる。
「謝るつもりねーだろ」
「言っただろ、ごめんって」
 ジョニィはようやくレインコートを脱ぐと釘にかける。
「もう捨てろ」
「新しいのを買う金がない」
 相変わらずカネはスローダンサーに注ぎ込んで手元にはほとんど残らない。ジャイロは呆れた声を上げながらもジョニィを奥へ促した。
「そのずぶ濡れ寄越せ、洗濯すっから」
「シャワー」
「分かってる。とっとと温まってこい」
「でもさ」
 ジョニィは服に手をかけながらジャイロに言った。
「風邪引いても、君がいるだろ?」
「……そんな顔しても駄目だ」
「え?」
 ジャイロは背中を押し、ジョニィの身体を無理矢理浴室に押し込む。
「何だよ」
「風邪引いたって診てやんねーっつう話だ」
 熱いシャワーに打たれ、しばらくぼうっとしていた。自分はどんな顔をしていたのだろう。指先で頬に触れる。笑っている。
 シャワーから出ると、ジャイロが洗濯機の前で難しそうな顔をしていた。
「君といると安心するんだよ」
 ジョニィは言った。ジャイロは肩にかけたタオルで、あたたかく濡れたジョニィの髪を拭きながら、オレは保護者になったつもりはないぜ、と言った。
「そりゃ勿論困るよ」
「お前がか?」
「君が父さんじゃ困る」
「どうして」
「だって……」
 ジョニィが答える前にキスが降ってくる。まったくその通りの答えだ。
 ジャイロが腕を引いた。行き先は決まっていた。窓に二人の姿が映った。部屋の明かりに照らされてガラスに映る二人は光の筋のような雨の模様の中を楽しげに行く。ステップを踏んだのはジャイロ。次にキスをしたのはジョニィ。ベッドに行く前からこんなに楽しい。
 その昔ジョニィは雨の中で踊ったことがある。例の娘とほんの数秒、踊るふりをしてキスをした。娘は父親が迎えに来たので帰してしまったが…。
 次は雨の中で踊りたい。季節は二月がいい。サンディエゴに花の溢れる二月。春先の雨はきっと優しいだろう。病院にジャイロを迎えに行く。雨の中に連れ出す。ダンスを踊る。キスをする。
「何考えてるんだ?」
 ベッドの上で覆い被さり、ジャイロが尋ねた。
「来年のこと」
 ジョニィは微笑して雨音の下、ジャイロを抱き締めた。



2013.9.4