未完成鎮魂歌




 最初の死を思い出す、という言葉は奇妙な気がした。死は一度きりのものだ。死にかけていて目覚めたのなら、それは死ではなかったのだ。瀕死ではあったかもしれない。しかし生きている。生の続きだ。死は全ての断絶、終焉、表が裏になり、裏が表に返る。全てが逆さになる。太陽の世界から闇の世界へ。苦痛から主の救いへ。
 だから、
「オレが最初に死んだのは…」
 と思い出すのは奇妙なことだと、事実口にしながらジャイロ・ツェペリは思う。
「ミルウォーキー…?いいや、あれは生きながら木の実にされかけたんだ、死んじゃいない。じゃあどこだ……。フィラデルフィア。海岸線がすぐ側まで迫っていた。引き寄せられていたんだ、一人の女の子に。オレはその女の子を守ろうとした。彼女を馬に乗せたよ」
 夜の冷たい空気が忍び寄っていた。それは火照った身体に心地良かった。何故自分の身体はこんなにも熱いのか。生き返ったから…?
「あなたが最後に見たものは?」
 目の前の少年が尋ねる。夜のオープンカフェに乾いた砂漠の国の風が吹く。少年はテーブルに頬杖をつき、ジャイロの話を聞いていた。ジャイロは言いかけた言葉を飲み込み、口を噤んだ。自分はこの見知らぬ少年に何を語っているのだろう。美しい顔立ちをしている。ジョニィも――オレの色男ぶりには敵わねーだろーが――なかなか綺麗な顔をしているが、目の前のこの少年は朝焼けの黄金の風のような爽やかさと、そこに響く鐘の音のような強い美しさがあった。神が自ら祝福を与えたかのようなブロンド、深いブルーの瞳は魂の奥底まで見透かすかのようだ。
「…おまえ、いつからそこにいる?」
「あなたが来るより早くここにはいましたが」
「そうか」
 ジャイロは周囲を見渡した。大きな通りの交叉するこの場所は一体どこか。見慣れた街ではない。否、見知らぬ街なら幾つも旅してきた。だが全く匂いが違う。隣のテーブルから聞こえてくる言葉も耳慣れない。それに、他にも空いた席はあるのだ。何故相席などしているのか。
 立ち上がりかけたジャイロに、少年は座るよう促した。
「慌てることはありません。話の続きをしましょう」
「ちょい待て、オレは…」
「あなたが最後に見たものは?」
「何の話をしている」
「あなたが最初に死んだ時、最後まで見つめていたものは?」
 掌を、見た。指先にあるものを見た。鉄球を。ヴァレンタインの老いた姿。荒れ地を覆う波。ジョニィ。
「黄金長方形の軌跡だ…」
 ジャイロは呟く。
「無限の回転に繋がる…。それがレッスン5だった。オレは」
 オレの手の中に真球の鉄球は戻らなかったが。
「ジョニィに」
 全ては伝えた。レッスンも。感謝も。さよならの言葉も。
 波が視界を覆う。全ての輪郭が溶け、一つになり、白く輝く。
「オレはフィラデルフィアで死んだ」
「それが始まり」
 半ば譫言のように呟いていたジャイロの意識が再び街中に戻される。テーブルを挟んで座る少年は頬杖をやめて真っ直ぐジャイロを見つめていた。
「始まりだと」
 尋ね返しながらD4Cに傷つけられた胸を探る。傷痕はない。血も出ていない。痛みもない。
「オレが、死んで、生き返ったとでも言うのか?」
 少年は片方の眉を上げただけで答えようとしない。ジャイロは笑いながらテーブルを強く叩いた。
「死んで、蘇ったという訳か。奇跡だな。もう一度奇跡を起こせば聖人認定間違いなしだぜ。傑作だ、オレやあいつが求めていたものが……」
 ジャイロはまた不意に口を噤み、周囲を見渡した。都会の夜の喧噪が二人を囲んでいた。眩しいほどの街灯。それにどの建物も背が高い。しかもピカピカ光っている。それに濁った空気。走り去っていったのは自動車だ。サンディエゴの浜辺、ファーストステージのスタート前に見た。ドイツから来た貴族の乗り物。おい、バンバン走ってるぞ。どこだここは。ヴァレンタインはどうなった。オレはヤツを倒すことができなかった。ルーシーは?オレの鉄球を持っていたジョニィは。
「ジョニィ……ジョニィ・ジョースターがあなたの最後に見たもの、ですか?」
 心を読まれたかのような恐怖があった。
 ブロンドの少年は審判者のような目でジャイロを見た。ジャイロは一瞬そこに畏れを感じた。回転、鉄球の技術について学ぶ時、大自然や自分の父を含めた祖先に対して感じる畏敬の念と同じようなものが自然と湧き上がってくる。
 駆け引き。有りだろう。だが嘘をついてもきっと相手は見抜く。否、嘘をつく必要もない。
「分かった、答えよう」
 ジャイロも正面から少年に向き合った。
「全て、だ。オレが最後に見たもの、黄金長方形の軌跡を描く回転。無限の回転の中に全てがあった。真理も、オレとオレの一族の歴史、一八九〇年九月二十五日にスタートした北米大陸を横断する旅、オレとジョニィの旅、オレの教えたもの、あいつから教わったもの、オレたちの戦いも敗北も、それに勝利も」
「あなたの魂に刻まれた過去の全てが?」
「いいや、全てだ。レッスン5。オレは全てをジョニィに教え、ジョニィに託した。オレの見つめたあいつの中には未踏の河、未知の岸辺、未来があった。オレの辿り着かなかったゴールも、ジョニィの中にはあった」
 最後に見たもの。
「全てだ」
 少年は音を立てずに茶をすすると、蕾の綻ぶような笑みを浮かべた。それは一瞬のことだったが、本物の花が咲いたかのようにジャイロには見えた。――少年が植物のように見えた。
「次はオレの番だぜ。おまえは何者だ」
「名前はジョルノ・ジョバァーナ。それが僕の肉体と魂の名前です。生まれた時につけられた名前は汐華初流乃ですが、僕の正体、それこそあなたの言葉を借りれば僕の全てがこの名前です」
「同郷らしいな、ジョルノ。で、これから何が始まろうってんだよ」
「あなたに、覚悟はありますか?」
 ジョルノと名乗った少年は立ち上がり、乾いた石畳の広場へ歩いてゆく。一歩、二歩と、ゆっくり。
「何の覚悟だと?」
「真実に到達する覚悟が」
 その時ジャイロの目に、ジョルノと重なってもう一つの人影が見えた。半ば透けて見える。しかし形ははっきりと分かる。しなやかなプロポーションは美しいが同時に人間のものではない。全身を覆う金属的な輝き。白金のような眩しさの中から二つの眼球がこちらを見据える。
「あなたはその二つの鉄球で戦うんですね。それに…馬に乗るのか」
 鼻息が頬を撫で、ジャイロは腰を浮かし慌てて振り向く。ヴァルキリーの姿がそこにある。
 ジョルノは続ける。
「ここはエジプトのカイロ。僕の父にあたる男が死んだ街ですが、それは僕には関係ありません。それにこれから始まる戦いにも」
「戦い…」
「僕らは戦う。そしてこの戦いが終わった時、あなたは全てを理解する。その時に全てが始まる。ジャイロ・ツェペリ、あなたに終わりなき旅へ出る覚悟はありますか?あなたが最後に見たという全てを追って終わりのない旅を続け、それでも真実に到達しようという覚悟が」
 終わりはない、とジョルノは言う。到達しようとしながら終わりがないのであれば、それは到達できないのかもしれない。その恐怖、その絶望に打ち克つ覚悟を、目の前のこの少年、ジョルノは要求しているのだ。爽やかに、とてつもない覚悟を。
 腰の鉄球に触れる。真球。分かる。手に馴染んでいる。
 ジャイロはヴァルキリーに跨がり、ジョルノを見下ろした。
「ガキが偉そうなことをぬかすじゃねえか。おまえ、生意気だって言われるだろ」
 ジョルノは、ふ、と笑みを漂わせ戦いの姿勢に入った。背後の影は今や触れ得るほどにはっきりと形を成している。スタンドだ。
「覚悟が道を切り拓く」
 眩しい光が二人を照らし出した。通りの向こうから突っ込んでくる自動車。それを合図に二人は動き出す。
 最後の記憶は相手スタンドの拳が無駄無駄という金属的な叫びと共に無数に叩き込まれヴァルキリーから落馬した、というものだ。それが正しく二番目に体験する死であったのかどうかはジャイロ・ツェペリ本人にも判然としない。ジョルノのスタンドに殴られたのはそれなりに効いたが倒れるほどではなかったのだ。寧ろ自分の繰り出した鉄球にこそ、それなりの手応えがあった。
 再びヴァルキリーに乗ろうとして伸ばした手の先にあるのは既に暗闇だった。その先の記憶がない。

          *

 乾燥した草のような匂いがした。
 瞼を開く。
 広い部屋だった。部屋と呼んでいいものか、柱はあるが壁がほとんどなかった。紙でできた簡単な戸がわずかに仕切るだけで、明るい庭が丸見えだった。しかしこれだけ開けているのに、屋内はしんとした蔭に満たされていた。
 せわしなく虫が鳴いている。暑い。半身を起こすと首筋や背中を汗が伝い落ちた。
 ――いつの間に眠っていた…?
 横たわっていた床は草を編んだマットだ。かぎ慣れない草の匂いはこの床から一面に満ちている。蔭もこの匂いも清涼なのに、不快な暑さがねっとりとまとわりつく。下着のような簡素な服はじっとりと汗に濡れている。ジャイロはうなじにまとわりつく髪を払い、
「ジョニィ」
 と思わず呼んでハッとした。
 当たり前のようにジョニィが側にいると思っている。否、いるはずなのだ。直感がある。
 涼しげな鈴の音が鳴った。ジャイロは音のした方へ首をひねった。軒下にガラスでできた小さな鈴がぶら下がっている。庭に近いところは、そこが外縁の廊下にあたるのだろうか、磨き抜かれた床板が黒々と光っており、中央にぽつんと木桶が一つ。ジャイロはよろめきながらそれに近づく。丸々としたウォーターメロンが一つ、水に浮かんでいた。溢れた水は床板を濡らし、青空を反射する。ジャイロは恐る恐るつま先で濡れた床を踏んだ。
 ――冷たい。まるで現実だ。
 自分の裸足を見下ろしている奇妙ささえ感じない。
「ジョニィ!」
 今やジャイロはその名を大声で呼ぶことに疑問も持たない。
「あっちーな、早くスイカ食おうぜ」
 返事はない。
「ジョニィ?」
 その時物陰から、チュ、と小さな鳴き声が聞こえた。ああ、と気が和らぐ。あいつだ。
 しゃがみこむと木桶の影に顔を覗かせる小さな姿がある。
「おめーかよ」
 ジャイロが気安く呼ぶと奇妙な姿をした精霊は、チュミミィーンと鳴いた。
「お前のご主人はどうした」
 タスクはヒソヒソと何かを囁きながら木桶の中のスイカに取りつく。冷たくひえた表面にぴっとりと張り付き、動かない。
「暑いのか?だよなあ。ったくジョニィのヤローどこに…」
 ジャイロがスイカに触ろうとすると、タスクが小さな手を伸ばし触らせまいとする。
「意地悪すんなよ」
 チュミ、ミ、と鳴くその声に意味や区別は見出しづらい。ジャイロは笑いながらスイカに手を伸ばし、指先が触れた瞬間、ようやくタスクの行動を理解した。
 警告だったのだ。分かりづらいが。
 床板を踏む足音が聞こえる。裸足の足音と杖をつく音。
「ジョニィ…」
 口の中で囁くと、タスクのいつも泣き出しそうな瞳が潤んで、また小さく鳴いた。
 もう呼ぶことはできなかった。スイカに触れた指先から始まり腕も、胸も、頬にも顎にも無数の穴が空いていた。そこから漂うのは細い煙、自分の肉が内側かが焦げる匂い。
 煙にしみる目を細めると紙でできた戸にジョニィの影が映る。
 ――あと一歩…!
 その姿を見る前にジャイロの身体は内側から爆発し、白煙と共に消えている。

          *

 身体を焼く熱に耐え切れず前につんのめると、頭から泥に突っ込んだ。
「何だこれ…」
 水道管でも破裂したのだろうか、石畳が浮き道路に泥が溢れ出している。タイヤの沈んだ自動車、傾いた街灯。
 ジャイロは黙って頬をつねる。
 ――痛い。
 子どもじみた方法で現実を確かめ、顔の泥を払う。
 立ち上がって周囲を見渡すともうすぐ夜明け前のローマの街並みが広がっていた。ローマだとすぐに分かった。父親の使いで何度か訪れたことがあったし、なによりあのコロッセオを見まごうはずがない。ジャイロは濡れた手でもう一度顔を拭った。細かい雨が優しく降り注ぎ異常な状態に陥った街角を柔らかく包み込んでいる。
 ――だが、さっきの夢よりは現実らしい…。
 掌を見下ろし、頬や胸を確認する。どこにも爆発の穴はない。火薬の匂いもない。しかし自分の肉体が爆散する痛みと熱はあまりにもリアルにジャイロの中に残っていた。
 ――本当に死んだかのような、夢…?
 ジャイロはコロッセオに向かって歩き出す。街角のあちこちに人が倒れている。触れてみたが死んではいない。呼吸も脈も穏やかだ。おかしなことだが、ただ眠っているだけのようだった。人も、動物も、建物も、ローマの街全体が優しい雨に打たれて眠りについている。
 その中で立つ姿が一つ。その姿はジャイロには見慣れたものだった。
 馬は立ったまま眠る。
「スロー・ダンサー…?」
 初老のアパルーサ。ジョニィの馬。間違いない。そうと分かれば…。
 ジャイロの目はすぐにその姿を見つけ出した。離れた場所、歪んだ街灯の下にジョニィが倒れている。
「ジョニィ…!」
 助けなければ、と駆け寄るその際、泥にタイヤを半分沈ませた自動車の横を通った。
 泥に足が取られた。短く悪態をついて足を抜こうとしたが、そのまま膝までもずぶずぶと沈んでしまう。
「おいおい何だ…?」
 次の瞬間、足を掴まれたかのように勢いよく泥の中に沈んだ。全身がだ。手が泥を掻き分けもがいたが、ローマの街並みは視界から消えあっという間に泥の闇に覆われた。
 どこまでも沈む。沈み込む。息ができない。叫ぼうとした口を泥が塞ぐ。液状化した泥は鼻の穴にも容赦なく流れ込み、断末魔の声さえ許さない。
 沈み続ける恐怖と息苦しさが極限まで達し、意識は途切れる。

          *

 耳の痛くなるような静寂、というがあまりにも静かなので自分の身体の中に響く神経系の音さえ障ってその痛みで目が覚めた。
 ――いや、息が……。
 と思った瞬間に咳き込む。鼻も喉も普通に呼吸をしている。ジャイロは耳の穴に指を突っ込み、そこに詰まったものを掻き出そうとした。泥が詰まっているはずなのだ。しかし何も触れるものはない。
 大きく深呼吸をしてみた。湿って黴くさい夜の空気が肺と喉を行き来する。
「うぇ…」
 しかし舌の上にはまだ泥の味が残っている。ついさっきまでそれを飲んだかのようなリアルな記憶。
 真夜中のようだった。だが夢から覚めたと言うには些か無理のあるシチュエーションだった。埃まみれと冷たい床に横たわっていた自分の身体。明かりの射す方へ目を向ければ石造りのテラスが広がり、その先に見える景色は岩山と断崖。かかる月は血を吸ったように赤い。
「あんた、そこの物好きさん」
 不意に自分を呼んだらしい声が妙に懐かしく聞こえて、ジャイロは振り返った。そこにはシルクハットに白い服とそれなりの装いをした男が口髭の下の唇の端を持ち上げ奇術師のような笑みを浮かべている。
「ぼーっとしとると、死ぬよ」
「は?」
 おぞましいうめき声が闇の奥から襲い来る。ジャイロは反射的に鉄球を放った。腐った肉を貫く音が汚らしく響いた。
「鉄球、回転、悪くはない。だが彼奴らを倒すには!」
 男が息を吸うと身体中にエネルギーの満ち溢れるのが分かった。筋肉が、拳が、まるで光でも纏うかのように、生命のエネルギーを漲らせる。輝く拳が闇の中を振り抜けると、腐った肉を引きずった化け物が殴られたところから霧のように消滅した。まるで物語のゾンビだ…。
「おいオッサン、これは夢かよ」
「夢なら死にゃせんかもしれんが、私は戦うことをオススメするね。あんたにその気があるなら」
 ジャイロは手元に戻ってきた鉄球を再び放る。今にも自分の頭に食らいつこうとしていたゾンビの顎から下が砕け、胸を大きく抉る。
「で、おたくさんは何やってんだ?夜中にゾンビ退治か?」
「そりゃ見たままだろうて。ジョジョが戦っとるんでな、外野を静かにさせておるところよ」
「ジョジョ?」
 ジャイロはテラスに目をやった。大男のシルエットが月を背に佇んでいる。すっかり戦闘態勢に入っているのだろう。その巨躯からは目の前の男と同じようなエネルギーとパワーが満ち溢れていた。
 大男の視線は随分と低い位置に注がれていた。
「君が本当にその名だというなら、これも宿命なんだろう」
 重機関車のような威圧感を持ちながらも大男の声に含まれているのは敵意ではなく厳粛さであり、いっそ穏やかな言葉にも聞こえた。
「ああ、間違いないよ。ぼくの名前はジョナサン・ジョースター。きっとこれがぼくらの血の運命だ」
 月がもう一歩空の階段を上り、テラスの上を照らし出した。石の床の上座り込んで大男を見上げる後ろ姿は。
「ジョニィ!」
 大男がこちらを見る。ジョナサン・ジョースターを名乗った小柄な後ろ姿が振り向く。だがその首が振り向ききる前に二人の間を隔てる何かが落下してくる。
 錆びた鉄のシャンデリアはジャイロの身体を押し潰し、その上で楽しそうにゾンビどもが跳ねる。
「だーから言ったのに」
 ――クソッ。
 シルクハットの男が言うが聞こえて悪態をついたが、もう潰れた指一本動かすことはできない。

          *

 雨上がりの中庭に佇んでいる。ジャイロ・ツェペリは雨に濡れた掌を見下ろし、一つ一つ自分の身につけているものを確かめた。見慣れた靴を履いていた。見慣れた服を着ていた。襟あても捲り上げた覆面もどれも見慣れたものだった。父の仕事を手伝い始めた十三のあの日からジャイロ・ツェペリという男の人生に染みつき、肌のように慣れた装束だ。
 処刑人の姿をしたジャイロは今一度中庭を見渡した。四方を囲む壁は高く、入口にも窓にも鉄格子が嵌まっていた。雨に洗われても尚におう薄暗く陰鬱な空気もまた慣れたものだった。ここは囚人たちの館、そしてこのどこかでは血が、命が罪を贖う昔からの儀式が執り行われているに違いなかった。
 ――だが、何の為にここへ?
 手にしているのは大振りの剣。自分はこれを振るった後なのだろうか、それともこれからなのか。刃は雨に洗われて一点の曇りもない。
 顔を上げると屋根の向こうに虹が見えた。二重、三重に虹はかかっている。美しいが妙な天気だ。
 妙と言えばこの中庭も妙なのだ。あちこちに蛙が死んでいる。それも数匹ではない。何十という蛙が庭を埋め尽くしている。青い肌の蛙をジャイロは直感的に触れてはならないと感じた。きっと毒を持っているはずだ。
 入口の一つを覗き込むと、鉄格子の向こうに一人の男が倒れているのが目についた。若い男は怪我をしているらしく、冷たい壁にもたれかかったまま動かない。
 大丈夫か、と声をかけようとして反射的に喉が塞がる。自分はこの若い囚人を処刑するためにここにいるのかもしれないのだ。
 ジャイロが声をかけあぐねていると、男の顔が上がった。静かな瞳がジャイロを見た。
「…………」
 男は何かを囁いたらしい。だが声は届かず、しかも唇がほとんど動かないせいで何を言っているのか分からなかった。
「何だ…?」
 ジャイロは思わず一歩近づいた。
「今、何と言った」
 怪我をした囚人は血にまみれた腕を持ち上げ、ジャイロの背後を指さす。
 ジャイロは首を巡らせた。中庭を挟んで向こうの壁、小さな窓の向こうを人影が通り過ぎる。
 ――まさか。
「おい、おまえ!」
 叫び、ジャイロは鉄格子を揺さぶった。
「何を知っている。どこまで知っている。てめーは何者だ!」
「何も…」
 ようやく小さな声が届いた。
「オレはあんたの囚人じゃない。それだけ」
「あいつが来るってのか。あいつの首をオレに刎ねろと…」
 口に出した言葉がそのままジャイロの胸を圧迫し、科白が続けられない。足音はもう近づいている。向こうの入口の前まで来ている。
 錠の外れる音。鉄の扉が軋みながら開く。そして首を落とされる運命の囚人が姿を現す。
「…ジョニィ……」
 確かにジョニィだった。項垂れているがその姿の全てに見覚えがあった。
 神様、と縋ることはできなかった。奇跡を祈ることさえ忘れていた。
 処刑人の装束をまとい、斬首のための剣を手にしている。
 ネットに弾かれたボールは地に落ちたのだ。処刑人と囚人が相まみえた時、運命は決定している。
 ジャイロは退くことも前に進むこともできず身体を硬直させた。考える先から思考が霧のように消える。オレがジョニィの首を斬る…?
 不意に大声が上がった。囚人を護送していた刑務官が警棒を構えている。ジョニィが手を持ち上げたのだ。手錠をされたままの手を持ち上げ、指先をこめかみに当てる。
「やめろ、ジョニィ!」
 ようやく出た大声に刑務官たちが振り向く。だがジョニィは俯いて指先をこめかみに当てたままだ。その目は死んでいない。しかし彼を突き動かしているものは希望でもないのだ。
 背後で囁く声がした。怪我をした囚人が手を翳している。その瞬間、雷鳴が轟き重たいものが空から降ってきた。大粒の雨、ではなかった。真っ青で、鳴きながら降ってくる生きた雨。蛙だ。
 蛙はどさどさと音を立てて降り注ぎ、あっという間に視界を覆う。刑務官たちが悲鳴を上げて倒れる。ジャイロも露出した顔面や腕から毒に侵蝕されるのを感じた。毒は神経に食い込み猛烈な痛みを引き起こす。皮膚が爛れ、膝をつく頃には呼吸も阻害されている。それでもジャイロは顔を上げた。ジョニィを見た。
 ジョニィは蛙の雨の只中に佇みながら全く頓着していないようだった。周囲の刑務官たちが苦しみ倒れているのを不思議そうに見つめ、ようやく顔を上げる。
 その目を見ることができた。淡いブルーの瞳。ジョニィだ、と思う。だがしかしその瞳に自分の姿が映る前にジャイロの身体は爛れきって地に伏す。

          *

 西日が眩しく瞳を刺した。ジャイロは膝をついたまま目を伏せ、手をつくことでよろめく身体を支えた。
 手が砂に触る。砂漠の砂ではない。命を育む砂ではない。
 ぬけがらの砂だ、とジャイロは思った。ようやく瞼が開いた。
 壁に幾つもの丸い穴が空いていた。切り口は鮮やかで、一瞬にして削り取ったもののようだ。例えば自分が鉄球を岩に食い込ませた時、高速の回転が真球の形に岩を削り取るように。しかし壁の穴の巨大さは、その力の禍々しさを感じさせる。
 漂う死の気配は、ここで死んだ者のだけではない。自分にも近づいているものだと、もうジャイロには分かっていた。
 ――ここでもオレは死ぬ。
 だが、
 ――ここにもジョニィはいるはずだ。
 レコードのような溝の刻まれた床を、薄暗い階段に向かって歩く。この世界のどこかにもジョニィはいて、そして生き、生き続けようとしている。それがジャイロには分かっている。
 またジャイロには自分がジョニィに触れ得ないだろうということも理解され始めている。その視線さえ交わすことができない。すぐそばにいながら触れ得ない。言葉も届かない。
 だが、それでも。
「覚悟ができたようですね」
 階段の上の暗がりから声がした。ジャイロは口元を歪めて笑った。
「ジョルノ・ジョバァーナ」
「僕はゴールド・エクスペリエンス・レクイエムの能力を正しくは把握していない。でもその囁きから、あなたの姿から、何があったのかは想像できます」
「オレにも分かってきたぜ。勉強料はちと高くついたがな」
「それでも先に進みますか?」
「ジョニィがいるなら、オレはそこまで辿り着くさ。てめーをもっぺんぶちのめしてもな」
「もう十分ですよ」
 その囁きはすぐ背後に聞こえた。階段の上にジョルノの姿はない。
「あの戦いで、あなたは勝っていたんです」
 振り返ると声は消え、ジョルノは穴の空いた壁にもたれかかっている。
「鉄球の回転、あなたが言った黄金長方形の力は僕の身体を弾き飛ばした。次元を超えて、ありとあらゆる世界にぼくの肉体と魂は散らばった」
「…じゃあてめーは幽霊か」
「僕はジョルノ・ジョバァーナですよ。それが僕という存在の名」
 次に姿が消えたかと思うと、さきほどぬけがらだと思った砂がさらさらと音を立てて立ち上がりジョルノの姿になる。それは人形ではない、血の通う――ように見える――肉体をもったジョルノだ。
「遍く場所に僕は存在し、命を生み出し続ける…。けれどその話はまた今度ゆっくりしましょう。もうすぐ日が暮れる。僕らは街角のオープンカフェでお喋りをし、戦いを始める。その前にあなたは次の場所へ行かなければならない」
「何だ…ここにジョニィはいないのか」
「いますよ」
 壁の穴からジョルノは下を見下ろす。ジャイロも近づき、身を乗り出す。
 殺気も敵意も、気配さえなく、掌が優しく背中を押した。しかし優しく押されるだけで十分だった。ジャイロの身体は中空に飛び出し、重力に従って真っ逆さまに落ちる。
「てっ……」
 てめえ!と叫ぶ間もない。ばたばたともがいたせいで身体は捻れ、ジャイロは顔面から地面に叩きつけられる。

          *

 あらゆる街角で、あらゆる空の下で、あらゆる世界でジョニィを見つけ、そして死んだ。日本の街角で落雷に遭い、古代の闘技場で馬に轢かれ、見知らぬ青年に石で殴り殺されたこともあったし、死は実に多種多様だった。しかしジャイロは思う。まだまだだ。オレたちツェペリ一族がこれまで扱ってきた死に比べれば自分の経験した死などものの数ではない。
 それにジャイロは今までに見た全てのジョニィを覚えている。この永遠とも思える時間与え続けられる痛み、苦しみ、死と同じだけの価値が全てのジョニィ一人一人にある。だから。
 ジャイロ・ツェペリは瞼を開く。ナポリの駅構内だ。プラットホームにはフィレンツェへ向けて出発する列車が最後の乗客を待っている。それは自分ではない。ジャイロは首を巡らせた。
 もうすぐ近づく。もうすぐその顔を見ることができる。たとえ指一本触れられなくても。たった一声かけることができなくても。それは切なくジャイロの胸を蝕む痛みになるが、もうすぐ会えるという期待が痛みをも凌ぎ笑みを浮かべさせた。諦めまじりの、ちょっと歪んだ笑みだったけれども。ジャイロに言わせれば――「諦めじゃあない、納得しただけだ」。
 列車の入り口から身体を半分出した車掌が背後に合図をする。列車は重たい音を立て、ゆっくりと動き出す。もう出てしまうのか。するとコンクリートの床を踏み駆けてくる足音。ジャイロも振り向く。
 若い男が走ってくる。つばの広い帽子が飛ばないように片手で押さえながら。帽子の下の顔立ちは少年のように幼いがもうすぐ二十歳なのだ。真夏の構内の熱い空気になぶられ首筋には汗が浮いていた。走って余計にふき出したことだろう。澄んだ水色の瞳が動き出した列車を捉える。口元を歪め、吐き出したのはまた言葉の悪い罵言に違いない。ジョニィ、お前は変わらないな。
「走れ」
 ジャイロは呟く。
 かつて力なく地面に投げ出されていた脚が、怪我をしても痛みにさえ知らぬ顔でたらたらと血を流すだけだった脚が、今はあんなにも力強く走る。コンクリートの床を蹴り、一歩一歩から生きた力が溢れ出す。
「走れ、ジョニィ」
 ジョニィ・ジョースターは変わってゆく。少しずつ成長する。同じジョニィに出会ったことは一度としてない。今日も佇むジャイロの目の前を一散に通り過ぎる。吹き抜けた風の中には懐かしい匂いが混じっている。異国の地においてもその身体に残った北米大陸の風の匂い。あの広大な大自然を吹き抜ける風。ジャイロは後ろ姿を見送りながら微笑む。どれも同じジョニィではないが、ジャイロのよく知るジョニィだ。
 帽子を押さえていた手を伸ばし入り口の手摺りを掴む。ジャイロはよく知っている。あいつは脚が動く前から上半身はきっちり鍛えてたんだ。ここまでくれば大丈夫だぜ、多分。腕が身体をぐんと引き寄せホームを蹴った脚がデッキに着地するのを見て、ジャイロは口笛を吹いた。
 それは列車の走り出す音、構内のざわめきにまぎれたはずなのにジョニィは振り向く。しかしジャイロの姿をその目に捉える前に走り出した列車の風に吹き飛ばされた帽子が二人の間の視界を遮る。
「ジョニィ…!」
 その名を呼ぼうとしながら、ジャイロはもう目の前まで迫った運命に気付いていた。ジョニィの頭を離れた帽子は線路に向かって落ちようとしていた。ジャイロは走り、腕を伸ばす。しかしほんの指先分届かない。
 次に足を蹴った時、自分の身体が完全に宙に浮いたのを感じた。手は帽子を掴んだが、その身体は落下する。線路の上、しこたま身体をぶつけて悲鳴を上げたくなるが、最後にもう一度走りゆく列車を見上げた。デッキにはまだジョニィの姿が。
 しかしそれを恐ろしい勢いで遮る巨大なものが、もうすぐ側まで近づいてきていたのだった。ちょうど向こうからやってきた列車が。
 やれやれ今度は轢死か、ちと痛いぜ。諦め――「納得、だ」――の笑みを浮かべるジャイロの代わりに列車が断末魔のようなブレーキの悲鳴を上げる。ジャイロは次元を巡ってジョニィから自分の手へ帰ってきた帽子を顔の上に載せ、目を閉じる。

          *

「痛ってえええええええ!めちゃめちゃ痛ぇぞ畜生ぉおぉおおおおおおお!」
 自分の叫びで目が覚めた。
 瞼を開くと明るい陽射しが優しく瞳を射た。午後だろうか。潮の香り、そして意識に遅れて潮騒が聞こえる。ジャイロは周囲を見渡した。地面が奇妙な形に隆起していてその向こうは見えないが、確かに海の側のようだった。捩じれて立つ大きな木の根元にジャイロは横たわっていた。胸の上にはいつもの帽子が載っていた。ため息をついて木の根の上、もたれかかった。
 死ぬ瞬間の凄まじい痛みを覚えている。どれだけ覚悟していても痛みを封じることはできない。鉄球の力をしても駄目だった。ボール・ブレイカー、あの力をもってすれば…とは何度も考えている。だがそれ以上にヴァルキリーに会いたい。最後に戦ったあの場所で離ればなれになってしまったヴァルキリー。我が愛馬は無事だろうか。あの後、幾つの次元を巡っても愛馬と出会ったことはない。馬にさえ、一頭とて。
 ジャイロは薄く目を開けた。深い針葉の隙間から射す木漏れ日が目の上を撫でる。見たことのない青空だ。淡く、澄んでいる。
「今度はどこだ…?」
 誰に向けられたものでもない問いが涼しい潮風に飛ばされる。
「また、おまえに会えるのか、ジョニィ」
 耳を澄ませば潮騒と、風に揺れる梢の清かな囁き。砂が流れる。このあたりは砂地か。あまり人も通らないのだろうか。柔らかな砂の音。
 砂を踏む足音。
 ジャイロはがばりと身体を起こした。
 砂を踏む蹄の音だ。
 遠くから馬に乗った人影がやってくる。立ち昇る蜃気楼がその姿をはっきりさせない。だがそのシルエットには見覚えがある。
「いや…」
 帽子の形が違うだろうか。だが、騎乗したその姿をジャイロは毎日毎日見つめてきたのだ。最後の戦いの日まで、意識を失う直前まで。
「帽子の趣味、変えたか?」
 ジャイロは微笑を浮かべる。運命の中には既に呑まれている。が、ボールはまだネットのどちら側に落ちたとも決定していない。
 ならば奇跡を信じ。
「ジョニィ…」
 奇跡を祈る。
「ジョニィ……!」
 その叫びに呼応したかのように落下する古木の大枝を鉄球が微塵に砕く。鋭い折れ口でジャイロを射貫こうとした大枝は木っ端となって降り注ぎ視界を遮るが、その向こう馬が歩を速めたのが分かる。足音はしっかりと聞こえてくる。
 名前を呼んでいる。まだ聞こえない。
「早く来いよジョニィ、でねーとおまえが虫刺されフェチだって大声で言いふらすからな!」
 最後は笑いながら叫ぶと、向こうも負けじと叫び返すのが聞こえた。
「ふざけんなジャイロ…!」
 脚がしっかりと鐙を踏みしめている。馬は美しく走っている。走るという心地良さに身を任せ、この天と地の間に生を受けたことを感謝するかのように。
 そして騎乗した男はこう叫ぶのだ。
「ユリウス・カエサル・ツェペリ!」
 これだ。この唯一の名が自分とジョニィの二人を結ぶ。
 地面が唸りを上げ、不穏な振動が近づく。落ち葉がガサガサと鳴る。正体の見えない死の襲来に背筋が総毛立つ、が。
「諦めねえってのはおまえの十八番だったもんな」
 いっちょおまえを見習うかよ、とジャイロは口元に不敵な笑みを浮かべた。しかしその面貌は実に嬉しそうに笑っていた。



2013.7.21