サクロサンクトサクリファイス 5




 真っ暗な視界が瞼を透かす光に葡萄色に変わり、眼球の奥底から意識が表に引き摺り出される。その刹那か、数秒か、今日がいつであるか、季節は何で何月何日で、朝なのか昼なのか夜中に目覚めたものか、ここがどこなのかが分からない。自分が何者かも分からない。目覚めの数秒が意識の内では数分あるいは永劫ほどにも感じられるのは、そこに何もないからだ。肉体も、意識さえ定かな存在ではない。しかし光に照らされる肉体があり、まるで体液の袋のような肉が骨の存在を獲得し、コントロールできる筋肉を得、それでもままならない両脚に意識が届くと、ようやく自分らしき形が出来上がる。
 では自分は何者だろうか。
 瞼を開く。眩しさと引き摺る眠気に白い腕が視界を覆う。左手の、薬指には銀色の指輪が光っている。今やジョニィ・ジョースターという名前を自ら思い出す機会も少なくなっていた。意図的に思い出さないようにしているのかもしれない。この肉体である限り、たとえ膣が閉じたとてもう男には戻れない。喪失を認めると共にこれが女の肉体、エリナという名を持つ肉体である事実が染みこむ。肉体から精神へ。心の形をも変えてゆく。
 エリナ。
 ディエゴが名乗らせた名前。パーティーで、人前で、何人も、何人もの人間に、かつてのジョニィ・ジョースターを知る人間相手にさえ自分の口で名乗らされた。そして人々は何の疑いもなく自分をエリナと信じた。エリナという存在は、もう社会的には随分確かなものとなりつつあった。
 そして今日からは、エリナ・ブランドーと名乗ることになる。
 ジョニィは立ち上がり手摺りを伝ってクローゼットの前に立った。かつては何種類かの衣装をかけただけのガラガラのクローゼットだった。扉を開ける。途端に色彩が溢れ出す。色とりどりの布が扉の向こうで波打っている。果たして何十着あるのだろう。ディエゴはドレスを破かなくなった。そのかわりドレスはクローゼットに溢れた。一度しか袖を通したことのないものはザラで、ディエゴがこのように着飾らせろと命令しただけどんどん増えてゆく。それだけではない。化粧品の匂い、香水の香り、女の匂いが溢れ出して扉に手をかけたまま佇む裸体を包み込む。ジョニィはもう知っている。これは女の香りだ。エリナの匂い、自分の匂いだ。
 新しいドレスは一週間前に届いた。純白のレースの塊と言ってもいい。手にすると意外とずっしり重い。
 ウェディングドレスを見ると、思わず笑いが出る。まさか、冗談だろう。穴を穿たれた身体、エリナという名前、フィアンセという設定、どれもジョニィ・ジョースターをずたずたに引き裂き、完璧なほどのトロフィーを作り出した。自分はトロフィーだ。分かっている。でもまさかトロフィーと結婚する人間はいない。トロフィーは記念品だ。眺めるものだ。
 違う。トロフィーだからこそそれは必要なのだ。結婚式を挙げ、神の前で誓い合い、法と理で縛ることで社会的にも肉体的にも精神的にも、名も実も自分はディエゴのものになるのだ。完璧なほど、ではなく、完璧そのもの。結婚式を経ることで自分は完璧にディエゴのものになる。肉体にはエリナ・ブランドーという名が正式に与えられ、その中に閉じ込められた精神はもう何者にもなることはできない。
 ジョニィはへなへなと座り込む。助けを呼びたかったがどれだけ叫んでも誰にも届かないことは二年間身に染みて分かっていた。逃げ出したかったが、この部屋のドアさえ自分で開けることができない。ビルの八十一階の、ロックされた部屋に閉じ込められた肉体の更に最奥に押し込められた名前を、とうとうジョニィは呼ぶことができなかった。それは生まれて両親から与えられた名なのに。先までの十九年間、自分の名だと疑うことなく、また手放すことなど夢にも思わなかった名であるのに。
 ジョニィ・ジョースターは今日、死ぬ。
 首を反らすと斜め後ろにニコラスが佇んでいた。へたり込んだ自分をガラス玉のように無感情な瞳で見下ろしている。その表情はほんの少しだけ微笑して見えた。
「分かってるよ、兄さん…」
 これが宿命なのだ。あの落馬事故で死ぬべきだったのは兄ではない、自分だ。あの美しく雄々しい馬はニコラスを踏み殺した。何故。自分が約束を破ったからだ。父の命令に背いたからだ。ニコラスは優秀だったのに、自分は劣っていた。ニコラスは美しい精神の持ち主だったのに、自分はクズだった。美しく素晴らしい肉体と魂を犠牲にして、出来損ないが生き延びてしまった。その償いをしなければならない。
 ニコラスはもう馬に乗ることはできない。ならばこの脚をもって。
 ニコラスはもう心を動かし笑うことはできない。ならばこの心をもって。
 ニコラスはもう生きて九月の空の下、地を踏みしめることはできない。ならばこの肉体と精神と命の全てをもって。
 ジョニィ・ジョースターという全てをもって償わなければならない。
 だから死ぬのだ。ジョニィ・ジョースターはその全てを奪われて死ぬ、それが宿命だ。執行人がディエゴ・ブランドーであるということは運命の皮肉ではない。寧ろ当然のことだった。苦しまなければ罪ではない。最も手放したくないものを失うのでなければ罰ではない。
 ジリリ、と古風なベルの音が鳴り響いた。ジョニィは肩を震わせ振り返る。ニコラスの姿は消えている。立ち上がることもできずキョロキョロしているとドアが開いた。部屋に入ってきたのはホット・パンツとサンドマンだった。
「まだ支度をしていなかったのか」
「…一人じゃ着れないよ」
 ホット・パンツはジョニィにガウンを羽織らせ、車椅子に乗せた。サンドマンは純白のウェディングドレスを肩に担ぎその後に従った。

 微笑む必要はない。表情はヴェールに隠れ、見えない。しかしそれでもジョニィの顔には微笑が貼りついていた。人前に出る時、それはもう反射となっていた。ジョニィ・ジョースターという存在を恥辱の事実と好奇の視線から隠すための薄っぺらな鎧。しかしこれを身につけ続け、ジョニィという存在は守られるどころかたった今一歩一歩と死に近づいていた。
 ヴァージンロードをエスコートするのは知らない男だった。いいや、顔は知っている。名前も。だがこんな男がこんな場所にいて生贄を差し出すがごとく花嫁の手を引くのが信じられないのだ。アメリカ合衆国先代大統領ファニー・ヴァレンタイン。筋肉質だがすらりとして見えるのは所作の優雅さ故だろうか。羨望の視線を感じる。列席する人々の目には、自分とヴァレンタイン前大統領がまるで親子のようにも見えているのだ。真実は違うとしても、とても似合いであると。
 彼こそアメリカ人と呼べるようなファニー・ヴァレンタインに手を引かれてヴァージンロードを歩み、競馬界の貴公子にしてアメリカンドリームをそのまま叶えたような若き成功者であるディエゴ・ブランドーを花婿とする自分を誰もが羨んでいる。これはまるで死刑台へと続く道も同然なのに!
 ディエゴが自分を待っている。顔には笑みを湛えているが、自分を見るその目の冷たさは変わらない。獲物を睨みつけ今にも喰らおうとする爬虫類の目。
 大統領の腕が離れる。身体がわずかに傾ぐ。ドレスの下で補装具が軋む。次の瞬間にはディエゴに手を取られていた。さらに二歩歩み、牧師の前に立った。
 若い牧師だった。ニコラスに似ていると思った。寧ろジョニィの目にはニコラスそのものに見えていた。幻とも思わない。宿命がこの身に追いつく瞬間を、彼こそ見る権利がある。
 怖いか? 怖くない。
 悔しいか? 悔しくない。
 諦めているのか? …とうとう時が来たと思うだけだ。
 ニコラスは誓いの言葉を読み上げる。自分は兄が、ニコラスが好きだった。ニコラスがいれば父の叱責も何もかも世界に恐ろしいものなどなかった。ニコラスはいつも助けてくれた。ニコラスはいつも導いてくれた。これから一緒に世界へ出て行こうと、約束をした。
 だから世界を返す。
 自分が奪った時間を、青春を、人生を、この身から剥ぎ取ることであなたに返す。
「エリナ」
 ニコラスが呼ぶ。
「ディエゴ・ブランドーを夫とし、永遠の愛を誓いますか?」
「はい」
 慌てず、急かず、だが躊躇することも言葉を濁らせることもなく返事をし、頷いた。
「誓います」
 この瞬間、彼は彼女になり、エリナ・ブランドーになった。
 もう誰もジョニィとは呼んでくれない。
 真実を知るディエゴさえも。誰も。
 誰も。

 パーティの時間は水の流れるように目の前を流れる。様々な人の顔が流れてきては流れ去り、身体の中にはワインが流し込まれ、それでもちっとも酔えなかった。背後には、サンドマンでは目立つからか、ホット・パンツが護衛のように寄り添っている。隣のディエゴもちっとも酔ってはいなかった。喜んでいる素振りは見せたが、それは本心ではないと自分を掴む手の強さに感じた。これでもまだ足りないのだ。ディエゴは更なるものを欲しているのだ。視線の先にはファニー・ヴァレンタインがいる。
 ヴァレンタインはディエゴの視線に鋭く気づき、こちらを振り向くと鷹揚な笑みを浮かべた。
「ブランドー君、妻と友人を紹介しよう」
 スカーレットと紹介された黒髪の女性は楽しそうに笑いながら隣にいたもう一人の小柄な女性の手を引いた。
「こちらは私のお友達、ルーシー・スティール」
「そしてこの男は改めて紹介するまでもない有名人だが、スティーブン・スティールだ」
 スティール夫妻は夫婦と紹介されるにはあまりにも齢が離れていた。ルーシー・スティール、若干十四歳にして大物プロモーターの妻だった。まだ少女である。それなのに元ファーストレディのスカーレット・ヴァレンタインに腕を組まれても怖じず、夫と元大統領とセレブリティとの会話に楽しげに加わっている。
 すごいな、と思いながらもそれ以上の頭は働かず、会話は耳から耳へとすり抜けるばかりだ。ぼんやりとお喋りの輪を眺めていると、不意にルーシー・スティールと視線が合った。ジョニィは貼り付けたままの微笑から、もう少しにっこり笑ってみせる。しかしルーシーは笑い返さなかった。静かな瞳がこちらを見つめ続けた。奥底まで見透かされそうな視線。もうこの身体の中は空っぽなのに…。
「なにか…」
 ルーシーはガラス張りの壁を振り向いた。
「なにか、聞こえませんか?」
「どうしたんだね」
 尋ねたのは夫のスティーブン・スティールで、ヴァレンタインは急に顔を険しくし、会場全体に視線を遣った。スカーレットがヴァレンタインの腕にしがみつく。
「大きな音…近づいてくる」
 その時、壁際から叫び声が聞こえた。
「飛行機だ!」
 叫びは幾重にも重なりフロアを満たす悲鳴となった。ジョニィの目もみるみる見開かれた。飛行機だ。ジェット機がニューヨークの空を飛んでいる。これから地上に舞い降りる鳥のように低く、低く、このビル目がけて。
 どっと人が流れ出す。ジョニィの身体は蹌踉めき、冷たい腕に掴まえられた。
 次の瞬間全身を包み込んだのは、音、だろうか。
 爆音。
 衝撃。
 熱。
 ガラスの破片。コンクリートの塊。黒と白と灰色がめちゃくちゃに混ざったような砂と煙とそれから炎だろうか。
 何が起きたのか。ビルにぶつかりそうな飛行機。ビルの最上階で結婚式を挙げた自分。ジョニィと呼んでくれる人はもう誰もいなくなった。それよりも衝撃的で重大な事件が?
 瞼を開く。何も見えない。立ちこめているのは何か。熱い煙が顔を焼く。喉が痛い。身体中痛い。咳き込み、涙を流し、目元を擦り、もう一度瞼を開く。
 そして瞼など開かなければよかった、と後悔した。
 ふらふらと倒れそうになる身体を冷たい腕が抱きとめた。
「エリナ」
 反射的に顔を上げる。額から血を流したディエゴが自分を睨んでいる。
 傾いだテーブルの影に彼らはいた。ディエゴと、ディエゴの腕に守られた自分、そしてホット・パンツだ。
「姿勢を低くしろ。煙を吸うな」
 ホット・パンツが袖で口元を覆う。
「何が起きたのか…? そんなことは後でいい。私が出口へ誘導する…」
「エリナ」
 本来心強いはずのホット・パンツの言葉を遮って、ディエゴが呼んだ。
 冷たい手が触れ、頬から首筋に滑る。そしてウェディングドレス越しに乳房を強く掴む。ディエゴは自分の花嫁を引き寄せると、灰と埃にまみれた顔を、唇から瞼まで長い舌でべろりと舐め上げた。
「エリナ」
 耳元で、ベッドで囁くように呼ばれる。
「お前はエリナ・ブランドーだ、永遠に」
 囁きが湿った息と共に耳の奥に滑り込み、鳥肌を立てる。その時また不意に、強い衝撃を感じた。
 それはさっきのように全身を包み込み耳を聾するものではなかった。
 胸の上に、強く、ドン、と。
 ディエゴの冷たい手が胸を押し、突き飛ばす。
「え……?」
 天井から降ってきた瓦礫が視界を覆う。再び舞い上がる埃と煙と。
 嗄れた喉がもう一度疑問符を吐き出そうとするが、それさえ適わない。呆然と目の前の瓦礫を見つめる。何故、自分はここにいる。ディエゴはどこへ行った。ディエゴは、何をしたんだ?
 黒煙の中から白い腕がぬっと伸びて、ジョニィを瓦礫とは反対側に引っ張った。
「しっかりして!」
 少女の声が耳を打った。誰だろう。
「しっかりするのよ!」
 腕は自分の身体を抱き寄せる。熱いほどの熱を持った腕が背中を抱いて瓦礫から遠ざけた。また崩れ落ちた瓦礫が粉塵を巻き上げた。
 がしゃがしゃと音がする。補装具が壊れているのだ。そうと自覚した瞬間に脚が止まり、つんのめる。
「動くのよ」
 声に視線を上げる。煤まみれの少女が凛とした顔でこちらを見つめている。
 ルーシー・スティール。
「目が覚めた? 動くのよ。脚を動かすの。向こうに出口がある」
 ルーシーが指さすと煙が割れて、確かにドアの半壊した出口と、その向こうのエレヴェーターホールが見えた。
「非常階段がある。そこを下りなさい」
「脚が…」
「脚を動かして」
 少女の手はジョニィの背骨の上を強く叩いた。
「GO! GO!」
 その掛け声に促されるようにジョニィは一歩踏み出す。
 ぐらぐらだが床を踏むことができる。踏みしめることができる。もう一歩。
 脚が動く。歩ける。
 一度だけ振り向いた。ルーシーは血を流している夫に寄り添い、彼を抱え起こそうとしていた。もう一度だけ視線が合った。
「GO!」
 走れる。走り出す。瓦礫を踏み越えて、壊れたドアを乗り越えて、エレヴェーターの前に辿り着く。
 違う。非常階段だ。
 非常階段の扉の前に一人の男が立ちはだかっていた。
「サンドマン…」
 ジョニィは嗄れた声で呼んだ。サンドマンは脚を引き摺り、手もだらりと垂れていた。骨が折れている。手は、掌の先は、指は。滝のように流れる血は。
 しかしサンドマンは立ちはだかっていた。傷ついているように見えなかった。その表情は毅然とし、ジョニィの後方、破れたドアの向こうを見ていた。
「Dioは?」
 ジョニィは振り向かず視線だけでちらりと後ろを見ようとし、俯いた。その横をサンドマンが走り去っていった。瓦礫を踏む音。飛び上がる音。そしてDioと叫ぶ声。
 それらに背を向け、ジョニィは両手で鉄の扉を開く。鉄でできた真っ暗な階段が下へ下へと続いている。靴がカンと響く音を立てた。ジョニィは一騎に下へ下り始める。もう補装具を着けていないことも気にしてはいなかった。何故自分の脚が動くのかも考えなかった。
 脚を動かさなければならない。それだけだ。
 急に冷たい風が下から吹き上げる。息の通る心地良さを感じたのは一瞬だった。それはすぐに恐怖に変わった。
 階段の先はなくなっていた。足下には真っ黒な奈落が口を開けていた。目の前に壁と呼べるものはなくなっていて、そこから見えるのはこの二年間見つめ続けた七十八階から眺望するマンハッタンの景色だった。
 遥か地上からサイレンの音が届く。七十八階。メートルに直せばどのくらいだろう。ジョニィを追い抜くように灰や燃えかけた紙が火の粉を上げながら空に舞った。
 このビルから出たかった。自分を閉じ込め屈辱の下に支配する七十八階から逃れたかった。二年間そればかり考えてきた。
 押されたのは胸ではなく、背中だった。ジョニィはドレスの両裾を持ち上げビルの破れ目の縁に立ち、思い切り足下を蹴った。



2013.8.29