イズ・ユー・イズ・オア・イズ・ユー・エイント・マイ・ベイビー 2




 冷たい雨が窓を打つ。ここ最近、急に寒くなった。暗い雨雲のせいで日暮れはいつもより早く感じられた。ガラス窓の内、病院の廊下は煌々と明かりが灯っていたが、反する静けさが電球の光をより白々しく冷たいものにする。
 ロッカールームを出たジャイロは掲示板の前で立ち止まった。初老の男が一枚のプリントを貼り付けるところだった。男が四隅をピシリとピンで留めたそれは、十二月のこの時期、恒例の告知でもあった。
「スティーヴン・スティール」
 オーナーの名を呼ぶと男は振り向いて、眼鏡の奥から鋭い視線をくれた。
「ジャイロか」
 スティーヴン・スティールは自分を呼んだ男と貼ったばかりのプリントを見比べ、
「君、今年も参加するかね?」
 と、ゴシック体で書かれたサンディエゴ独身男協会定例会の文字を指の背で叩いた。
 ジャイロが働くこの総合病院はサンディエゴ一の規模で働く人間も百人をゆうに超える。内、およそ半分が男性職員。既婚の割合は存外に高く、独身者は更にその半分くらい。その中でもプリントに記された十二月二十五日の夜を誰かと一緒に過ごすあてのない者たちがいる。そんな寂しい者たちをオーナーのスティーヴン・スティールが集め、我々一つ屋根の下に働く者同士だ、家族のようなもんじゃないかと始めたクリスマスパーティーがこのサンディエゴ独身男協会定例会である。
 病院内のプレイルームで開催するパーティなので、クリスマスに外泊できない入院者なども顔を出す。面子は入れ替わるがそれでも毎年二、三十人の参加があり、それなりに賑わっていた。ジャイロも去年と一昨年参加しており、ギターを持参して歌を披露している。
「どうかな。来るかもな。いや、来ねえかもなぁー」
 ジャイロがニヤニヤ笑いながら答えると、スティーヴン・スティールもニヤニヤ笑いながら言った。
「私は君を次期会長にと推しとるんだ」
「は?」
「ホット・パンツも賛成してくれているぞ」
「何だと?」
 この会はジャイロがアメリカにやって来る前から続くもので、会長は長らくスティーヴン・スティールだったがルーシー・ペンドルトンとの婚約によりこのたびめでたく名誉会長となった。ちなみに名前の出たホット・パンツは特別顧問として毎年顔を出している。
「おいおい、オレをいつまで独身でいさせるつもりだ、スティーヴン・スティール」
「君がステディを作ろうとしないのが悪いな」
「そうでもないだろ」
「そうかね?まあいい。何なら君の相棒も連れて来たまえ、特別に許可しよう」
「ジョニィか?」
「そうそう。最近一緒に住み始めたと言うじゃないか。特別顧問の許しも出ているぞ。相棒のコーラス付きなら君の歌を我慢してやってもいいとね」
「まあ、考えとくさ」
 立ち話をする間に空は一層暗くなった。山間部は雪だろうかと考えながら通用口のドアを押し外へ出た瞬間、表通りからけたたましくタイヤのスリップする音。音が聞こえただけなのに、ジャイロも思わず目を瞑った。
 鉄の潰れる音、悲鳴、カーアラームが大音量で響き渡る。表に飛び出すと雨の下、まさしく惨状が広がっていた。三台の玉突き事故の上、先頭の車が押されて歩道に乗り上げていた。タイヤの下に人間がいるらしい。
「大丈夫か、返事をしろ!」
 回り込むとよく通りで見かけるホットドッグ屋台の店員が血まみれの顔で見上げている。
「先生…ちょうどよかった…めちゃめちゃ痛ぇ……」
「待ってろ、すぐにどかしてやる」
 病院の玄関からも次々と人が出てくる。ジャイロは冷たい雨に濡れるのも着替えたばかりの服が血で汚れるのも構わずその場で応急処置を始め、やって来た職員に大声で指示を出した。
 青年がようやく院内に運び込まれる時、冷たいものが頬から首筋に触れた。ジャイロは一瞬だけ通りを振り返った。雨は霙に変わっていた。

 汚れたシャツをコインランドリーに放り込み、椅子にどっかと腰掛ける。洗濯機の表面の白さも、電球の白々とした光も、今は逆に心地よい。何も考えたくないほど疲労していた。身内を切るなとはよく言われる言葉だが、ほんの顔見知り程度であっても心は揺れるものだ。だがそれはメスの切っ先を狂わせる言い訳であってはならない。
 ――感傷を捨てろ、か。
 ジャイロは父の口癖を思い出していた。それは教訓でありジャイロの人生への警句でもあった。
 分かっているが、父ほど冷徹に生きることはジャイロには難しい。母はよく自分と父の若い頃は似ていると言ったが、外見に現れる相似はともかく、ジャイロの知る限り父の若い時分が激情タイプであったという話は聞かない。母はもっと本質的なものを見抜き、そう言ったのだ。
 本質を受け継ぐ。自分はイタリア、ナポリに続くツェペリ一族の長男ジャイロ・ツェペリだ。そのことを改めて思い出す。父と一族の教えはジャイロの身体に染みついていた。それが今夜のジャイロと患者を救った。心を静め、メスを握った手を一ミリの誤りもなく操る。オレはそれができるように教育されてきた。ツェペリ家は昔、処刑人の一族だった。今でこそその稼業は医師一筋だが、父は今でも死刑囚の死を目の前で見つめ続けている。ツェペリ家の歴史は生と死で編まれている。メスを握った自分が何を為すべきかをオレは知っている。
 屋台のアルバイトの青年は一命を取り留めた。手術には何時間かかったろうか。壁の時計を見上げる。もう夜中近い。
 ぬっと現れた影が天井の明かりを遮った。
「ジャイロ」
「…よう、サンディエゴ独身男協会特別顧問」
 ホット・パンツがコーヒーを片手に立っている。病院に併設された教会の修道女であるホット・パンツは、修道女という言葉から連想される貞淑な雰囲気は一切持ち合わせておらず、むしろ威圧感でもって目の前の者を圧倒する。ジョニィはサンディエゴに来て早々、彼女に懐いたがしかし「あのままショットガンとか持って西部劇に出てそうだよね、彼女」と評した。そう言いつつ、隙を探しては口説いているらしいが。
「大変だったな」
 遅い帰りだったのか、それとも事故を聞きつけて駆けつけたものか、ホット・パンツは病院で目にするには珍しい私服姿で気安い印象だった。ジャイロが両手で顔をこすりながら、おう、と不明瞭な返事をすると、隣に腰掛け紙コップのコーヒーを手渡す。ジャイロは小さく礼を言い、口をつけた。
「不味い」
「そう言うとは思っていたが、大概失礼な男だな、お前は」
「いや悪くねーよ、生きてるって感じがするぜ。不味いけどな」
 ジャイロはコーヒーを飲み干し、ごちそうさまと息を吐いた。コーヒーの温度にぬくもった息が腹の奥からあたたかく流れ出る。
「あんたも今、帰りか」
「まあ、そうと言えばそうだ」
「何、オレのこと慰めに来てくれた訳?」
「全くそのつもりはないが」
 敢えてそう口に出すのがホット・パンツだ。いつもの彼女らしいやり取りに日常を取り戻すようで、今は逆に笑いが漏れる。そこは嘘でもイエスって言っておけよと言おうとしたが、神の教えに背けと修道女に向かって言うのもどうだろうか。
 肩の力が抜け、あくびが出た。ジャイロはプラスチックの椅子にもたれ天井を仰ぐと大口を開けた。
「まだ降ってるのか」
「外は霙だ。山に近い道路は凍結しているらしいぞ。事故処理に来たマウンテン・ティムが言っていた」
「あいつ来たのか。顔出しゃいいのに」
「オペ室に顔が出せるものならな」
「ああ…」
「そういう訳だ、送っていけ」
「歩いて帰れよ、どうせ一ブロックもねーだろ」
「傘がない」
 断ろうとしたところ、手の中の紙コップを指差された。中身は空だ。全部飲み干してしまった。
「安すぎるんじゃねーの?」
「いつもサンドイッチをたかっておいて何を言う」
「分かったよ。どーせ一ブロックもねえんだ。オレもそこまでケチな男じゃあないぜ」
「勿論そうだろう」
 地下駐車場で耳を澄ます。街を冷たく打つ音が遠く響く。電灯はぽつぽつとしか灯っておらず、肌で感じる以上に寒い。ホット・パンツがくしゃみをした。
「早くしろ」
 急かされてロックを解除する。コンクリートの床と天井に反響する電子音は鼓膜を一直線に貫き跳弾し、妙に傷ついたような心地がした。レーザービームのような電子音に貫かれ、穴だらけの身体だ。妄想に過ぎない。肉体を運転席に詰め込み、ドアを閉じた。
 一ブロックはあっという間だった。しかし濡れて歩くには憂鬱だろう。病院の前には飛び散ったフロントガラスの破片や歩道に描かれたタイヤの痕といった事故の痕跡が生々しく残り、霙に打たれて凍てついていた。道路は滑りやすく、歩道には人影どころか犬の仔一匹いない。街灯が光を落とす側を通り過ぎるたび、ホット・パンツの憂鬱そうな横顔が青白く照らし出された。
 車が停まると、ホット・パンツは夢から覚めたような顔をした。
「世話になったな。ありがとう」
 感謝の言葉は素直で棘がない。
「滑って転ぶなよ」
「じゃあエスコートしろ」
「それならもう一杯コーヒーをもらわねえとな」
 ホット・パンツはふと口を噤み、何故か笑みを浮かべた。
「…何だよ」
「お前は泊まっていくと言わないな、ジャイロ」
 助手席のドアが開き、霙が夜の道路を叩く冷たく陰鬱な音が耳を打つ。
「オレは家に帰りたいんだ…」
 家と口にする、その時ジャイロの脳裏を幾つかの光景がよぎった。幼い頃開けた玄関、十三歳になって母親から改めてもらったキス、父親の背中、名前、ジャイロと呼ぶ声。
「…帰るわ」
「おやすみ」
 ホット・パンツはドアを閉めると、霙に濡れないように腕をかざしもうジャイロの車を振り返らなかった。ジャイロは今度こそアクセルを踏み込み、自分のアパートへ向けてUターンした。

 階段を上った薄暗い廊下の先に蹲る影があって、思わず足を止めた。ギョッとする恐怖ではなく、寧ろ目が覚めるようにハッとした。ジョニィ・ジョースターが膝を抱えて蹲っていた。上着の肩だけではない、脱いだ帽子も濡れているらしい。髪の毛も雫が滴った形のまま湿って固まっている。傘を持っている様子はない。勿論そうだ、ジョニィは何も持たずほとんど身一つでジャイロの部屋に転がり込んだのだ。唯一の荷物と言えばあの晩のストリートライブで使った借り物のギター、それだけ。
 ジョニィは膝に顔を埋め半分眠っているように見えた。少しアルコールの匂いもした。どれだけ待っていたのだろう。ジャイロはちらと腕時計に視線を落とした。真夜中はとうに過ぎている。
「ジョニィ」
「ああ…ジャイロ……」
 ジョニィはそれこそ目が覚めたかのように顔を上げた。遅いと詰られるかと思ったが、ジョニィはそれ以上何も言わなかった。壁に手をつきながらズリズリと立ち上がろうとする。ジャイロが思わず手を貸すと、鋭い視線が一度だけちらりと見上げ、悪いね、と短い言葉が床に向かって吐かれた。
 ドアに鍵をさし込みながら、手を貸したジョニィを気づかれないように盗み見た。
 ――家の鍵を…持っているのはオレだけだ。
 ジョニィは俯き、感覚のない足を懸命に動かそうとしている。
 そのままベッドに倒れ込もうとするジョニィの服を脱がせ、洗濯物の中から自分のTシャツを押しつけながら再び背中を盗み見た。腰の骨の影はなかった。銃創に視線がいくと、疼いたのだろう、ジョニィが顔を上げた。気づかれた。しかしジョニィはやっぱり何も言わなかった。彼も相当疲れているらしかった。立ち仕事。アルコールはどこで?しかし匂いはすれど、酔いの気配はどこにもない。瞳も疲労に伏せそうにはなるが、決して濁っていない。
「…君は寝ないのか?」
 ベッドから離れようとするとジョニィが言った。
「歯、磨いてくる」
 そう、とジョニィは目を伏せ、おやすみ、と呟いた。
 寝室の明かりを消し、ジャイロは外からドアをそっと閉めた。溜息をつき、片手で顔を拭う。汗をかいている気がした。シャツを脱いでソファの背に放りながら、冷たい夜気が心地良かった。
 キッチンに佇み、軽く俯いて耳を澄ます。アパートを包み込む霙の音はもう遠くなり始めていた。朝が来る前には止むだろう。
 雨音に包まれた静寂の中に秘するこそ相応しい秘密であるようにも思われた。これが雪の降りしきる下の静謐であれば尚よい。雪は自然界に存在する美しい結晶だ。
「ツェペリ」
 自分の姓を呟いた。そこに込められた祖先の魂と父の名、受け継がれたものを思った。そして自分はツェペリ家の男だと思った。
 棚の奥に隠していた鉄球は、掌に心地良く馴染んだ。回転させる、その感触を忘れていない。十全に満ちるのを感じる。これは、現代の科学では用いられないこの技術はツェペリ一族が代々受け継いできたものだった。回転こそ力。自然に学び、敬意を払え。
 瞼を開く。ジャイロの掌は黄金比でできている。それは父もそうだ。祖父も。ツェペリ家の長男は代々そのように訓練されてきた。
 回転を完璧に近づける。集中力は限界まで使い尽くしたと思ったが、今少し。頭の中に描くのは鍵の形。アパートのドア。待ち続けるジョニィ。寒くて脚が動かなくなるほどだったのに、あいつはどうして何も言わなかったのだろう。
 鉄球を元の場所に隠し、出来上がった合鍵を眺める。自分の持つものと瓜二つだ。無論、そうでなければドアが開かないのだが。
 翌朝何と言って渡そうか考えたが、それより眠気が勝った。ジャイロは涙を浮かべながらあくびをし、のろのろと寝室に入った。広いベッドの隣に倒れ込む、一度空気が舞い上がってまた静かになった。聞こえるのはジョニィの寝息だけだった。結構揺れたのに、起きなかったらしい。
 静かだ。雨がいつの間にか止んでいる。その下で寝息を立てるジョニィが、その寝息を身体に染みこませる自分が生きているなということが不味いコーヒーよりも確かにそれを感じさせて、ジャイロは眠りに落ちながら口元で淡く笑った。



2013.7.28