ストレイソング







「どうしたらこんなに美味いコーヒーが淹れられるんだろう」
「ジョニィ、この天と地の間にはおまえさんの哲学では思いもよらないことがわんさとあるんだ」
「ちぇ、馬鹿にしてやがる」
 雨が降り続いていた。ぼくは辟易していた。それでもジャイロの淹れてくれるこのコーヒーがあるから保てている。太陽が懐かしい。砂漠ではいっそ忌々しくさえあった太陽を、肉体が欲している。
 今日のコーヒーはいっそう熱く、ぼくは舌先を火傷する。しかしその痛みさえ心地良く感じながら喉を滑り落ち腹の底へ流れ込む熱い液体に酔う。雨は相変わらずカンザスの草原を、ぼくのフードを叩く。耳に届く雨音は本物以上に大きくて、輪郭がぼやけている。時々、自分の息づかいがひどく大きく聞こえる。そんな時、ぼくは俯いてしまっている。隣のジャイロを見ると、彼の目は真っ直ぐと前を目指している。あの帽子の下で、雨音はどう聞こえているんだろう。
「いいコーヒーの条件を知ってるか?」
 ポットからおかわりを注ぎながら、ジャイロが言う。視線は注がれるコーヒーを見つめたまま。その上にも雨が降り込む。湯気が踊り、消える。
「いい豆を使うとか、そういうこと?」
「淹れ方じゃあない。おたくはどういうコーヒーを飲んで美味いと思う」
「そりゃ今まで飲んだコーヒーは君のに敵わないけど」
 素直に答えたら褒めるつもりはないのにそんな感じの科白になって、敵わないけどさ…、とぼくが口籠もるとジャイロはニョホと嬉しそうに笑う。
「熱いこと。火傷するくらいに」
 ぼくは舌を出す。火傷をした上に雨の雫が落ちる。痛みが蘇る。感覚が半分死んだ感じで、がさがさした痛みだ。でも心地いい。
 雨を飲むぼくを横目にジャイロがコーヒーに一口、口をつける。湯気がふわりと漂う。
「味も香りも大事だけど、見た目も大事だな。どろっどろで真っ黒いの。地獄の釜の底みたいだ」
「いい喩えをするじゃねえの」
「そう?」
 ジャイロは手の中のカップを両手で包み込み、呪文のように呟く。
 ――悪魔のように黒く、地獄のように熱く、接吻のように甘く。
 その瞬間ぼくはお腹の中のコーヒーが逆流したかと思うくらいに身体中がぼっと熱くなった。思わずでたしゃっくりと一緒にコーヒーの香りが鼻先に蘇る。
「…それ?」
 にやりと笑ってジャイロはコーヒーを飲み干す。
 この頃、まだぼくらはキスをしたことがない。ぼくは何となくジャイロがするキスを想像した。自分と、っていうことじゃなくて。どんな風に女の子と付き合うんだろうみたいな。でもそれまで漠然と想像のついたことが、急に分からなくなって、多分コーヒーの話をしてしまったのが原因だと思う。ぼくがジャイロのキスを想像するのはコーヒーを飲む時、その最初の香りを鼻に吸い込んで一口つける時だからだ。

 雨上がり、河の向こうに虹を見る。ぼくは急に元気になって、ちょっとはしゃぐ。窘めるかと思ったらジャイロもはしゃいでいた。
 流れに沿って走り、水の退いた場所を探す。濡れた草を踏む蹄の音が、フードを脱いだ耳に心地良く響いてそれさえ歌のように聞こえる。気分がのって歌い出したくなるが、ぴったりの歌が浮かばない。そもそもぼくが歌う歌って…?
 劇場で流れる最新の流行歌じゃない、太った歌手の歌うオペラじゃない。なにか、もっと、根源的な、喜びを歌うような歌がなかっただろうか。身体の欲するままに歌う方法が…なかっただろうか。
 そんな時に限ってジャイロが自作した変な歌しか浮かばない。折しもそこへ、ジョニィ、と呼ばれる。この顔はきっとまた変な歌が出来上がったに違いない。
 ぼくは笑いだし、笑いながらジャイロを追い抜く。後ろから、おい、こら、聞けよ、まだ何も言ってねーだろ!とジャイロが追いかけてくる。今日な何の歌だろう。雨の歌?コーヒーの歌?虹の歌?最後のはロマンチックすぎるだろ、君。なしだ、なし。

 夕暮れになり、なかなか火が点かない。午後は雨が上がったとは言え、服も荷物も重く濡れていた。馬もぼくらも疲労が溜まっていた。
「焦らずやろう」
 舌打ちして湿った木の枝を放り捨てるぼくにジャイロが言う。
 大きな樹の陰。見渡す限りの草原に、本当にこれ以外のものがない。ようやく休める場所を見つけたと思ったけど、本当に、この旅では思い通りにならないことは多い。いちいち腹を立てても仕方ない。受け入れて、それでも前に進まなければならない。ただ雨上がりの虹を見てテンションが上がりすぎたから、水を差されたようでくさくさしてしまったのだ。
 ようやくついた火にほっと息をつくと、上から重たいものがぼくの頭を押さえつけた。ジャイロの掌だ。
「よし」
 赤い火を見て彼は一言そう言い、ぼくの頭を撫でようとする。
「子ども扱いするなよ」
「帽子、濡れてるぜ」
「分かってる…」
 ジャイロがぼくの帽子を引っ張るのが分かる。ぼくはそれを両手で押さえつける。
「自分で脱ぐ。子ども扱いするなって」
 するとジャイロはぱっと手を離して両掌を見せ、ひらひらと振って見せた。
 本当だ。この帽子も重く湿っている。ぼくはくしゃくしゃになった髪を軽く後ろに撫でつけ、湿った掌と帽子を火にかざした。
 帽子を脱ぐと、無防備な気持ちになる。被っているのが普通だから、ちょっと落ち着かない。
「アップダウンが激しいな」
「明日のルート?」
「今日のおまえさんのこと」
 コーヒーを淹れる手を休めてジャイロが言う。
 そうやってちゃんと正面から見られると、妙に反抗心みたいなものが湧いてぼくは目を逸らした。
「明日になれば平気さ。明日は晴れるだろ」
 渡されたコーヒーに小さくありがとうを言い、ぼくは火傷しそうなそれを飲み干す。地獄のように熱い。地獄で生まれた太陽を飲み干したかのようだ。
「ジャイロ」
「ん?」
「君のキスって甘いの」
 試してみるかとは言われなかった。ジャイロは馬たちの視線から、世界から隠すようにそっとぼくにキスをした。コーヒーの香りが鼻先からふわりと立ち上り眉間のあたりで溶けて、ぼくは泣きそうになるのを隠す。目を瞑る。

 眠る前に彼の歌を聴いてやった。
 やっぱり変な歌だけど、一応紙に書き留める。




2013.2.5