サクロサンクトサクリファイス 3




 ベッドの上で目を覚ます。部屋には明るい光が満ちている。まだ七十八階にいるのだと思う。否、七十九階だろうか。どこでもいい。ビルの中には変わりない。久しぶりのベッドの上でのセックス。だがとても疲れていた。身体がだるかった。寝返りを打ち広い窓から外を見遣るとほんの少し景色が違う気がした。寒すぎるほど効いた空調の下静かに呼吸しながら、たったそれだけのことにも新鮮さを感じる自分をジョニィはじっと見つめた。外に出たいと、今でも願っている。
 このビルから、ディエゴの手から逃れようと試みたことは何度もある。初めの頃は部屋から出されるたびにそうだった。エレヴェーターや非常階段に向けて逃走を図り、時には窓から飛び降りようとさえした。(ちなみに窓は開かなかった。排煙口では狭すぎた。)そのたびにジョニィはサンドマンのナイフに刺され、傷を負ったまま拘束されディエゴの前に差し出された。傷口から出血したまま性交がなされることもたびたびだった。ジョニィは血を失い朦朧としながらこのまま死ぬのかと考えたが、今も生きている。生かされている。
 一年もする頃には身に染みていた。ジョニィは無謀な逃走を図ることをしなくなった。時にはチャンスらしきものを目にしながら、しかし冷静に考えるようになった。背後のサンドマン。監視カメラ。ディエゴがボタンを一つ押しさえすればフロアの全てのドアがロックされる。警備員もいるが、それ以上にディエゴは強い。一度自分があの身体を組み敷いたということが嘘か夢であったかのように、ディエゴは強い。肉食獣のように飛びかかり、あっという間にジョニィを組み伏せる。獣…いやもっと原生の生物のようだ。猛禽。だが翼などない。打ち据える手、這い回る手、舌さえも冷たい。ワニ、トカゲ、鱗と牙を持ったモンスター。恐竜を目の前に為す術もなく震える子どもの姿が浮かんだ。スピルバーグの映画だ。枕元を見上げる。コップの水が震えていないかと確かめる。そんなことはない。
 ジョニィは身体を起こした。シーツの上を何かが滑った。落ちる前に手で掴む。それでも掴み損ねたものがカラカラと音を立てて床に落ちた。コンパクト、ルージュ、それ以外のものが何なのかはよく分からなかったがどれも化粧品であろうことは想像ができた。
 手に掴んでいるものはドレスだった。ワンピースだ。フワフワしている。名前は知らないがかつてレース後のパーティなどで言い寄ってきた女の子が来ていたものに似ていると思った。つまりそういうドレスだ。
 ドレスを着せられたことは何度かある。遊びだろう。ディエゴは時々そういうことをした。モンロー、ヘプバーン、往年の銀幕スターと同じ衣装を身に着け、やる。だがディエゴ本人が途中で飽きてしまい、ドレスをズタズタに裂くのが常だった。ドレスを裂いてからはいっそう激しい。
 ジョニィはドレスを両手で持ち上げ、今度はどんな女優のどんな映画の衣装だろうと思う。ディエゴに囚われる前も映画などろくに観なかった。女優や女優の卵ともよく寝たけれども、彼女たちが出演する映画や舞台をジョニィは知らない。無理やりシアターに連れて行かれても半分以上寝ていたと思う。
 午前中にやったばかりだ。しかも午前のほとんどの時間を潰して続いた。ジョニィは疲れ果てて途中で寝てしまったほどだ。ディエゴはジョニィを無理やり起こすことはせず、眠ったままのジョニィを相手にセックスを続けた。それでこの時間になっている。時計を見る。午後三時前。最初から汗などかいていなかったかのように身体は冷たい。ジョニィは下ろした脚を動かして床に散らばる化粧品を蹴った。
 夕方になり部屋に入ってきたのは女だった。暗い色のスーツで身を固め、動作もきびきびしていたが女だとすぐに分かった。腹がふくらんでいた。妊娠している。
 女という存在も、背格好も、ブラウンの髪も、淡いルージュを引いた唇も、何もかもが目新しくジョニィはぼうっとしてしまった。この二年、ディエゴとサンドマン以外の人間を生で見るのは初めてだった。
「支度をしろ」
 女は事務的な口調で言った。サンドマンと一緒だ。
 着たくないと言っても着せられる。それでも拒めば全裸でも連れて行かれるだろう。行きつく先は変わりない。ジョニィはベッドの上に放り出したままのドレスを黙って手繰り寄せた。
 しかしドレスを身にまとっても、女は待っていた。裾を捲り補装具を装着する。それでも動かない。
「…化粧を?」
 ジョニィは顔をしかめる。
「自分でしろって?」
「できないだろうとDioが判断したから私が来た」
 Dio。それは愛称でもある。敬称でもある。彼がトップに君臨するものであると表す名前でもある。ジョニィは何故か身震いをする。
 女はしゃがみこみ床の上の化粧品を集めるとジョニィの前に立った。ジョニィはわずかに身体を退いた。ふくらんだ腹に威圧感を感じた。相手が腹に脂肪を詰め込んだだけのデブであればこのようなことはなかった。その中に命を宿していると思うと、頭の奥、本能的な部分が恐れた。ジョニィが命を継ぐことはない。産ませることは勿論、孕むことも。
「血化粧で人前に出たくなければおとなしくしていろ」
「人前……」
「Dioはお前を伴ってレセプションに出席する」
「レセプションって…何……」
 だが女は答えなかった。女の指先が顔にクリームを塗り、粉をはたき、アイシャドウを塗ったり線を引いたり頬にキラキラ光る粉をつけたりするのをジョニィは黙って受け入れた。ろくな結果にはならない気がした。自分は男なのだ。男の顔に化粧をしても…。
 ルージュを引き終えて、女はわずかに身体を離した。
「…鏡を見るか」
「笑える?」
 やはり女は答えない。目の前にコンパクトの鏡が差し出された。ジョニィはそれを手に取った。
 鏡を見ているとは思わなかった。思えなかった。知らない顔が映っている。自分の顔ではない。じゃあこれは鏡ではないのだろうと思う。
「あのさ…」
 口からこぼれた言葉は無意味で、考えたものでもなくて、そして聞こえる声は女の声だった。
「あのさ、これ…」
 だが目の前の顔は、聞こえる言葉のとおり唇を動かす。
 女がいる。小さな鏡の中に女がいる。ジョニィの見たことのない女が恐ろしいものでも見るかのようにこちらを見つめている。
 ジョニィは窓に向かってコンパクトを投げつけた。硬いガラスに跳ね返り、壊れたのはコンパクトの方だった。ジョニィは口元を押さえて屈みこんだ。喉の奥に気持ちの悪いものがこみ上げる。
「ドレスを汚すな」
 女が慌ててゴミ箱を引き寄せた。ジョニィはその中に吐いた。
「誰…誰なんだ…」
「ホット・パンツ」
「へ?」
 女が自分の名を名乗ったのだと、一瞬気付かなかった。
「これは…何……」
「化粧が崩れる」
 女――ホット・パンツ――の手が伸び、ハンカチが目元を押さえる。ジョニィはベッドの上に横たえられた。荒い息が収まらなかった。ヒューヒューと喉が鳴る。天井がぼやけて、自分が泣き出したのが分かった。泣きながら、泣いていることにも驚いた。ホット・パンツはハンカチを濡らすとジョニィの瞼の上に載せた。
「泣くな。そんな顔では連れて行けない」
「どこに…」
「レセプション」
「一体何なんだ、何だって?」
「お前はDioと一緒にレセプションに出席する。目を腫らすな」
「ぼくは…」
 女の震え声が耳から入り込み、脳を揺らす。
「ジョニィ・ジョースターだ。ぼくは男だ」
「昔はそうだったんだろう」
「ぼくは…」
「ジョースター」
 ジョニィ、とは呼ばれない。ホット・パンツの手はジョニィの腹の上を下へと滑り、ドレスの上から股間をなぞった。なぞられるその形は、滑らかな曲線。
「男だったのかもしれない。だが今はそうではない」
「ぼくは…」
 ホット・パンツの指は下着の上から亀裂をなぞった。ジョニィは小さく引き攣った悲鳴を漏らした。
「お前は受け容れたのでは?」
「違う、ぼくは…」
「だがDioを受け入れた」
 ここで、と指が強く押す。穴がある。女が持つ穴。ジョニィの押し開かれた穴。
「違う、違う違う……」
 ジョニィは首を振る。浴室の鏡に映った姿。小さな乳房。顔は変わらないと思っていた。鏡の中の顔に何度も話しかけた。ジョニィ・ジョースター。あの時見えていた姿は幻だったのだろうか。ジョニィ・ジョースターと呼びかけた声は誰のものだったのか。細く高い掠れ声。つるりとした股間を毎日見た。傷一つない。最初から何もなかったかのように。脚の間からは時々血が流れる。ジョニィは抗生剤を塗る。穴の中にクリームをつけた指を自分で突っ込む…。
 枕の上に吐き、ホット・パンツは今度は慌てずジョニィの頭から枕を抜くと濡らしたタオルで口元を拭った。
 涙が止まり、瞼の上からハンカチがどけられて、ジョニィはしばらく天井を眺めていた。しばらくは眼球が上を向いているというだけで何も見えなかったが、やがて白くぼやけた視界に影の濃淡が現れ、輪郭を為す。夕景の天井。
「起きろ」
 ホット・パンツの事務的な声に、ジョニィは素直に従った。化粧を直すのには少し時間がかかったが、思ったほど大仰なことにはならなかった。泣いたから目元が真っ黒になっているのではないかと思ったのだが、そんなことはなかった。もう泣いたほどではマスカラは崩れないのか、それとも大して泣いていないのだろうか。
 そのまま連れて行かれそうになり、ジョニィはホット・パンツの手を引いた。
「もう一度、鏡を…」
 するとホット・パンツはじっとジョニィの顔を見つめたが、やがて引かれた手を離し壁に寄った。天井の照明が点けられた。その瞬間、窓の外が夕闇に暗くなり、その中にジョニィの姿が浮かび上がった。
 白いドレスを身に纏った、女の姿だった。
 わずかに跳ねた髪をなおしながらジョニィは言った。
「ぼく、昔から顔に自信あったんだよね」
 ホット・パンツは何も言わず部屋の扉を開けた。



2013.8.24