サクロサンクトサクリファイス 4




 たくさんの人間がいる。蠢いている。ざわめいている。ディエゴが足を進めるたびにそれは少し開き、そして人々がこちらを見る。
「Dio」
 幾つもの声が呼びかける。Dioと親しげに呼び褒め称える。先のレースのこと。テレビ出演のこと。会社の業績のことや慈善事業のこと。
 慈善事業だって!?
 ジョニィは眩暈を起こしそうになりながら顔に貼り付けた微笑を維持し続ける。
「Dio、そちらの女性は?」
「新しい恋人かね」
「いいえ、まさか」
 ディエゴはにこやかに答える。
「彼女がオレのフィアンセ、エリナです」
 ほとんど卒倒しそうになるのを、ジョニィはディエゴの腕に強く掴まることで堪える。するとディエゴはぐっとジョニィの身体を抱き寄せる。補装具がギシリと軋む。それにさえ人々は好奇の目ではなく、ジョニィにいたわりを、ディエゴに対して尊敬の念を向ける。ディエゴ・ブランドーはハンディキャップにも負けない女性をパートナーとして選んだのだ。きっとDioがこの女性を支えたのだろう。まるで心が通じ合っているようだ、と。
 周囲から仲睦まじげに寄り添っているように見えるのならば、それでいい。今はジョニィさえそう願う。この人混み。サンドマンの姿もない。逃げ出すなら今だ。ディエゴも衆目の面前で飛びかかってはこないだろうと思う。しかし。
 自分がジョニィ・ジョースターであると気づかれてはならない。
 絶対にだ。声をかけてきた者の中には、そしてディエゴが挨拶する人間の中にはジョニィもよく顔を知る競馬関係者が幾人もいた。その誰もがディエゴが連れているのはジョニィだと気付いていない。今は、だ。ジョニィは女性のように見える。否、女性そのものだ。決して大きくはないが胸もある。リハビリの甲斐あってプロポーションはしなやかだ。顔は…化粧のせいだろうか。それともペニスをなくし穴を穿たれることで顔まで変わってしまったのだろうか。女であるように?
 ホット・パンツの言うとおり、自分はこの二年間ディエゴを受け入れてきた。一日に何回も。毎日のように。ジョニィが男性であるということを示す証拠を、この肉体は持たない。しかしドレスの裾を捲れば下着をつけていない下半身に、女性の持つ穴を認めることができる。
 窓の映った姿を見たじゃあないか。
 あそこにいたのは女だ。
 顔には自信がある。
 あの女は。
 自分は。
「お美しい方ですね」
 思わずきょとんとしてしまった。それが自分に向かってかけられた言葉だと気づくのに数瞬遅れた。ディエゴの腕を掴む力が緩み、身体が蹌踉ける。すぐにディエゴはその身体を支えて引き寄せた。
「自慢のフィアンセです」
 ジョニィは微笑が崩れぬよう懸命に繕う。照れたふりをしてディエゴの胸に顔を押しつけた。本来ならばしたくもないが、本当に崩れ落ちてしまいそうだ。するとその様子を見たご婦人方が、まあ可愛らしい、と笑いさざめくのが聞こえて頭の中が白くなる。
 ディエゴと似合いに見える。ジョニィ・ジョースターと気づかれない。好都合だ。
 顔には自信がある。美しい、可愛いの賛辞も当然だろう。享受するがいい。
 だがまるで鉄の靴を履いて焼けた鉄板の上を踊らされる主人公のような気分だ。
 冷たい指が顎を掴んだ。
「顔を上げろ」
 低い声が囁いた。
「折角の美人を見てもらわなければ勿体ないだろう、エリナ」
 エリナ。
 どこのどいつだよ、と胸の中で笑いながら叫び、そうかぼくが見たのはエリナって女の子だったのか、とぼんやり麻痺した心が思った。
 会う人間会う人間が美男美女のカップルだと褒めそやした。何も考えなくても微笑だけは貼りついていた。かけられる言葉に頷き、笑みを返し、ディエゴの腕に掴まる。時々、補装具が軋む。その音に自分が一人では歩けないことを思い出す。しかし天才ジョッキーだった自分、銃で撃たれた事件、眠っている間になされた手術、七十八階で繰り返されたセックス、どれも地続きたる重力を失いばらばらに浮遊していた。確かなのは目の前の今だけだ。白いシフォンのドレス。だがヒールは高くない。補装具。杖はないがテーブルが幾つか並んでいる。手をつけば歩ける。視線を泳がせる。サンドマンはいない。この見られている感は監視カメラか。否、誰もが自分を、自分たちを見ている。部屋の扉はどこだ。今なら、今ならきっと…。
「ほら」
 ぐいと腕を引かれた。
 反射的に顔を上げるとディエゴが綺麗な笑みの中、氷のように冷たい瞳で自分を見下ろしている。
「オレにばかり喋らせるんじゃないぜ。自己紹介してくれ」
「………?」
 ぼくの名前は、
「オレのフィアンセの…」
 目の前には幾つものにこやかな顔。彼らの手にしたグラスには白いドレスを着た女が映っている。
「エ……」
 震える声は女の声だ。
 目の前の顔を判別する。右の男は馬主、その隣に立っているのはエージェントだ。何度かこういう席で顔を合わせたことがある。左の端の若い女は、フランスのジョッキーの通訳をしていた女だ。自分は相手の顔を知っている。しかし彼らは、こっちが自己紹介をするのを待っている。
「エリナ…です…」
 補装具が軋んだ。
 その後も何度か自分で名乗らされた。高い、わずかに震える声が繰り返す。エリナです。エリナです。フィアンセのエリナ、です。
 気を失っているのに身体だけ勝手に動いている。そんな自分を天井から見下ろしている気がする。エリナと名乗る女はワインを片手に笑っている。ディエゴも隣で笑っているが、自分の腕に掴まる女を見下ろす視線は爬虫類のように冷たい光を帯びていた。
 あれはディエゴだ。
 隣の女は、エリナ…。
 ぐるりと視界が反転する。手からワイングラスが離れた。しかし絨毯の床の上で、それは割れもせず、衝撃も赤くこぼれるワインも吸い込んでしまう。遅れて身体が倒れ込むが、音も衝撃もなかったのは絨毯のお蔭ではなかった。
 間近でディエゴの顔を見た。視界にわらわらと浮かぶ顔の中に過去を探した。捨てた男、捨てた女、自分を捨てた父、自分が死なせた兄。
 誰もいない。目の前にはディエゴしかいない。
 とうとう視界は真っ暗になった。

 喉の奥に何かが流れ込む。息苦しくて、咽せる。吐き出したのはただの水だった。もっと毒液のようなものを流し込まれたかと思っていた。
「死ぬかと思った…」
 か細い声が呟いた。
「ふん、神経の細いやつめ」
 空のコップを握ったディエゴが嘲り笑った。
「そんなでオレのフィアンセが務まるか」
「…婚約した覚えはない」
「左手を見てみろ」
 左手を持ち上げる。見上げた天井は自分の部屋とも、七十八階のどの部屋とも違う。ジョニィは首を巡らせる。スイートか。何階だろう。七十八階よりも上。多分そうだ。でもどうでもいい。薬指には銀色の指輪が光っている。
 ディエゴはコップを放り出すとベッドに膝をつき、上から覆い被さる。冷たい手がドレスを捲り上げ、乳房の上を這った。指先が乳首に触れ、押し潰す。思わず漏れかけた声を堪え、ジョニィは顔を背ける。しかしディエゴはそれを許さない。
 脚の間に割り込む身体。大きく広げられ露わになった股間には既に硬くなったものが押しつけられている。
「どうしてそんな顔をする?」
 耳元でディエゴが囁く。
「このドレスは似合っていた。これからは毎日化粧をしろ。そのルージュの色も似合う」
 ジョニィは首を振る。すると両手で頬を包まれた。唇に柔らかく、だがやはり冷たいものが触れた。
「お前の名前は何だ?」
 冷たい指が左腕から左手を滑る。薬指に銀色の輪。枷のように、外れない。
「名前を言え。自分の名前を。お前はオレのフィアンセだ」
 何度も繰り返した。大勢の人間の前で。微笑を浮かべて。
 フィアンセです。
 私は。
「エリ…ナ……」
 喘ぐようにその名を口にした。
「エリナ」
 ディエゴが呼んだ。
 ジョニィは呆然と天井を眺めていた。視線を固定するだけの力もなかった。頭の中には何もなくなってしまって、空洞にエリナという名前だけが木霊していた。キスをされているのだとは、息苦しくなってからようやく気づいた。
 熱い肉塊が挿入される。頭の芯が痺れる。脳の一部がもうコントロールできなくて、ディエゴの声と言葉に勝手に反応を起こす。二年間この男とセックスをした。慣れ。快楽。ディエゴの声も肌の匂いもすっかり染みてしまっている。
「エリナ」
 膣のある肉体。乳房のある肉体。薬指の指輪。エリナ、と繰り返し呼ばれる名前が、肉体と心を縫い合わせる。ジョニィ・ジョースターが遠ざかっていく。もしかしたらもうそんな男はいないのかもしれない。そんな存在などなかったのかもしれない。ペニスは失ったのではない。最初からそんなものはなかったのではないか。
 射精される。溢れ出す精液の匂いさえ、身と心に染みついている。匂いをかぐだけで味まで思い出すことができる。横目にベッドの向こうを見た。摩天楼から見下ろす世界一の夜景が見えた。その視界が揺れる。当然だ。ディエゴとのセックスが一度で終わるはずがない。これから続くのだ。これから始まるのだ。



2013.8.25