イズ・ユー・イズ・オア・イズ・ユー・エイント・マイ・ベイビー 3




 ちなみに、と仕事上がりの医者は夕刻の交差点で修道女に話しかける。
「おたくの部屋に泊まろうとした猛者は誰よ」
 するとホット・パンツはその表情だけ神に隠して悪戯でもするように、ほんのちょっと唇を吊り上げた。
「お前お気に入りの坊やだ」
「ジョニィ!」
「お前が怒ることか?」
 その言葉を背中で聞きながらジャイロは駆け出していて、アクション映画の撮影かと思うほど乱暴な運転で車を走らせアパートに戻る。どかどかと階段を駆け上がり蹴り飛ばす勢いで玄関のドアを開けると不意にかぎなれない匂いがして、瞬間的に女だと思った。
 そして勿論、女だった。非常に望ましくないことではあったが。
 部屋にはジョニィとブルネットの女がいて、ひそひそと小さな声で会話を交わしながら笑っているところだった。ジョニィは女を壁際に追い詰め、服の上から指先で下着のラインをなぞっていた。女は掌を背中の壁に押し付けたままだったが、次にキスをすればその腕は間違いなくジョニィの首に絡みついたことだろう。
 ゴッ、と重く硬い音が響いて二人が慌ててこちらを振り向いた。
「てめえ…何してやがる」
 壁を殴りつけた痛みはジャイロには届かなかった。
 ジョニィは一瞬驚いたものの、すぐ冷静な目になった。むしろ、面倒だなとでも思っているかのような目だった。慌てているのは女の方で、太腿を捲れ上がりかけているスカートを引っ張り、この場からなんとか逃れられないかと視線をきょろきょろ彷徨わせた。
「何のつもりだ、ジョニィ」
「今僕が何をしているのかって?ごくプライヴェートなことさ。君に関係あるか?」
「あるね。ここはオレの部屋だっつってんだ」
 ジャイロはずんずんと近づくと女には目もくれずジョニィの胸倉を掴んだ。
 女は引き攣った笑顔を浮かべながらズリズリと壁伝いにジョニィの腕を逃れ、邪魔しちゃ悪いわねあたし帰るまたねジョニィまた今度と早口に言い切ってドアをバタンと閉めた。
 その一秒に詰め込まれた別離が半永久的なものだろうということは女慣れした彼ら二人でなくても分かることで、ジョニィがその目に敵意を漲らせるのも当然と言えたがジャイロは怯まないし同じような視線でジョニィを貫く。
「はっきりさせておきたいことがある」
 ジャイロはジョニィの胸倉から手を離し、コツ、コツと拳で壁を叩いた。
「ここはオレの部屋だ」
「で、僕は居候だって言うんだろう」
「出て行くか?」
「馬鹿馬鹿しい。彼女もいなくなったのに…」
 ジョニィが床に唾を吐き捨て瞬間的にカッとなったが、そこは理性で押さえつけた。
 しばらく沈黙が部屋を支配し、高い電圧の下視線だけが交じり合う。目を逸らすことはこの場合において敗北や逃走を意味するので、きっかけは他者から与えられるものでなければならなかった。そして帰宅したばかりのジャイロのPHSが鳴るのだ。
 帰ったばかりで申し訳ないが、と一応気遣う前置きを挟んでの無情な呼び出し。仕事にかこつけた逃走にも思えて癪ではあるが――どうしてオレが逃げなきゃならない?――再び上着を羽織りジョニィの目の前を通り過ぎる。黙ってドアの外に出たが自分の無言にも背後の無音にも腹の底が落ち着かず、もう一度ドアを開けた。
「床!拭いとけ!」
 ジョニィが吐き捨てた唾を指さし、今度こそドアを閉めた。

 帰宅は日付の変わる前だが、もう夜中近い。あてにしていたデリもシャッターが下りていて、ジャイロは仕方なく空腹を抱えたままアパートに帰った。
 ジョニィの夕食は期待できない。冷蔵庫の中身は、と思ったが最後に買い物に行ったのはジョニィだったのもあり上手く思い出せなかった。ケチャップの瓶はジョニィだ。ハーブの缶もジョニィ。いやあれは冷蔵庫の中じゃなくて、戸棚の中だ。ビールは?あったような気がする。食い物…腹が減った。家に帰るということは母親の手作りの料理が待っているということ。だがそれも子ども時代の話だ。社会は世知辛く、納得して生きるということは思う以上に難しい。
 ドアを開けた。
「おかえり」
 暗い部屋の中から声が聞こえた。明かりはキッチンにだけついたものらしく、玄関から見える部屋の中はほとんど真っ暗だった。手が習慣のままに鍵を壁にかける。カチャリと音がして、不意に耳から半身にかけて鳥肌が立つ。合鍵と自分のかけた鍵の触れ合う音だ。
 キッチンでは椅子に腰掛けたジョニィがモップにもたれかかるように軽く項垂れていた。
「掃除した」
「ああ」
「君が言ったから。でもそうじゃなくても僕の番だった。唾を吐いたのは謝る」
 ジョニィは身体を起こし、背を反らして伸びをする。
「何か食べる?」
「作ったのか」
「今から作るよ。あったかいものが食べたいだろ」
「お前は?」
「まだ。君を待ってた訳じゃないぜ?」
 椅子に座って待つ。部屋の電気を点けずにいたので、見えるのは台所の明かりとジョニィの背中だけだった。出されたのはお得意の――あるいはいつもの――パスタだ。暗いよ、と言いながらジョニィが電気をつけた。ジャイロは瞬きをする。
「食べる前にもう一つ謝っておく」
 正面に座り、ジョニィが言った。
「君がもうすぐ帰ってくるってのに女の子を連れ込んで悪かった。ああ、分かってる。君にバレなきゃいいって話でもないんだろ。ここは君の部屋だし、僕は家賃さえ払ってない居候だ。常識的ルールに従おう。君の嫌なことはしない」
 右手を挙げて宣誓。
「これでいい?」
「…怒ったか?」
「君がドアを閉めた後舌打ちはしたけどね」
 部屋に知らない女を勝手に連れ込んだことに関して怒るのは主として当然の権利としても、明日か明後日にはジョニィと彼女が別れるだろうことに関して責任は感じないでもない。しかしジョニィは思いの外ぼんやりした表情で、執着なく、まあいいや、と呟いた。
「食べよう。食べてよ、冷める」
「…いただきます」
「どうぞ」
 自分も浮名を流すタイプだが、ジョニィも相当に女遊びはしている。故の執着のなさだろうか。ジャイロがジョニィの中に熱意を見いだせない瞬間は幾つかあった。ガールフレンド、アルコールといった一般的人生の享楽に対する倦んだ瞳。ジョニィはアルコールを入れても目を濁らせることはないが、楽しそうに笑うということもない。心からの笑顔が湧き出すのは馬に乗っている時だけだ。
 ケチャップに汚れた皿が二つ並ぶ頃、ジョニィも何だかぐったりしているので、コーヒーを飲むかと尋ねた。
「うん」
 素直な返事と屈託のない微笑。それを向けられれば立ち上がるのも吝かではない。
 熱いコーヒーを飲み干したジョニィは満足げな溜息を吐いた。
 ジョニィがシャワーを浴びている間に皿洗いをすませ、ジャイロは改めて自分の部屋を眺め渡した。女も、友人も連れ込んだことのない部屋。そこに初めて足を踏み入れ同居さえ始めた青年は床に唾を吐き捨てた。その場所まで歩く。痕はモップで綺麗に拭き清められている。
 自分の匂いがする。長く住むようになり、最初は無臭だったアパートの空気にジャイロという存在が溶けて、彼の部屋になる。今はそこに他人の匂いもする。ジョニィの匂いはコーヒーの匂いと入り混じっていた。そしてかすかに鼻腔を刺激した香水の匂い。女の香水か、とジャイロは唇を曲げた。
 実家を出る際、兄弟から贈り物をされた。少し齢の離れた兄弟たちは父に反発するように家を飛び出す兄に呆れつつも慕っており、伊達男に相応しいプレゼントを贈ってくれた。今まで箱に仕舞って使う機会を逸していた香水の壜を、ジャイロは取り出した。これまでこの贈り物を取り出す時は故郷のことを思い出す時だけだった。ガラスの蓋を開けると、匂いはふわりとジャイロを包み込んだ。身体だけでなく、肉体の中に収まった魂さえ香りに包まれるようだった。ジャイロはそれを床に振り撒いた。
 裸にタオルだけ引っかけたジョニィが、浴室を出た途端に立ち止まって、何?と問う。
「ジャイロ、何かした?」
「ん?」
「部屋が明るい…んじゃない。違う。香りがする。香水?」
「寝ようぜ。明日オレは早いんだ」
「ジャイロ」
 ジョニィの声が心臓に触れる。穏やかな心に、それがよく分かる。
「…もう気にしてねーよ」
 口元で笑うと、髪乾かしてくる、とジョニィが顔を逸らしてバスルームに戻った。
 先にベッドに転がり、手の甲で目を覆う。香水の匂いが一際強く香った。この手にも雫が飛んだか。
 故郷を思い出す香りだった。ジョニィは部屋が明るいと言った。ナポリ湾を輝かせる太陽が瞼の裏に浮かんだ。懐かしい街並み。安心できる家。やさしい母。何も言わない父の背中さえ、光の中にある。
 向こうで電気のスイッチを落とす音が聞こえ、闇が身体を包み込んだのが分かる。ジョニィは遠慮がちにベッドに上った。広すぎるベッドだが、その端も端にジョニィはいるようだった。ジャイロが背を向けてやるとほんの少し距離が縮まり、相手も背中合わせに横になったのだろう、遠くに吐き出される溜息が聞こえた。
「ジャイロ…」
 小さな声が聞こえた。
「ごめん」
「もう謝るな。十分だ」
 ジョニィの吐き出す息が微かに震えていた。
「言わずにはいられなかったんだ。変だな。急に子どもみたいな気分になっている」
「かわいい坊やだな」
「僕は子どもの頃、素直に謝ったりできない人間だったよ。…今でもそうか」
 だから言える時に言っておく、とジョニィが呟くのでジャイロは向き直り、向けられた背中を腕を伸ばして引き寄せた。
「言えるうちに言っとくのはそういう科白じゃないんだぜ、ジョニィ」
「…ありがとう?」
「よくできました」
「僕は何に感謝したんだ?」
「寛大な友達にだろ」
「よく言うよ」
 暗闇の中でジョニィの笑顔が気配となって伝わった。
 いつもの距離で、暗い天井にお互い息を吐く。
「今日は疲れた。おやすみ」
「うん、おやすみ」
 瞼を閉じるとあとは眠りの中に一直線だった。久しぶりに子どもの頃の夢を見た。見知らぬ友達と馬に乗る夢を見た。

 雨が降り、寒い日が続く。カレンダーの日付は刻々とクリスマスに近づき、ジャイロはジョニィにサンディエゴ独身男協会からの誘いを伝えた。
「その日はバイトだ。その定例会とやらは七時からなんだろう?」
「遅いのか」
「ラストまでだよ。クリスマスに予定がないのは僕くらいなんだ」
「だからこっちの予定ができたって言えよ」
「じゃあもう来なくていいって言われるね」
「おまえ、しょっちゅうサボってるじゃねーか。クリスマスくらい抜けて来いよ。それとも、ジョニィ、オレたちのバンドよりバイトが大事だっつーのか」
「君との友情に勝るものはないさ。ただ僕は貧乏なんだ、バイトを馘になったらスロー・ダンサーに乗れなくなる」
 ちょうど週末のストリートライブを終えたところだった。地下鉄のホームには列車が走り抜けるたび冷たい風が吹き抜けた。ジョニィはギターを片付けながら、残念だけど、と言った。
 他にも何か言いたいことはあるのかもしれなかった。しかしジョニィは口を噤んだままそれを漏らそうとはしなかった。同じ屋根の下に暮らしているが、ジャイロはジョニィの過去をよく知らない。それはジョニィもまたそうだ。
 ジャイロはまだ抱いたままのギターを爪弾く。出鱈目なメロディが次第に形になるが歌詞が乗らない。
「新曲」
 と呟くと、
「寒い」
 とジョニィは断固言った。
「名作の予感がするぜ…」
「ジャイロ、僕は、尻が、凍りそうだ」
「氷結のケツ…」
「それ、歌詞にするなよ」
 結局、新曲は未完成のままクリスマス当日を迎え、ジョニィを連れて来なかったジャイロはサンディエゴ独身男協会のメンバーからブーイングを食らう。
「しょーがねーだろ、バイトだっつーんだから」
「でも、来て欲しかった」
 ルーシーが心から残念がるその隣で、
「攫ってこい」
 と仁王立ちしたホット・パンツが腕組みをして睨みつけた。
「オレに言うなよ、オレに」
 ジャイロは辟易しながら男どもの輪に逃げ込む。マウンテン・ティムがいた。いつもの帽子を被っているのですぐに分かった。
「何でてめーまでいるんだ」
「スティール氏に声をかけたら快く入れてもらえた。…ジョニィは?」
「おまえもか」
「ジョニィ抜きで歌うのか?」
「去年もそうだったろ」
「そして皆が二日酔を酷くした訳だ」
「その帽子踏むぞ。頭に乗せたまま踏むぞ」
 だが特別顧問の許しが下りず、ようやくギターを弾き始めた頃にはほとんどの人間が酔っ払って歌など聴いてはいなかった。
 二、三曲を歌い終え黙々とギターを片付けていると、ルーシーがビールを持ってやってくる。
「それともワインがよかった?」
「いや…」
 ジャイロはそれを受け取って口をつけようとしたが、不意に時計を見上げた。ジョニィはまだコーヒーショップにいるだろう。クリスマスにあの不味い店にやって来るのはどういう客なのだろうか。遅くなるだろうか。それとも客が来なくて早仕舞いだろうか。
「ジョニィがいればよかった」
「ルーシー…」
 もううんざりだ、と手で制すると、
「一番そう思っているのはあなたよ」
 笑顔で投げられた言葉に肝が冷えた。
 ジャイロはビールを返した。
「それよりも神の血を?」
「いいや」
 水をくれ、と言うとルーシーは微笑んで人混みに姿を消した。水を持って来たのは来月めでたく花婿になるスティーヴン・スティールだ。
「悪いな会長、給仕させて」
「名誉会長だ。なに、ホストの役目に過ぎん」
 水を飲み干したジャイロが椅子に座ったままなので、スティールは不思議そうな顔をする。
「行かないのか」
「どこへ」
「抜けてもいいぞ」
 逡巡は長くなく、悪いな、と軽く頭を下げるとスティールはニヤニヤ笑いながらシッシッと手を振った。
 バーに立ち寄ってワインを一本手に入れ、徒歩でコーヒーショップに向かう。雨の降り出しそうな夜だった。吹きつける風は鼻の奥まで凍らせるようで、痛い。ギターもワインもそれなりの荷物だった。が、苦ではなかった。
 シャッターの下りたコーヒーショップを見て、しばらく佇みはしたが悪態は堪えた。しかしアパートまでの道のりが酷く長かった。街角のイルミネーション、建物の窓も明かりに満ちているのに。すれ違う人々は幸福そうに手を繋いでいる。誘えば女の方が断らないし、それより先に女の方からジョニィに声をかけるだろう。ジャイロは振り向かず部屋を目指した。
 部屋は真っ暗だった。想像はついていたことだった。キッチンにも浴室にも明かりはなかった。ジャイロはギターを下ろし壁を手で探ったが、指は合鍵に触れず、急に電気を点ける気をなくした。
 ワインだけ冷蔵庫に仕舞った。青白い光に照らされた台所を振り返ったが、食事をした様子もない。約束通り、連れ込みはしなかったか。合鍵があるから、朝帰りをしても安心だ。
 ジャイロはベッドに倒れ込もうとし、シーツの上に手を滑らせてギョッとした。ジョニィがいた。小さくうなされていた。
 名前を呼ぶことも躊躇われた。ただ悪夢を見ている風でもなかった。届かない懺悔を繰り返しているような苦しげな声だった。
 ――クリスマスの夜に…。
 ジャイロは、俯せに、ほとんど顔を埋めるようにして苛むものに堪えているジョニィの背中に触れた。背骨を上から一つ一つ数える。そしてそれが腰まで来た時、たった一つ盛り上がった骨に気づく。
「ジャイロ…」
 出し抜けに聞こえたのは、地の底から呼ぶような低い声だった。
「…起きてたのか」
 しかし応える声はなかった。寝言だったのだろうか。起きているのか、眠っているのかも分からない。自分の掌は冷たいのに、ジョニィの身体はもっと冷たい。
 ジャイロはジョニィの身体を抱き寄せると、腕に強く力を込めた。単純に力を込め、単純に強く抱き締める。ジョニィの息が詰まる。
 そうだ。抱擁が必要だ。
 腕を緩め、大きく溜息を吐いたのは自分だった。ジョニィは腕の中で弱々しく息を吐いた。
 ジャイロはもう一度腕の中にジョニィの身体を抱いた。
 ――抱擁を。
 ジョニィから匂うのは、アルコールの匂いでも女の匂いでもない。コーヒーの匂いだった。
 やおら、瞼の裏が明るくなった。故郷の景色を思い出していた。
 抱き寄せ、胸に抱く。ジョニィの身体が温まっているのに気づく。自分の掌もだ。
 このまま眠ったら、明日の朝ジョニィは何と言うだろうか。その時はその時だ、二日酔だとでも言おう。
 冷蔵庫の中のワインを思い出した。
 パタン、と瞼の裏で扉が閉まる。

 二日後、サンディエゴの街中にも雪が降った。二人はストリートライブを中止し、アパートの部屋でワインの乾杯をした。



2013.7.31